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2013年5月14日 (火)

多元型人事管理から多元型社会へ すべての人に社会モデルを!

 以前、「「やむなしブラック企業を救え!」って具体的にどうするの?」という記事を書きました。市場の成熟化と労働市場の変化から、企業の人事管理を多元的なものに変えなければいけないよ、という内容の記事です。よかったら読んでください。この記事では今野浩一郎氏の『正社員消滅時代の人事改革』からの引用をたくさん紹介しましたが、特に強調したかったのはこの一節です。

改めて定義すると「ダイバーシティー・マネジメントとは、多様な人材を組織に組み込み、パワーバランスを変え、戦略的に組織改革を行うことである。ダイバーシティー・マネジメントの第一の目的は組織のパフォーマンスを向上させることにある」ということになり、そこでは人材の多様化(ダイバーシティー)が進むと、組織内の統合やコミュニケーションが阻害される等のコストが発生するものの、異なる情報、価値観をもつ多様な人材からなる集団が形成されることにより組織の創造性、問題解決力等が高まり経営パフォーマンスが向上するという関連が想定されている。

多様な人材を組織に組み込むと、人事管理の面で手間もコストもかかることになります。しかし、組織の創造性などの観点を考えると、人材の多様化は長期的には有益な施策だということです。特にアイディアを活かして高付加価値の商品を世に送り出し続けることが求められるこれからの経済市場においては、企業の経営戦略として非常に重要なポイントだと言えるでしょう。

 ここまでは企業経営についての話でした。今度は視点を社会全体に向けてみましょう。日本の伝統型人事管理は高度成長期の産業構造とも相まって、非常に有効であり、世界からの関心も高かったと言います。そして、社会構造の様々な面がその一面的な人事管理に合わせ、同様に一面的にデザインされてきました。それについては「労働政策フォーラムに行ってきました。―新しい生き方・働き方とは?―」という記事で紹介した戦後日本型循環モデル(資料p.2)にわかりやすく図式化されていますので、ぜひ参照してください。こういった社会構造は、画一的であるがゆえに効率的なものでしたが、多様なライフスタイルを許容する揺らぎをもたず、弊害も多くありました。企業の人事管理に変革が求められるのであれば、当然社会の在り方にも変革が必要ということになります。考えてみれば、日本人のライフコースというのは本当に画一化されており、多数派のコースから外れることがその後の人生に及ぼす影響はあまりに大きなものです。特に時間的な順序については、かなり多様性に乏しいと言えるでしょう。個人的には、必要に応じて短期的にでも教育や訓練の機会を持ち、仕事と学習の相互作用のある豊かな生活を得ることができればと考えています。

 ここで、多数派のコースから不本意な形で排除されている存在の例として、障害について考えるため、ある著書を紹介したいと思います。神戸大学で障害共生支援やインクルージョンを研究している津田英二氏の『物語としての発達/文化を介した教育』は、タイトルだけを見ると教育についての著書なのかと思ってしまいますが、実際は社会学的な示唆を広範に含む、障害の社会モデルについて論じたものです。まず、障害の「個人モデル」と「社会モデル」についての一節を引用します。

多くの人は、障がいは障がい者に属するものとして理解している。しかし、障がい者運動や障害学は、そのような見方に対して、障がいは社会に属しているのだと反論した。一般に障がいとは心身機能や身体構造の不具合のことだと考えられているが、そうではなくて特定の人たちを排除したり差別したり無能力化する社会のあり方や構造のことをいうのだ、と主張したのである。心身機能や身体構造の不具合のことをインペアメントと呼び、特定の人たちを排除したり差別したり無能力化する社会のあり方や構造の問題をディスアビリティと呼んだ。第1章で説明した障がいの「個人モデル」は、障がいとはインペアメントのことをいうと考え、障がい者問題は障がい者個人に属するとする本質主義に則ったモデルである。それに対して「社会モデル」は、障がいとはディスアビリティのことをいうと考え、障がい者問題は私たちの持っている認識枠組みやコミュニケーションがつくりだしているのだとする社会構築主義に則ったモデルであるといえる。

専門的な用語も登場しましたが、社会モデルについて端的にわかりやすく説明しています。社会モデルの説明によく用いられるのがメガネの例ですね。例えば、視力が0.5の人は1.0の人に比べて細かい文字が認識しづらいですね。これがインペアメントです。しかし、0.5の人もメガネをかければ1.0の人と同じように生活することができます。メガネが普及していることによって0.5の視力はディスアビリティではなくなっています。あるインペアメントがディスアビリティになってしまうか否かは、社会がどのようにデザインされているかによって決まります
 さて、私が特に注目したいのはディスアビリティの説明に登場する「無能力化」という表現です。社会のあり方や構造が特定の人を無能力化するとは、いったいどういうことなのでしょう。無能力化という表現に対して「視力が0.5の人は1.0の人より、視力という能力がもともと低いじゃないか」と思った人もいるかもしれません。しかし、ここでいう無能力化とは、視力というある1つのインペアメントがあるために、その影響が他の能力にまで波及してしまうことをいうのです。
 ある会社でメガネやコンタクトレンズの着用を禁じるメチャクチャな規則ができたとしましょう。すると、視力の低い人は事務作業の能率が落ち、会議資料の大事な記述を見落とすためにミスを連発するようになってしまうでしょう。視力と仕事を遂行する能力は独立して存在するものですが、実際に仕事を遂行するにはその両方が揃っていなければなりません。この会社の例では、メガネやコンタクトレンズを封じたことで低い視力というインペアメントがディスアビリティとなり、もともと持っていた仕事を遂行する能力を発揮することができなくなってしまいました。これが無能力化です。

 実際にはメガネの使用を禁じる企業なんてまず存在しないでしょうが、企業が用意している画一的な人事管理システムに当てはまらないという理由で、活躍の場を与えていないという例は数多く存在しているでしょう。例えば、女性の年齢別労働力率に表れるM字カーブなどはその代表的なものです。育児との両立が困難なために、持てる力を発揮できない女性が現在においても少なからず存在します。
 これは人事管理以前の問題ですが、私を例に挙げると、学校という職場において業務量のあまりの多さに様々な業務のパフォーマンスが落ちるという事態に陥っていました。これは過労状態にある人には多く当てはまることですが、長時間の勤務に耐えられないという一点を克服できないことによって、他の職務上必要となる能力を生かすことができないという状態です。つまり、本来インペアメントにならないような要因までもが、社会のあり方や構造によってディスアビリティとして表れてしまうのです。よく「障がいと健常に明確な区別はなく、連続的なものである」と言われますが、これはインペアメントについて障がいと健常の境界的な例の存在を明らかにしたものです。しかし、ディスアビリティについても同じことが言えるのではないでしょうか。つまり、与えられた環境などの条件によって発揮できる能力に違いが生まれるのは、障がい者も健常者も同じだということです。障がい者運動の文脈でその重要性が認識されてきた社会モデルですが、それは健常者が能力を発揮する場面においても同じことが言えるのです。

 障がい者のディスアビリティの問題と健常者のそれが共通する点は他にもあります。それは、インペアメントが当人の努力によって改善できるかのように思われがちだということです。長時間勤務について言えば、仕事を短時間で終わらせる自助努力だとか、仕事を振られずにやり過ごす技術だとか、例を挙げればキリがありません。しかし、べてるの家を訪ねた時の記事にも書きましたが、「できるできない」の二元論ではなく、できるとしてもどれほどの負担が伴うかという量的な問題として考えるべきです。その記事でも紹介させていただいた熊谷晋一郎氏は、脳性マヒの当事者であり小児科医として働いています。彼は「2時間かければ自分で靴下がはける」そうですが、彼に2時間かけて自力で靴下を履かせるべきでしょうか。答えはNOです。そんな時間があれば、診察や研究に医師としての能力を発揮してもらう方が、当人としても社会としても有益なはずです。ぜひ熊谷氏が出演したイベントの動画も見てください。

 ディスアビリティの問題の肝は、それによって不利益を被っているのが誰なのかということです。先ほどのメガネ禁止の会社の例で言えば、視力の低い人は仕事の能率が落ち、もちろん職務上の評価も落ちるでしょう。それと同時に、会社にとっても大きな損失となることは言うまでもないでしょう。これと同じことが日本社会のあらゆる場面で起きているのです。安易に当事者の自助努力を求めることで、本来発揮されるはずの能力を封じ込めてしまうことになってしまいます。そのことで不利益を被るのは、この社会に生きるすべての人です

 今の時点では、マイノリティの権利拡大は多数派の利益を減らすものだと考える人も少なくないように感じます。全体の幸福の総量は決まっていて、それを奪い合うようなイメージを持っているのでしょう。しかし、実際は違います。様々な人に活躍の場を与えることは、むしろ多数派とされている人たちの利益も増やすことなのです。そしてそれは、ただ受け取る利益を増やすだけでなく、それぞれの人に合った能力の発揮の仕方を実現しようという考えが広まることで、すべての人がさらに生き生きと能力を発揮できるようになるかもしれません。とにかく多数派の型にはまることに躍起になっている現在の日本社会のあり方と、どちらが豊かでしょうか。「過労死するほど仕事があり、自殺するほど仕事がない」と揶揄される日本社会の現状を、何とか変えていきたいものです。

 前の記事で紹介した堀越吉太郎著『起業したい人への16の質問』では、従業員の7割が知的障害者である日本理化学工業を紹介していますし、坂本光司氏の『日本でいちばん大切にしたい会社』でも、障がい者雇用を積極的に行う株式会社大谷や株式会社ラグーナ出版などを取り上げています。このような企業が実践している社員が能力を発揮できる環境を整備する技術は、これからの日本社会を豊かにするうえで非常に重要な意味を持つでしょう。

 これまで画一的な基準に合わせることを人々に求めてきた社会から、多様な人々のあり方に合わせて柔軟に姿を変える社会へと変革することで、きっと多くの豊かさが生まれるでしょう。「すべての人に社会モデルを!」を合言葉に前進していきたいものです。

最後に、宮沢賢治は「世界全体が幸福にならないかぎりは、個人の幸福はありえない。」という言葉を残しました。彼のこれは博愛的な精神を表していると評されることが多いのですが、社会の中で共に生きる他者との関係性を合理的に表現したものと私は捉えています。

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