フォト

twitter

ほしい物リスト

無料ブログはココログ

« 自己啓発派 VS Born This Way派 | トップページ | 「先生!学校での経験が社会で役に立たないのはどうしてですか?」「それは、学校運営を成り立たせるためのルールが多すぎるからだよ」 »

2013年5月24日 (金)

いつ幸せになるか? 今でしょ!

 まずこちらの動画をご覧ください。

青木純「走れ!」 <足立区文化産業・芸術新都心構想>編 

これはサラリーマンNEOというNHKのコント番組のオープニングとして使われていたアニメーションで作品です。番組内のコントに漂うサラリーマンの悲哀とマッチした面白い作品だと当初は思っていました。しかし、今になって作品を見てみると、いろいろ突っ込みどころが目につくようになりました。この作品の主人公、赤ちゃんの頃から死ぬ直前まで吊り上った目をして、脇目も振らず走り続けるじゃないですか。そうじゃないのは酒に酔ってるときだけです。それから、突然現れた女性と結婚して、一瞬ベッドをくぐって子どもが生まれるようですが、その女性と子どもはその場に置いてきぼりで、その後もずっと一人で走り続けます。何ともこの国の男性の生き方を的確に風刺した作品ですね。主人公の男性は年老いて杖を突きながらも走り続け、ばったり倒れて亡くなった時にやっと満面の笑みでゴールテープを切ります。一体彼はいつ安らぐのでしょうか。そして、一体彼は何のために生まれ、何のために生きたのでしょうか。この作品を手放しで笑い飛ばすことができないのは、ここで風刺されているような生き方がこの国では珍しいものではなく、むしろメジャーなものとして受け入れられているように感じるからではないでしょうか。

 「現在の手段化」という言葉をご存じでしょうか。ざっくり説明すると、「今の時間」を「将来」をよりよくするために費やすこと、となります。一見すると素晴らしいことのように思えますが、今本当にしなければならないことは何かという人生の本質的な問いから逃げる行為であって、避けるべき行為とされています。避けるべき行為とは言うものの、私たちの日常の感覚からすると、にわかには賛成しにくい説明のように感じます。というのも、私たちが生きるこの社会はこの「現在の手段化」を基調として成り立っているとも言えるからです。というのは、「理想的な生き方かも」という記事でも書いたように、現在の社会は学び・成長の期間、仕事という形で能力を発揮する期間、余生として支えられながら生きる期間と、役割がはっきり分かれているように人生の時間がデザインされています。いわゆる学校教育を受けている期間はあくまで将来発揮するべき能力を身に付ける準備期間であって、あくまで将来の幸福のために備える活動を主に行う期間になります。いわば将来の幸福の総量を増やす競争であるかのように、私たちは勉強や部活動に励みます。では、学生時代を一心不乱に駆け抜けた彼は、めでたく幸せに満ちた壮年期を迎えることができたのでしょうか。

・・・

残念ながらNOですね。相変わらず彼は眼を吊り上げて一心不乱に走っています。準備期間が終われば、ついに培ってきた能力を発揮する期間です。バリバリ働きます。学校を卒業したからといって、競争は終わりません。むしろ本当の競争が始まります。せっかく能力を身に付けても、それを発揮し成果を出さなければ意味がありません。成果を出せば評価が上がって給料も上がるかもしれません。出世もできるでしょう。でも、出世したらしたで競争は続きます。彼には子供もいますから、学費も稼がなければなりません。老後への備えもあった方が安心です。どちらもいわば将来への投資ということになるでしょう。子供と自分の将来のため、お金をたくさん稼ぐために必死で働きます。だから彼は仕事を始めてからもずっと走り続けます。酒を飲んで酔っ払っている間は一見すると幸せそうですが、お酒を飲めば誰でも大体あんな感じになります。彼が学生時代も仕事を始めてからも頑張って走り続けてきたからこそ得られたものというわけではなさそうです。

 電柱でリバースしたところで、彼の服装はスーツからステテコに変わります。仕事を引退して老後の生活に入ったのでしょう。これでやっと競争の煩わしさから解放されるかと思いきや、相変わらず走り続けています。老後の過ごし方については人によって千差万別で一概には言えませんが、特に男性はそれまでバリバリ働いてきた人ほど老後に生きがいを見出しにくく、時間を無為に過ごしてしまうことが多いと聞きます。動画の主人公は死ぬまで走り続け、亡くなると同時に満面の笑みを浮かべます。

「人生の目的とは何か」などと大きな問いを立ててしまうと、ブログの記事なんかで到底答えにはたどり着けそうにありません。ここでは、もっとシンプルに「何のために勉強するのか」「何のために働くのか」ということについて考えたいと思います。もちろん勉強も仕事もとても大切なことですが、これらの問いを置いてけぼりにした勉強や労働に意味はあるでしょうか。上記のような人生の流れを考えると、勉強は将来の仕事において発揮する能力を身に付ける活動であり、仕事は子供や自身の将来に備える活動と言えます。どちらも将来のためにあると考えてしまうと、私たちの人生の価値は、老後においてどれだけの幸福を得られるかという非常に限定された範囲で決まってしまいます。それに異を唱える人は多くいることでしょう。私もそれは間違いだと思います。そのため、「将来のために」というもっともらしい動機で「勉強さえしていれば間違いない」「仕事が何よりも大事だ」と言い切ってしまうのは、間違いだと言えるでしょう。これが「現在の手段化」が避けるべきものだとされる根拠です。

 自己啓発についての記事も書きましたが、そもそもなぜ自分を成長させる必要があり、また成長によって得られた成果をなぜ発揮する必要があるのでしょうか。神戸大学で障害共生支援やインクルージョンを研究している津田英二氏の『物語としての発達/文化を介した教育』に、以下のような一節があります。

 まず、障がい児の発達に至上の価値を見いだそうとすると、昨日より今日のほうが「できるようになった」「よくなった」といった価値の序列、AさんよりもBさんのほうが「よくできる」といった価値の序列が、どうしても起こってしまう。昨日より今日のほうが「できるようになった」といった発達に関心を持ちすぎると、その子どもの幸福の実現という高次の目的が見失われてしまい、他者との比較へと容易に誘われてしまうのだという。
発達への着目は、価値の序列と必然的に深く関わってしまう。しかし、〝障害児者の幸福を存在論的に考えるならば、究極的には、「人間存在」の無条件的価値の把握が必要″であり、そのためには価値の序列を乗り越える「価値意識の変革」が要求される。その「価値意識の変革」とは、〝「障害者観」、「人間観」のなかから、「発達に価値をおく意識」を完全に分離することではないだろうか。″つまり、〝「発達の保障」と「幸福の保障」とをはっきりと分離し、そのうえで、前者がどのように後者に貢献するかを、厳しく吟味する必要″が求められているのだと述べる。

この記事を書き始めた時には、単純に人生における幸福を得るタイミングのみに焦点を絞って書くつもりでした。しかし、書いていくうちに、現在の日本社会において「幸福の実現が人生における最も高次の目標であり、生きる上で行うあらゆる活動はその手段である」という前提さえ共有されていないという実感にとらわれてしまいました。例えば、過酷な労働環境にただ適応することに労力を使い、人間的な意思や良心を放棄している人を「社畜」と揶揄するネットスラングがあります。健康の維持や私的な時間の充実という人間的な幸福より、本来その実現の手段であるはずの仕事を優先してしまうような人が珍しくない状況では、「幸福の実現が最も高次の目的である」という前提が共有されているとは言えないでしょう。よく日本人は勤勉であると他国から評価されることがありますが、私はそれに賛同しません。よく比較されるヨーロッパの、特にラテン系の国家では、労働時間が日本より総じて短くなっています。それは彼らが怠惰だからではなく、働くことがあくまで幸福のための手段であるということの意味を真剣に考えているからでしょう。また、働くことが幸福の最大化に効率的につながるように働き方を工夫し、その結果、国民一人あたりのGDPは日本とそこまで大きな差がありません。また、時間的な捉え方にしても、日本社会においては、人生の期間ごとの役割をはっきり区別することは、ある意味時期ごとの価値や重要性に違いを見いだしているとも言えるでしょう。具体的には、準備期間よりもそれを発揮する時期のほうが重要だと、一般的には考えているのではないでしょうか。私が「理想的な生き方かも」という記事でそのような人生時間の時期による区別を曖昧にしたいと書いたのは、人生において重要でない時期などなく、その価値に順位をつけるような考え方はおかしいと思うからです。かの有名な芸術家、岡本太郎もこのような言葉を残しています。

 「誰かが」ではなく、「自分が」であり、また「いまは駄目だけれども、いつかきっとそうなる」「徐々に」という一見誠実そうなのも、ゴマカシです。この瞬間に徹底する。『自分が、現在、すでにそうである』と言わなければならないのです。(現在にないものは永久にない)、というのが私の哲学です。逆に言えば、将来あるものならばかならず現在ある。だからこそ私は将来のことでも、現在全責任をもつのです。

 以上のことから考えてわかるのは、日本国民の多くが勉強や仕事でよく努力しているにもかかわらず、その努力によっていつ、どのように幸せになるかという方向性を持たずに生きているということです。そして、その答えを置き去りにしたまま、発達のための発達、成長のための成長、努力のための努力とも言えるものに邁進していくのです。私がブラック企業の問題に関心を持ったのも、その発端は日本社会のこういった状況にありました。

 とは言うものの、努力や成長が重要ではないと言っているのではありません。また、どのような社会においても、将来に備える活動もどうしても必要になります。そのすべてがいけないことだと言いたいのではありません。大切なのは、それらの活動と現時点における幸福の実現とのバランスをどのようにとるかということです。もちろん、「目標の大学に合格するために今はすべてを勉強にかける」「独立のためにすべての労力をかける」という時期が人生においてあっても全然問題ありません。重要なのは、それが自分の主体的な計画によるものだということです。では、現実的には多くの人が実行している将来のための投資と現時点での幸福との両立の図り方について考えてみましょう。

 まず、時間的に区別をする方法があります。例えば、「毎日1時間は勉強する」というように、将来への投資にかける時間を習慣的に決めておく人もいるでしょう。反対に「テレビは一日1時間まで」というように、娯楽にかける時間に制限を設けるストイックな人もいるでしょう。しかし、私が重要だと考えているのは、このように将来への投資と現時点での幸福の実現を明確に区別するのではなく、将来への投資をいかに幸福に行うかということです。「仕事居場所論」という記事でも書きましたが、働くというのは何も賃金を得るということだけを目的とした行為ではありません。そこで得られる精神的な満足感というのも仕事を選ぶうえでの重要な要素になっています。また、最近ではゲーミフィケーションといった仕事の過程自体を楽しくしようという工夫も見られるようになりました。大変すばらしいことだと思います(ただ、ゲーミフィケーションに関しては、働く人のQOLに焦点を当てたものではなく、あくまで経営者の目線で作業効率の向上という観点から注目が集まっているようです)。

 しかし、このようなことを言うと「仕事というのは成果がすべてなのだから、その過程の楽しさや辛さなんて関係ない」と鼻で笑う人もいます。その通りです。仕事は成果が最も大切なのであって、過程が楽しいかどうかは成果に直接影響を与えるものではありません。だったら、成果が同じならどんなに楽しく仕事をこなしたって問題ないわけです。関係ないからこそ、成果を出すまでの過程にもとことん拘ろうという考え方もアリなのです。結果も成果も両方大事にしたいと私は考えています。

 「幸せの国」として知られるブータンはGNH(国民総幸福量)という概念を作り出し、国民の幸福を数量で表すことに挑戦しました。やはりそれも、経済発展はあくまで幸福の実現の手段であるという前提に沿ったものだと考えられます。さて、林修先生の例のヤツはもう若干旬を過ぎているとは思いますが、その汎用性の高さにあやかっていってみましょう。

いつ幸せになるか? 今でしょ!

« 自己啓発派 VS Born This Way派 | トップページ | 「先生!学校での経験が社会で役に立たないのはどうしてですか?」「それは、学校運営を成り立たせるためのルールが多すぎるからだよ」 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1588989/51760575

この記事へのトラックバック一覧です: いつ幸せになるか? 今でしょ!:

« 自己啓発派 VS Born This Way派 | トップページ | 「先生!学校での経験が社会で役に立たないのはどうしてですか?」「それは、学校運営を成り立たせるためのルールが多すぎるからだよ」 »

2015年4月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

最近のトラックバック