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2013年5月

2013年5月24日 (金)

いつ幸せになるか? 今でしょ!

 まずこちらの動画をご覧ください。

青木純「走れ!」 <足立区文化産業・芸術新都心構想>編 

これはサラリーマンNEOというNHKのコント番組のオープニングとして使われていたアニメーションで作品です。番組内のコントに漂うサラリーマンの悲哀とマッチした面白い作品だと当初は思っていました。しかし、今になって作品を見てみると、いろいろ突っ込みどころが目につくようになりました。この作品の主人公、赤ちゃんの頃から死ぬ直前まで吊り上った目をして、脇目も振らず走り続けるじゃないですか。そうじゃないのは酒に酔ってるときだけです。それから、突然現れた女性と結婚して、一瞬ベッドをくぐって子どもが生まれるようですが、その女性と子どもはその場に置いてきぼりで、その後もずっと一人で走り続けます。何ともこの国の男性の生き方を的確に風刺した作品ですね。主人公の男性は年老いて杖を突きながらも走り続け、ばったり倒れて亡くなった時にやっと満面の笑みでゴールテープを切ります。一体彼はいつ安らぐのでしょうか。そして、一体彼は何のために生まれ、何のために生きたのでしょうか。この作品を手放しで笑い飛ばすことができないのは、ここで風刺されているような生き方がこの国では珍しいものではなく、むしろメジャーなものとして受け入れられているように感じるからではないでしょうか。

 「現在の手段化」という言葉をご存じでしょうか。ざっくり説明すると、「今の時間」を「将来」をよりよくするために費やすこと、となります。一見すると素晴らしいことのように思えますが、今本当にしなければならないことは何かという人生の本質的な問いから逃げる行為であって、避けるべき行為とされています。避けるべき行為とは言うものの、私たちの日常の感覚からすると、にわかには賛成しにくい説明のように感じます。というのも、私たちが生きるこの社会はこの「現在の手段化」を基調として成り立っているとも言えるからです。というのは、「理想的な生き方かも」という記事でも書いたように、現在の社会は学び・成長の期間、仕事という形で能力を発揮する期間、余生として支えられながら生きる期間と、役割がはっきり分かれているように人生の時間がデザインされています。いわゆる学校教育を受けている期間はあくまで将来発揮するべき能力を身に付ける準備期間であって、あくまで将来の幸福のために備える活動を主に行う期間になります。いわば将来の幸福の総量を増やす競争であるかのように、私たちは勉強や部活動に励みます。では、学生時代を一心不乱に駆け抜けた彼は、めでたく幸せに満ちた壮年期を迎えることができたのでしょうか。

・・・

残念ながらNOですね。相変わらず彼は眼を吊り上げて一心不乱に走っています。準備期間が終われば、ついに培ってきた能力を発揮する期間です。バリバリ働きます。学校を卒業したからといって、競争は終わりません。むしろ本当の競争が始まります。せっかく能力を身に付けても、それを発揮し成果を出さなければ意味がありません。成果を出せば評価が上がって給料も上がるかもしれません。出世もできるでしょう。でも、出世したらしたで競争は続きます。彼には子供もいますから、学費も稼がなければなりません。老後への備えもあった方が安心です。どちらもいわば将来への投資ということになるでしょう。子供と自分の将来のため、お金をたくさん稼ぐために必死で働きます。だから彼は仕事を始めてからもずっと走り続けます。酒を飲んで酔っ払っている間は一見すると幸せそうですが、お酒を飲めば誰でも大体あんな感じになります。彼が学生時代も仕事を始めてからも頑張って走り続けてきたからこそ得られたものというわけではなさそうです。

 電柱でリバースしたところで、彼の服装はスーツからステテコに変わります。仕事を引退して老後の生活に入ったのでしょう。これでやっと競争の煩わしさから解放されるかと思いきや、相変わらず走り続けています。老後の過ごし方については人によって千差万別で一概には言えませんが、特に男性はそれまでバリバリ働いてきた人ほど老後に生きがいを見出しにくく、時間を無為に過ごしてしまうことが多いと聞きます。動画の主人公は死ぬまで走り続け、亡くなると同時に満面の笑みを浮かべます。

「人生の目的とは何か」などと大きな問いを立ててしまうと、ブログの記事なんかで到底答えにはたどり着けそうにありません。ここでは、もっとシンプルに「何のために勉強するのか」「何のために働くのか」ということについて考えたいと思います。もちろん勉強も仕事もとても大切なことですが、これらの問いを置いてけぼりにした勉強や労働に意味はあるでしょうか。上記のような人生の流れを考えると、勉強は将来の仕事において発揮する能力を身に付ける活動であり、仕事は子供や自身の将来に備える活動と言えます。どちらも将来のためにあると考えてしまうと、私たちの人生の価値は、老後においてどれだけの幸福を得られるかという非常に限定された範囲で決まってしまいます。それに異を唱える人は多くいることでしょう。私もそれは間違いだと思います。そのため、「将来のために」というもっともらしい動機で「勉強さえしていれば間違いない」「仕事が何よりも大事だ」と言い切ってしまうのは、間違いだと言えるでしょう。これが「現在の手段化」が避けるべきものだとされる根拠です。

 自己啓発についての記事も書きましたが、そもそもなぜ自分を成長させる必要があり、また成長によって得られた成果をなぜ発揮する必要があるのでしょうか。神戸大学で障害共生支援やインクルージョンを研究している津田英二氏の『物語としての発達/文化を介した教育』に、以下のような一節があります。

 まず、障がい児の発達に至上の価値を見いだそうとすると、昨日より今日のほうが「できるようになった」「よくなった」といった価値の序列、AさんよりもBさんのほうが「よくできる」といった価値の序列が、どうしても起こってしまう。昨日より今日のほうが「できるようになった」といった発達に関心を持ちすぎると、その子どもの幸福の実現という高次の目的が見失われてしまい、他者との比較へと容易に誘われてしまうのだという。
発達への着目は、価値の序列と必然的に深く関わってしまう。しかし、〝障害児者の幸福を存在論的に考えるならば、究極的には、「人間存在」の無条件的価値の把握が必要″であり、そのためには価値の序列を乗り越える「価値意識の変革」が要求される。その「価値意識の変革」とは、〝「障害者観」、「人間観」のなかから、「発達に価値をおく意識」を完全に分離することではないだろうか。″つまり、〝「発達の保障」と「幸福の保障」とをはっきりと分離し、そのうえで、前者がどのように後者に貢献するかを、厳しく吟味する必要″が求められているのだと述べる。

この記事を書き始めた時には、単純に人生における幸福を得るタイミングのみに焦点を絞って書くつもりでした。しかし、書いていくうちに、現在の日本社会において「幸福の実現が人生における最も高次の目標であり、生きる上で行うあらゆる活動はその手段である」という前提さえ共有されていないという実感にとらわれてしまいました。例えば、過酷な労働環境にただ適応することに労力を使い、人間的な意思や良心を放棄している人を「社畜」と揶揄するネットスラングがあります。健康の維持や私的な時間の充実という人間的な幸福より、本来その実現の手段であるはずの仕事を優先してしまうような人が珍しくない状況では、「幸福の実現が最も高次の目的である」という前提が共有されているとは言えないでしょう。よく日本人は勤勉であると他国から評価されることがありますが、私はそれに賛同しません。よく比較されるヨーロッパの、特にラテン系の国家では、労働時間が日本より総じて短くなっています。それは彼らが怠惰だからではなく、働くことがあくまで幸福のための手段であるということの意味を真剣に考えているからでしょう。また、働くことが幸福の最大化に効率的につながるように働き方を工夫し、その結果、国民一人あたりのGDPは日本とそこまで大きな差がありません。また、時間的な捉え方にしても、日本社会においては、人生の期間ごとの役割をはっきり区別することは、ある意味時期ごとの価値や重要性に違いを見いだしているとも言えるでしょう。具体的には、準備期間よりもそれを発揮する時期のほうが重要だと、一般的には考えているのではないでしょうか。私が「理想的な生き方かも」という記事でそのような人生時間の時期による区別を曖昧にしたいと書いたのは、人生において重要でない時期などなく、その価値に順位をつけるような考え方はおかしいと思うからです。かの有名な芸術家、岡本太郎もこのような言葉を残しています。

 「誰かが」ではなく、「自分が」であり、また「いまは駄目だけれども、いつかきっとそうなる」「徐々に」という一見誠実そうなのも、ゴマカシです。この瞬間に徹底する。『自分が、現在、すでにそうである』と言わなければならないのです。(現在にないものは永久にない)、というのが私の哲学です。逆に言えば、将来あるものならばかならず現在ある。だからこそ私は将来のことでも、現在全責任をもつのです。

 以上のことから考えてわかるのは、日本国民の多くが勉強や仕事でよく努力しているにもかかわらず、その努力によっていつ、どのように幸せになるかという方向性を持たずに生きているということです。そして、その答えを置き去りにしたまま、発達のための発達、成長のための成長、努力のための努力とも言えるものに邁進していくのです。私がブラック企業の問題に関心を持ったのも、その発端は日本社会のこういった状況にありました。

 とは言うものの、努力や成長が重要ではないと言っているのではありません。また、どのような社会においても、将来に備える活動もどうしても必要になります。そのすべてがいけないことだと言いたいのではありません。大切なのは、それらの活動と現時点における幸福の実現とのバランスをどのようにとるかということです。もちろん、「目標の大学に合格するために今はすべてを勉強にかける」「独立のためにすべての労力をかける」という時期が人生においてあっても全然問題ありません。重要なのは、それが自分の主体的な計画によるものだということです。では、現実的には多くの人が実行している将来のための投資と現時点での幸福との両立の図り方について考えてみましょう。

 まず、時間的に区別をする方法があります。例えば、「毎日1時間は勉強する」というように、将来への投資にかける時間を習慣的に決めておく人もいるでしょう。反対に「テレビは一日1時間まで」というように、娯楽にかける時間に制限を設けるストイックな人もいるでしょう。しかし、私が重要だと考えているのは、このように将来への投資と現時点での幸福の実現を明確に区別するのではなく、将来への投資をいかに幸福に行うかということです。「仕事居場所論」という記事でも書きましたが、働くというのは何も賃金を得るということだけを目的とした行為ではありません。そこで得られる精神的な満足感というのも仕事を選ぶうえでの重要な要素になっています。また、最近ではゲーミフィケーションといった仕事の過程自体を楽しくしようという工夫も見られるようになりました。大変すばらしいことだと思います(ただ、ゲーミフィケーションに関しては、働く人のQOLに焦点を当てたものではなく、あくまで経営者の目線で作業効率の向上という観点から注目が集まっているようです)。

 しかし、このようなことを言うと「仕事というのは成果がすべてなのだから、その過程の楽しさや辛さなんて関係ない」と鼻で笑う人もいます。その通りです。仕事は成果が最も大切なのであって、過程が楽しいかどうかは成果に直接影響を与えるものではありません。だったら、成果が同じならどんなに楽しく仕事をこなしたって問題ないわけです。関係ないからこそ、成果を出すまでの過程にもとことん拘ろうという考え方もアリなのです。結果も成果も両方大事にしたいと私は考えています。

 「幸せの国」として知られるブータンはGNH(国民総幸福量)という概念を作り出し、国民の幸福を数量で表すことに挑戦しました。やはりそれも、経済発展はあくまで幸福の実現の手段であるという前提に沿ったものだと考えられます。さて、林修先生の例のヤツはもう若干旬を過ぎているとは思いますが、その汎用性の高さにあやかっていってみましょう。

いつ幸せになるか? 今でしょ!

2013年5月21日 (火)

自己啓発派 VS Born This Way派

 前回の記事では、弱者と呼ばれる人たちの問題は当事者とされる人たちだけの問題ではなく、すべての人に関係があるのだということを強調したくて「社会全体の利益」という言葉を多用しました。しかし、私が大切だと思っているのは、その社会全体の利益が何のために存在するのかということです。前回の記事では、宮沢賢治の「世界全体が幸福にならないかぎりは、個人の幸福はありえない。」という言葉を紹介しました。私は「個人の幸福の実現のために、世界全体の幸福は存在する。」と考えています。宮沢賢治の言葉を言い換えただけですが、そのことを念頭に以下を読み進めていただけると幸いです。

 自殺予防活動で知られるNPO法人ライフリンクが、若年者の自殺の増加の原因を探る一環として、就職活動中の学生を対象とした「就職活動に関わる意識調査」を行いました。その細かい結果については、リンクからPDFの資料を見ていただければと思います。この調査結果の中に、何か引っかかるものを感じました。調査項目の中に、日本社会に対するイメージについての質問があります。その結果は以下の通りです。

Q.25: 日本社会は、、、
・いざという時に、「援助してくれる(35.0%)」VS「何もしてくれない(65.0%)」
・やり直しが、「きく社会だ(42.5%)」VS「きかない社会だ(57.5%)」
・正直者が、「報われる社会だ(31.1%)」VS「バカを見る社会だ(68.9%)」
・「希望を持てる社会だ(36.7%)」VS「あまり希望を持てない社会だ(63.3%)

じつに半数以上の回答者が日本社会に対してマイナスのイメージを持っています。次に、困難や問題に直面した際の考え方についての調査結果を見てみましょう。

Q.30: 困難や問題に直面した時、どのように考えるか、、、
・困難が生じた原因を、「自分の中に探る(82.5%)」VS「外部の環境の中に探る(17.5%)」
・「自分だけで解決しようとする(55.0%)」VS「誰かに頼ろうとする(45.0%)」

この調査結果から、困難が生じた原因や対応は「自己責任」と考える人の方がよほど多いということがわかります。さて、この2つの調査結果を並べてみると、何とも不思議な印象を抱いてしまいます。現在の日本社会には何らかの問題があると感じている若年者が多くいる一方で、何か問題が生じた際には自分の中に原因を探る若年者の方が多いのです。どうして、ある種矛盾を抱えているとも言えるこのような結果が生じたのでしょう。

 巷には多種多様な自己啓発の書籍などがあふれています。自己啓発とはザックリ言うと「もっと幸せに生きるために、自分を成長させよう」「もっと成功するために、自分を変えよう」という考え方のことです。ビジネスだったり学業だったり人間関係だったり、自己啓発で取り扱う分野は多岐に渡りますが、「他者や環境を変えるより、自分を変える方が簡単だ」という考えが根底にある点は共通していると思われます。この「他者や環境を変えるより、自分を変える方が簡単だ」という考え方は、多くの人にとってうなずけるものだと思います。自分自身は自分の意識によってコントロールできるものであり、望ましい結果を得るためには、自分を変えるのが一番手っ取り早い手段となります。そこで、多くの人は弛まぬ努力と鍛錬によって自身の能力を高め、自分を変えることによって望んだ結果を得ようとするのです。

 しかし、自分を変えることには限界があります。そして、限界までのラインは人によって異なります。また、その限界によって克服できない能力の不足が「障がい」となるかどうかは、社会のデザインによって決まるというのは、前回の記事で紹介した通りです。前回の記事になぞらえて言えば、望む結果を得るために取り得る手段のうち、自分を変える方針を「個人モデル」、他者や環境を変える方針を「社会モデル」に当てはめることができるでしょう。繰り返しになりますが、多くの人は望む結果を得るためにまず自分を変えるというアプローチを試みます。それは、自分を変える方が他者や環境を変えるより容易だからです(ここで言う「容易」「簡単」というのは、単に「努力の総量が少なくてすむ」という意味ではありません。意識によるコントロールが可能で、努力と成果が結びつきやすいという意味合いの方が大きくなります)。そして、その考え方が障がい者支援にも応用され、まずは障がいを持つ人が可能な限り自力で適応できるように努力し、足りない分を社会的に支援するという「個人モデル」が障がい者支援の主流として活用されてきたのだと考えられます。

 しかし、これでは障がいを持つ人は、限界ギリギリまで努力して初めて支援を受けられるという状況におかれることになります。そのような状況をなんとかするため、障がいを持つ人は他者や環境に働きかけ、自分ではなく周囲を変化させる必要に迫られてきました。そして障がい者は、障がい者運動によって支援制度を作ったり、また直接介助に関わる人との対話によってより良い介助・被介助の関係を築いたりと、あらゆる規模で実現してきましたし、現在でも様々な試行錯誤が繰り返されています。

 さて、話をライフリンクの調査結果に戻しましょう。なぜ若年者は社会に不満を感じながらも、問題が生じた際にはその原因を自分の中に探ろうとするのでしょうか。それは、自己啓発のところで述べた「他者や環境を変えるより、自分を変える方が簡だ」という考えが根底にあることが関係していると考えられます。つまり、「困難が生じた際に自分の中に原因を探る」というのは、「社会にはたくさん問題があるけれど、その状況を変えることなんて自分だけではとてもできそうにないから」という隠れた枕詞が伴った回答であると解釈できるのです。今回の調査が就活生を対象としたものであることも、こうした傾向を顕著にした要素だと考えられます。就活生の立場からしたら、就活の慣行に疑問や不満を感じることがあっても、優先するべきことはまず就職先を確保することであり、就活のあり方を変えるために何か就活生の立場からできることはないかと考える余裕を持つことは難しいでしょう。

 社会保障などの社会的支援を利用する人に対して「甘え」であると非難の声を向ける風潮が現在の日本社会を覆っています。これは、個人モデルを根底に持ち、自助努力に最も重要性があるとの考え方がこの社会に生きる多くの人の支持を得ていることによるのでしょう。しかし、個々人の能力を伸ばす工夫については様々な場面がなされ、もはや飽和状態とも言えるような印象ですが、それぞれの能力を最大限に引き出すことによって社会全体の生産性を高めようという方向性の議論は十分に深められているとは言えません。それは、自助努力による成果は、行動と成果の因果関係が見えやすく、また短期で成果が表れることもあるのに対し、環境の変化による成果は、自助努力によるものと比べて因果関係が見えにくく、得られる成果も長期的なものが多いことによるのだと思われます。そういった要因もあって、環境を個人に柔軟に対応させるための工夫を怠ってきてしまいました。私たちが個人に対し「甘えだ」という非難の声を向けることは、社会の変化を促す機会を逃し、社会を甘やかしてしまうことになるのです

 これまで、私たちは「自分を変える」という安易な手段に依存し、社会を変えるという方向の大切な努力を怠ってきました。2011年にリリースされたLady Gagaのアルバム「Born This Way」は全世界で200万枚の売り上げを記録する大ヒットとなりました。もちろん楽曲としての素晴らしさによる評価もあるでしょうが、この曲に込められた「ありのままの自分を生きることは素晴らしい」というメッセージに多くの人が共感したことが、この大ヒットの要因となったのだと考えられます。また、その背景として、多くの人が個人の変化と成長に依存する社会のあり方に疲弊していると考えることもできます。障がい者やセクシャルマイノリティへの応援メッセージを込めた曲ではありますが、そのメッセージに励まされた人はその枠を大きく超え、多くの人に愛される曲となりました。また、この曲のヒットは、それまでの自助努力による個人の成長によって成り立つ社会のあり方と個人の生き方を見直すきっかけを多くの人に与えたことでしょう。

 では、「社会を変える」「環境を変える」といったことを実現するにはどうすればいいのでしょうか。それを考えるには、まず「社会とは何であるか」を定義しなければなりません。漠然と社会と言うと、非常に大きなものを想定しているように思えてしまいますが、そのじつ社会とは、私たち一人一人のありとあらゆる営みの集積でしかありません。結局のところ社会を変えることは個人を変えることなしには実現しないのですが、その努力の方向性を変えようという話なのです。個人を変える努力はその当人だけに影響を及ぼす「閉じた努力」です。それに対し、社会を変える努力は他者との関係性に作用する「開いた努力」です。具体的には、例えば職場を想定すれば、社員がもたらす利益を上げるために企業の上層部がとり得る手段は、研修等により社員一人一人の能力の向上を図る方向性のものもあれば、社員一人一人の勤務内容や勤務時間などの環境的な要因を変えることによって生産性を向上させるものもあります。「やむなしブラック企業を救え!」って具体的にどうするの?という記事では、多元的人事管理の重要性を紹介しましたが、まさに環境的な要因の改善によって生産性を高めようという方向性の努力の大切さがその根底にあるのです。

 また、個人を変える努力と環境を変える努力は対立的なものではなく、むしろ相互作用によって大きく成果を生み出すものであります。おかれている環境が変われば、そこでの能力の発揮の仕方も変わり、その変化がまたその個人にとって最適な環境のあり方を変化させ、有機的に環境と個人の相互作用が起こります。例えば、前回の記事でも紹介した熊谷晋一郎の著書『リハビリの夜』では、彼が一人暮らしを始めたことから、1人で用を足せるようにトイレを改築していく過程が描かれています。それは同時に彼とトイレとの関係性の変化の過程でもあり、何とも不思議なワクワク感というか、読んでいて冒険心を刺激されるような奇妙な感覚を得ることができます。また、介助の場面における介助者への関わり方によって介助の質を変えていく過程は、まさに介助を受ける側の主体的な呼びかけが持つ役割の大きさを示しています。このように、他者や環境に働きかけ、変化を呼び起こす作法については、障がいを持つ人こそ長けている分野だと言えます。そのスキルをあらゆる場面に応用することにより、私たちはもっと質の高い生を享受することができるようになるでしょう。

 今回の記事では、「他者や環境を変えるより自分を変える方が容易であるため、現在の日本社会ではそういう方向性の努力に重きを置き過ぎている」「とは言え、他者や環境に働きかける方向性の努力は得られる成果が大きいだけでなく、またその過程も楽しく豊かなものにできる可能性を含んでいる」という2点を強調しました。これまで私が、べてるの家に見学に行ったりセクシャルマイノリティのイベントに参加したりしてきたのは、彼らが環境に働きかける方向での努力においては先輩であり、彼らの築いてきたスキルから学ぶことが非常に有用なものであるという確信があるからです。そういうスキルの普及に私自身も何か貢献できればと考えています。

2013年5月14日 (火)

多元型人事管理から多元型社会へ すべての人に社会モデルを!

 以前、「「やむなしブラック企業を救え!」って具体的にどうするの?」という記事を書きました。市場の成熟化と労働市場の変化から、企業の人事管理を多元的なものに変えなければいけないよ、という内容の記事です。よかったら読んでください。この記事では今野浩一郎氏の『正社員消滅時代の人事改革』からの引用をたくさん紹介しましたが、特に強調したかったのはこの一節です。

改めて定義すると「ダイバーシティー・マネジメントとは、多様な人材を組織に組み込み、パワーバランスを変え、戦略的に組織改革を行うことである。ダイバーシティー・マネジメントの第一の目的は組織のパフォーマンスを向上させることにある」ということになり、そこでは人材の多様化(ダイバーシティー)が進むと、組織内の統合やコミュニケーションが阻害される等のコストが発生するものの、異なる情報、価値観をもつ多様な人材からなる集団が形成されることにより組織の創造性、問題解決力等が高まり経営パフォーマンスが向上するという関連が想定されている。

多様な人材を組織に組み込むと、人事管理の面で手間もコストもかかることになります。しかし、組織の創造性などの観点を考えると、人材の多様化は長期的には有益な施策だということです。特にアイディアを活かして高付加価値の商品を世に送り出し続けることが求められるこれからの経済市場においては、企業の経営戦略として非常に重要なポイントだと言えるでしょう。

 ここまでは企業経営についての話でした。今度は視点を社会全体に向けてみましょう。日本の伝統型人事管理は高度成長期の産業構造とも相まって、非常に有効であり、世界からの関心も高かったと言います。そして、社会構造の様々な面がその一面的な人事管理に合わせ、同様に一面的にデザインされてきました。それについては「労働政策フォーラムに行ってきました。―新しい生き方・働き方とは?―」という記事で紹介した戦後日本型循環モデル(資料p.2)にわかりやすく図式化されていますので、ぜひ参照してください。こういった社会構造は、画一的であるがゆえに効率的なものでしたが、多様なライフスタイルを許容する揺らぎをもたず、弊害も多くありました。企業の人事管理に変革が求められるのであれば、当然社会の在り方にも変革が必要ということになります。考えてみれば、日本人のライフコースというのは本当に画一化されており、多数派のコースから外れることがその後の人生に及ぼす影響はあまりに大きなものです。特に時間的な順序については、かなり多様性に乏しいと言えるでしょう。個人的には、必要に応じて短期的にでも教育や訓練の機会を持ち、仕事と学習の相互作用のある豊かな生活を得ることができればと考えています。

 ここで、多数派のコースから不本意な形で排除されている存在の例として、障害について考えるため、ある著書を紹介したいと思います。神戸大学で障害共生支援やインクルージョンを研究している津田英二氏の『物語としての発達/文化を介した教育』は、タイトルだけを見ると教育についての著書なのかと思ってしまいますが、実際は社会学的な示唆を広範に含む、障害の社会モデルについて論じたものです。まず、障害の「個人モデル」と「社会モデル」についての一節を引用します。

多くの人は、障がいは障がい者に属するものとして理解している。しかし、障がい者運動や障害学は、そのような見方に対して、障がいは社会に属しているのだと反論した。一般に障がいとは心身機能や身体構造の不具合のことだと考えられているが、そうではなくて特定の人たちを排除したり差別したり無能力化する社会のあり方や構造のことをいうのだ、と主張したのである。心身機能や身体構造の不具合のことをインペアメントと呼び、特定の人たちを排除したり差別したり無能力化する社会のあり方や構造の問題をディスアビリティと呼んだ。第1章で説明した障がいの「個人モデル」は、障がいとはインペアメントのことをいうと考え、障がい者問題は障がい者個人に属するとする本質主義に則ったモデルである。それに対して「社会モデル」は、障がいとはディスアビリティのことをいうと考え、障がい者問題は私たちの持っている認識枠組みやコミュニケーションがつくりだしているのだとする社会構築主義に則ったモデルであるといえる。

専門的な用語も登場しましたが、社会モデルについて端的にわかりやすく説明しています。社会モデルの説明によく用いられるのがメガネの例ですね。例えば、視力が0.5の人は1.0の人に比べて細かい文字が認識しづらいですね。これがインペアメントです。しかし、0.5の人もメガネをかければ1.0の人と同じように生活することができます。メガネが普及していることによって0.5の視力はディスアビリティではなくなっています。あるインペアメントがディスアビリティになってしまうか否かは、社会がどのようにデザインされているかによって決まります
 さて、私が特に注目したいのはディスアビリティの説明に登場する「無能力化」という表現です。社会のあり方や構造が特定の人を無能力化するとは、いったいどういうことなのでしょう。無能力化という表現に対して「視力が0.5の人は1.0の人より、視力という能力がもともと低いじゃないか」と思った人もいるかもしれません。しかし、ここでいう無能力化とは、視力というある1つのインペアメントがあるために、その影響が他の能力にまで波及してしまうことをいうのです。
 ある会社でメガネやコンタクトレンズの着用を禁じるメチャクチャな規則ができたとしましょう。すると、視力の低い人は事務作業の能率が落ち、会議資料の大事な記述を見落とすためにミスを連発するようになってしまうでしょう。視力と仕事を遂行する能力は独立して存在するものですが、実際に仕事を遂行するにはその両方が揃っていなければなりません。この会社の例では、メガネやコンタクトレンズを封じたことで低い視力というインペアメントがディスアビリティとなり、もともと持っていた仕事を遂行する能力を発揮することができなくなってしまいました。これが無能力化です。

 実際にはメガネの使用を禁じる企業なんてまず存在しないでしょうが、企業が用意している画一的な人事管理システムに当てはまらないという理由で、活躍の場を与えていないという例は数多く存在しているでしょう。例えば、女性の年齢別労働力率に表れるM字カーブなどはその代表的なものです。育児との両立が困難なために、持てる力を発揮できない女性が現在においても少なからず存在します。
 これは人事管理以前の問題ですが、私を例に挙げると、学校という職場において業務量のあまりの多さに様々な業務のパフォーマンスが落ちるという事態に陥っていました。これは過労状態にある人には多く当てはまることですが、長時間の勤務に耐えられないという一点を克服できないことによって、他の職務上必要となる能力を生かすことができないという状態です。つまり、本来インペアメントにならないような要因までもが、社会のあり方や構造によってディスアビリティとして表れてしまうのです。よく「障がいと健常に明確な区別はなく、連続的なものである」と言われますが、これはインペアメントについて障がいと健常の境界的な例の存在を明らかにしたものです。しかし、ディスアビリティについても同じことが言えるのではないでしょうか。つまり、与えられた環境などの条件によって発揮できる能力に違いが生まれるのは、障がい者も健常者も同じだということです。障がい者運動の文脈でその重要性が認識されてきた社会モデルですが、それは健常者が能力を発揮する場面においても同じことが言えるのです。

 障がい者のディスアビリティの問題と健常者のそれが共通する点は他にもあります。それは、インペアメントが当人の努力によって改善できるかのように思われがちだということです。長時間勤務について言えば、仕事を短時間で終わらせる自助努力だとか、仕事を振られずにやり過ごす技術だとか、例を挙げればキリがありません。しかし、べてるの家を訪ねた時の記事にも書きましたが、「できるできない」の二元論ではなく、できるとしてもどれほどの負担が伴うかという量的な問題として考えるべきです。その記事でも紹介させていただいた熊谷晋一郎氏は、脳性マヒの当事者であり小児科医として働いています。彼は「2時間かければ自分で靴下がはける」そうですが、彼に2時間かけて自力で靴下を履かせるべきでしょうか。答えはNOです。そんな時間があれば、診察や研究に医師としての能力を発揮してもらう方が、当人としても社会としても有益なはずです。ぜひ熊谷氏が出演したイベントの動画も見てください。

 ディスアビリティの問題の肝は、それによって不利益を被っているのが誰なのかということです。先ほどのメガネ禁止の会社の例で言えば、視力の低い人は仕事の能率が落ち、もちろん職務上の評価も落ちるでしょう。それと同時に、会社にとっても大きな損失となることは言うまでもないでしょう。これと同じことが日本社会のあらゆる場面で起きているのです。安易に当事者の自助努力を求めることで、本来発揮されるはずの能力を封じ込めてしまうことになってしまいます。そのことで不利益を被るのは、この社会に生きるすべての人です

 今の時点では、マイノリティの権利拡大は多数派の利益を減らすものだと考える人も少なくないように感じます。全体の幸福の総量は決まっていて、それを奪い合うようなイメージを持っているのでしょう。しかし、実際は違います。様々な人に活躍の場を与えることは、むしろ多数派とされている人たちの利益も増やすことなのです。そしてそれは、ただ受け取る利益を増やすだけでなく、それぞれの人に合った能力の発揮の仕方を実現しようという考えが広まることで、すべての人がさらに生き生きと能力を発揮できるようになるかもしれません。とにかく多数派の型にはまることに躍起になっている現在の日本社会のあり方と、どちらが豊かでしょうか。「過労死するほど仕事があり、自殺するほど仕事がない」と揶揄される日本社会の現状を、何とか変えていきたいものです。

 前の記事で紹介した堀越吉太郎著『起業したい人への16の質問』では、従業員の7割が知的障害者である日本理化学工業を紹介していますし、坂本光司氏の『日本でいちばん大切にしたい会社』でも、障がい者雇用を積極的に行う株式会社大谷や株式会社ラグーナ出版などを取り上げています。このような企業が実践している社員が能力を発揮できる環境を整備する技術は、これからの日本社会を豊かにするうえで非常に重要な意味を持つでしょう。

 これまで画一的な基準に合わせることを人々に求めてきた社会から、多様な人々のあり方に合わせて柔軟に姿を変える社会へと変革することで、きっと多くの豊かさが生まれるでしょう。「すべての人に社会モデルを!」を合言葉に前進していきたいものです。

最後に、宮沢賢治は「世界全体が幸福にならないかぎりは、個人の幸福はありえない。」という言葉を残しました。彼のこれは博愛的な精神を表していると評されることが多いのですが、社会の中で共に生きる他者との関係性を合理的に表現したものと私は捉えています。

2013年5月 1日 (水)

もともとビジネスってソーシャルなものなんじゃないか? 職業に貴賤はあるか

 今回の記事ではビジネスについて考えていきたいと思います。さて、ソーシャルビジネスという言葉が普及して久しいですね。ソーシャルビジネスとは、ざっくり言うと「社会問題の解決を第一目的としたビジネス」のことです。一般に言うビジネスは利益を得ることを最優先課題としているので、そこが最も大きく異なる点だと言えるでしょう。慈善事業と何が違うのかと言えば、一般的に慈善事業は無償で行うことが多く、その活動資金の多くは寄付や補助金で賄っています。すると、政府の財政状況や景気動向によって安定的に活動資金を得ることが難しくなってしまうという問題が生じてきました。そこで、事業自体に収益性を持たせることによって継続的に活動できるようにしようと考え、そうして生み出されたのがソーシャルビジネスというわけです。こちらの記事にわかりやすい解説がありますので、ぜひ読んでみてください。一方的な援助ではなく、被援助者の潜在力を高めるという点に注目している素晴らしい記事です。

第1回 社会を良くするビジネスって? ~社会起業って何?

 上記の記事でも触れていますが、あらゆるビジネスは社会の必要を満たすものであり(必要とされているものだから売れる)、そもそもビジネスとは社会的利益をもたらすものであるのです。これが、労働が尊いものとされる所以でしょう。また企業活動は、地域資源を活用したり、雇用を生み出したり、様々な利益を地域社会にもたらします。はい!ここでタイトルの「もともとビジネスってソーシャルなものなんじゃないか?」という発想が生まれるわけです。ところがどっこい、市場が成熟した現代においては必ずしもそうではなくなってしまっているというのが、今回の記事のメインテーマです。どっこい。

 終戦直後の日本では、いたるところで物資が不足していたわけですから、農業による食料品の生産はもちろんのこと、物を作ることは人々の生活の糧を満たすことにつながっていました。GHQによる財閥解体、農地改革、労働組合の育成も加わり、それまで貧しかった人にもお金が回るようになっていきます。そして、朝鮮戦争を背景とする特需景気により、日本は高度経済成長期を迎えます。生産技術の発達も相まって、電化製品の普及やインフラの整備が進み、人々の生活はどんどん便利になっていきました。まさにビジネス=ソーシャルという図式が成り立っていたわけです。もちろん、その背景には公害等の問題もあり、ビジネスの負の側面が顕在化しました。しかし、「物を作り売る営み」自体に社会貢献的な意味合いがあったという側面とは、ここでは切り離して考えたいと思います。そういった外部不経済の問題に関しては、関係する企業がコストを支払って当然解決するべき問題であることに議論の余地は無いように思います。

 時代が進み市場が成熟すると、この「物を作り売る営み」の意味合いが変わってきます。生活必需品は安価で手に入るようになり、便利なものも以前より手軽に入手できるようになりました。いまや子どもだって携帯電話を持つ時代です。「物を作って売る営み」が社会の必要を満たすという役割を担っていた時代では、マーケティングなど考えなくても商品は売れましたが、市場の成熟化とともに物を作れば売れるわけではなくなってきたわけです。企業としては「必要ではないが、あれば良い気分になれるもの」を生産し、また売る必要が出てきました。物を売るためには需要が必要です。いわばこの需要を作り出す(欲しいと思わせる)とこも企業の役割に加わってしまったのです。そのような状況を、社会学者の渡邊太氏は『愛とユーモアの社会運動論 末期資本主義社会を生きるために』の中でこのように説明しています。

 自己増殖する資本の運動は、生産されるモノとサービスの消費を要請する。資本が常食すれば、それだけ生産規模は拡大し、大量の商品が市場に投入される。大量生産のプロセスは、大量消費のプロセスによって補完されなければならない。生命維持のために必要なものを購入する段階を越えて、べつになくてもよいものを購入する消費行動が消費の主たる部分を占めるようになった段階は、消費社会と呼ばれる。(中略)
 消費への欲望は資本の運動によって要請されている。消費者が必要でないにもかかわらずモノを欲望するのは、資本の理論によって欲望を抱くべく促されているからである。だが、そうして新たに購入したモノは、すぐに魅力を失い、また別の新しいモノが欲しくなるだろう。モノは、死滅してこそ新たな生産と消費を駆動するからである。(中略)
 おそらく今日のわたしたちは、以前の世代と比べると何倍もの過剰な消費によって生活を組み立てている。だが、わたしたちは日々、ぜいたくをして暮らしているという実感をもっているだろうか。過剰に消費しながら生活を営んでいるにもかかわらず、むしろ余裕などなく、どうにかこうにか生活をやりくりしているという感覚でいるのではないだろうか。
 アメリカ社会におけるゆき過ぎた消費社会を批判したジュリエット・ショアは、消費社会では気前よく消費している充足感は得られず、どうにかこうにかやっているという感覚が低所得層から高所得層にいたるまであらゆる階層に共通する一般的感覚であると指摘する。(中略)
 そもそも消費への欲望が生じるのは、ショアによれば、消費主義の文化が人々のアイデンティティをとらえているからである。あなたが何者であるかは、あなたが何を買っているかでわかる(You are what you buy)というわけだ。これが地位を誇示するステータス競争の心理と結合すると、厄介である。(中略)
 人々がそれぞれに準拠集団を設定し、追いつけ追い越せ式に消費競争に励むと、お互いに遅れをとるまいとますます競争を加速化させていくほかない状態にいたる。人並みでありたいと願う中産階級的な欲望がここでも不幸なかたちで機能する。結果として、わたしたちは消費すればするほど余裕がない状態に陥る。収入が増加しても暮らしのゆとりがいっこうに生まれないのは、そのためである。追加所得があれば、わたしたちはその分、さらなる消費へと突き進む。年収が増加すれば、増加した年収に見合うだけの、いや実際にはそれを上回る消費水準の上昇がともなう。過労と浪費のマッチポンプである。どれだけ働いても暮らしは楽にならず、石川啄木でなくてもじっと手を眺めるほかない。

私たちには元来「人と違っていたい」「人より抜きん出ていたい」という欲求があります。その実現の手段として、消費というのは資本主義社会を背景として非常に相性がいいわけですね。企業が「欲しがらせる」ことに力を注いでいることをもっとわかりやすく示す例として、有名なものに国内広告会社最大手の電通の「戦略十訓」があります。現在では使われていないもののようですが、その中身を紹介しましょう。

1. もっと使わせろ
2. 捨てさせろ
3. 無駄使いさせろ
4. 季節を忘れさせろ
5. 贈り物をさせろ
6. 組み合わせで買わせろ
7. きっかけを投じろ
8. 流行遅れにさせろ
9. 気安く買わせろ
10. 混乱をつくり出せ

「無駄遣い」という露骨な表現からわかるように、必要のないものまで欲しがらせることをいかに企業が重視していたか、この社訓によく表れています。この社訓は1970年代に提唱されたものですが、高度成長の真っただ中においても、市場の成熟化は着実に進んでいたのでしょう。必要なものを生み出す社会から、必要ないものを欲しがらせる社会へと、私たちの生きる社会は姿を変えてきました。さて、こうして「欲しがらせる」ことによって生まれた消費はまだ「無駄遣い」というレベルのものであり、それ自体は仕方のないものなのかもしれません。しかし、「欲しがらせる」ことが問題化され、消費者庁が動かざるを得なくなる事態が生じました。ソーシャルゲームへの課金に対して規制が敷かれるようになった経緯に関しては、みなさんの記憶にも新しいとこだと思います。企業による「欲しがらせる」活動は、その方法や程度によっては社会にとって有害なものになるという社会的合意ができつつあるのでしょう。

 では、高度に成熟化した経済市場に生きる私たちは、どのように働き、お金を稼ぐことが求められているのでしょうか。それは、「社会に必要とされるものを作って売る」というビジネスの原点に回帰することであると私は思います。確かに、生活必需品は安価で手に入るようになりましたが、それで私たちの必要がすべて満たされていると言えるでしょうか。現在の日本においても様々な社会問題が存在します。それは、年間3万件を超える自殺の問題であったり、経済力による教育機会の不均等の問題であったり、急速に進む少子高齢化の問題であったり、枚挙に暇がないほど存在します。それらを需要として捉え、その解消によって利益を得ることができれば、それは社会の必要を満たす本当の仕事と言えるでしょう。ただ、それらに収益性があるのであれば、既存の企業がすでに事業として参入している可能性が高いと言えます。本来であれば、そのような事業は公共事業として政府が責任を持って取り組むべきものなのでしょう。しかし、そこに収益を得るための仕組みを開発することで、ビジネスの手法によってその解決が可能になるでしょう。その成功例として、病児保育を行うNPO法人フローレンスがあります。その収益性の難しさから取り組む団体がほぼ存在しなかった状況から、安定的に収益を上げる仕組みを開発し、少しずつ事業を拡大しています。

 それが簡単にできるなら苦労はしないよ、と多くの人が思うでしょう。それに、みんながみんなそういう善意で動くわけじゃないという意見もあるでしょう。その通りだと思いますし、どんな綺麗事を言ったってお金を稼がなければ生きていくことができません。しかし、そういう社会の必要を満たすビジネスだからこそビジネスとして成功するのだと主張する人がいます。それは、7万社以上のスモールビジネスを成功に導いた起業コンサルタントであるマイケル・E・ガーバーです。彼の起業家育成プログラムのエッセンスをかなり凝縮してまとめた著書、堀越吉太郎著『起業したい人への16の質問』では、企業理念を明文化した事業計画書を作るための16の質問項目を紹介しています。その初めの質問が「現在の社会において、あなたが一番解決しなくてはいけないと思っている問題は何ですか?」というものです。ガーバーは、成功を収めた偉大な起業家は社会的な夢、インパーソナルドリームをもとに事業を行っていると言います。その例として紹介されているのが、ノーベル平和賞を受賞したグラミン銀行の事業です。この本ではその他にも、従業員の7割が知的障害者である日本理化学工業や、海外難民視力支援活動で知られる富士メガネを紹介しています。ここまで読んだら「その本ってソーシャルビジネスの本なの?」と思うでしょうが、この本にはソーシャルビジネスという言葉が唯の一度も出てきません。おそらくガーバーはソーシャルビジネスというものを特別視していないのでしょう。彼は「ビジネスで成功したいなら、社会の必要を満たす事業を起こしなさい」と言っているわけです。それは市場が成熟しているか否かは関係なく、ビジネスの成功における重要な条件ということなのでしょう。

 「職業に貴賤はない」と言いますが、これは稼ぎの大きさによって単純に仕事の価値を図ることはできないということを意味する言葉です。しかし、これが成り立つには「いかなる職業も社会に必要とされているのだから」という前提が必要になります。私はここで「職業に貴賤はある」と言いたいと思います。その基準は、その職業によって得られる収入の大きさではなく、社会の必要を満たすビジネスであるかどうかということです。売り手が無理矢理ニーズを作り出すマッチポンプのような仕事より、現存するニーズを埋める仕事の方が価値は高いと言えるでしょう。そして、そのような価値の高い仕事ほどビジネスとして成功しやすいという背景は、これからの職業観を考えるうえで重要な要素と言えるでしょう。

5/9 追記
 経済についてわかりやすくまとめているサイトを見ていたら、こんな記述を見つけました。政治経済塾「日本の企業」より。

 というわけで、独占の進んだ業界の商品は、同じような価格で売っているものがほとんどです。缶ジュースは120円、ペットボトルは150円、板チョコは100円、アイスクリームも100円、肉まんは88円といった具合です。その結果更なる問題が発生します。通常、商品というのは、お客さんに買ってもらおうと思ったら、値下げすることもありますが、管理価格というのは値段が固定されています。だから、企業は値下げ以外の方法で商品をアピールするようになります。その結果、企業がよく夢中になるのが、テレビなどのCM競争だし、最近よく目にするのがおまけによる競争です。このような値下げによらない競争のことを非価格競争といいます。とにかく、値段を下げることができないわけですから、そのほかのイメージやおまけでその商品をアピールするわけです。でも、みなさん冷静に考えてください。「明治アーモンドチョコレートは、ベッカムに何億円という出演料を払うなら、200円を150円ぐらいにしてくれよ!」「ペプシ・コーラはガンダムのボトルキャップを作る金があるんだったら150円を130円ぐらいにはできるだろ!」というわけで、けっこうこの非価格競争というのも、消費者にとってはよけいなものだといえるのかもしれません。

 さらに、管理価格というのは値段が上がる一方で下がらなくなる価格の下方硬直化と呼ばれる現象も引き起こします。その会社のブランドというのがますます強力になり、しかも、CMなどの非価格競争に会社がお金をかけ過ぎるとその経費を商品の値段に上乗せするために、その商品の更なる値上げが引き起こされます。というわけで飛垣内が中学生の時には缶ジュースは100円だったのが、その後110円、120円と値上げされていきました。これはそれぐらい値上げしても売れるという自信をジュース業界のプライス・リーダーであるコカ・コーラが持っているからと、オリンピックのスポンサー料や多額のCM制作費などで経費が多くかかるようになってきたような背景もありました。少数の独占企業がもうけを増やすために価格を引き上げていく・・・、管理価格はまさに消費者の敵であると思います。

 
 
必要とされていない物を売るためには、販促のための費用をたくさんかけます。そして、その経費は価格に上乗せされます。「欲しがらせる」ためにかかった費用を最終的に負担するのはその商品を買った消費者です。究極的なマッチポンプというか、資源を効率的に分配するという経済活動の本文から大きくズレたところに現代の経済はあると言えるのではないでしょうか。

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