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2013年4月 8日 (月)

だまされることの責任 願望と事実の混同

 今回取り上げるのは、オウム真理教を取材した映画『A』で知られるドキュメンタリー映画監督、森達也氏の著書『いのちの食べ方』です。私がこの著書及び森氏の存在を知ったのは、大学で履修していた児童文学の講義で担当教員が紹介してくれたことによります。確かあの講義ではアメリカのヤングアダルト作家であるロバート・ニュートン・ペックの『豚の死なない日』をテーマにしていたと記憶しています。その背景に関連する著書として『いのちの食べ方』を講義の最後に紹介してくれました。それが、私がずっと愛読することとなる「よりみちパン!セ」シリーズとの出会いでした。

 この『いのちの食べ方』は、私たちが毎日口にする肉の加工について、多くの人が知らずにいる状況に疑問を発することから始まります。なぜ、ほぼすべての人の生活に深くかかわる話題であるはずなのに、その実態が知られていないのか。考えてみれば確かに不思議なことです。森氏は、東京都中央卸売市場食肉市場への取材を通じ、国内における食肉の歴史や部落差別についての解説と持論を披露します。その中で、私たちが持つ差別意識や、「当たり前」とされることを盲信することによる思考停止の危険性にも触れます。様々な情報が錯綜する現在において、自分の意志で主体的に思考し行動することの重要性を認識させてくれる森氏の著書は大変大きな価値を持つでしょう。

 今回は『いのちの食べ方』から「だまされることの責任」という章を紹介したいと思います。前回取り上げた「ああすれば、こうなる」型思考との関連を考えながら読んでいただければ幸いです。

 第二次世界大戦が終わったとき、つまり日本が全面降伏をしたその後に、「国民は軍部や政治家たち、そして新聞にだまされていた」との世論が盛り上がった時期がある。だから日本は勝ち目のない戦争に突き進んだという理屈だ。ところがこれに対して、「だまされることの責任」を説いた人がいる。映画監督の伊丹万作という人だ。とてもいい文章を書いている。「戦争責任者の問題」というタイトルのエッセイだ。 

 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知っている範囲ではおれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつ分からなくなってくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はっきりしていると思っているようであるが、それがじつは錯覚らしいのである。たとえば民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中へ入ればみな上の方をさして、上からだまされたというだろう。上の方へいけば、さらにもっと上の方からだまされたというだろう。すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくらなんでも、わずか一人や二人の知恵で一億の人間がだませるわけがない。つまり日本中が夢中になって互いにだましたりだまされたりしていたのだと思う。

肉を食べる話からずいぶん違うほうにきてしまったようだけど、でももう少しこの話を続けさせてほしい。なぜなら「いのちを食べる」ことに無自覚であることの意味を考えるうえで、とても重要な示唆をこの話は含んでいる。

 つまりだますものだけでは戦争は起きない。だますものとだなされるものとがそろわなければ戦争は起こらないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかないのである。
  そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己をゆだねるようになっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無責任などが悪の本体なのである。

 戦時下で、当時としては最大のマスメディアである新聞が、戦争を翼賛する報道に変わってしまったことを批判する人は今も多い。三国同盟や国連脱退など、日本が軍事国家へ向かう道筋をたどるときの大きな節目で、これを賞賛して世論を誘導したのは確かに新聞だ。
 もちろん日本が戦争に突き進もうとするときに、戦意を高揚するような記事しか載せなかった新聞は大いに批判されるべきだ。でも、新聞がなぜそのような報道をしてしまったのかを考える人はあまりいない。軍部や国家からの弾圧に屈して、新聞は戦争を起こすことに賛成するかのような記事を書いたと、ほとんどの人が今でも思いこんでいる。
でも事実はそうじゃない。戦意を掻き立てなければ、新聞は売れなかったからだ。戦争への反対の意見を表明したら、明らかに部数が落ちたからだ。要するに当時の日本国民は、ほとんどが一丸となってだまされることを望み、その結果として新聞をその方向に追い込んだ。
 この構造はそのまま現代にも当てはまる。戦争だけじゃない。日常のいたるところにこの現象はあふれている。すべてを知るのは終わった後だ。皆が呆然と顔を見交わしながら、誰が悪いんだ?誰の責任だ?と言い合っている。でもわかるわけがない。全員に責任があるのだから。

 ここで注目するべきなのは「戦意を掻き立てなければ、新聞は売れなかったからだ。戦争への反対の意見を表明したら、明らかに部数が落ちたからだ。」という一節です。私たちは新聞をはじめとするメディアに何を期待しているのでしょうか。それは、真実をありのまま伝えることではないでしょうか。しかし、実際に起こったことは、真実を伝える報道は注目されず、大衆が「こうあってほしい」という願望を記事にしたものが売れ、事実として扱われるという事態です。もちろん、意識して真実と異なる報道を支持していたわけではないでしょう。それでも、私たちが「批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己をゆだねるようになっ」たとき、「こうあってほしいという願望と事実との区別がつかなくなる」という事態が生じるのでしょう。前回の記事で「公正世界仮説」という心理現象を紹介しましたが、それによる困窮者への自己責任の追及は、まさに「自己責任であってほしい」という願望が事実と混同されている事態だと言えるでしょう。「ああすれば、こうなる」型思考は、願望と事実の混同の一例に当たるわけです。
 権力が国民を支配するために「こう思わせたい」と事実とは異なる情報を吹聴するとき、大衆の「こうだったらいいな」という願望を巧みに利用するものです。願望と事実の混同は、プロパガンダの影響を拡大してしまう危険性を持っています。現在散見される困窮者へのバッシングには、背景としてこのような状況があるのでしょう。しかし、往々にして後にならなければ何が事実であるのかはわからないものです。私たちにできることは、そのようなプロパガンダに対してせいぜい批判的な視点を持つことですが、それこそが権力者の良いようにコントロールされないための最も有効な手段なのだと私は思います。

 視点をメディアのほうに移せば、大戦中のメディアの問題は、戦争を翼賛する報道そのものより、第三の権力としての責任を忘れて市場経済の原理を重視しすぎた点にあると言えるでしょう。メディアも商売として報道を行っているのだから当たり前だという批判もあるかもしれません。しかし、落ち着いて考えたいものです。そもそも事実と異なる情報を真実であるかのように伝えることに経済的な価値があると言えるでしょうか。そういったものに多くの人が嬉々としてお金を落としていく状況こそ、改善されるべき異常な事態です。現在においても、報道機関はその責任を十分に果たしていると言えるでしょうか。批判的に情報を受け取る姿勢を持ち続けたいものです。

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