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2013年6月

2013年6月25日 (火)

労働時間規制は必要だ 個人の努力にも規制は必要か?

まず、こちらの記事をお読みください。

脱社畜ブログ
業務効率化だけでは残業はなくならない

あわせて、重要なところを引用しておきましょう。

例えば、あなたの部門が、業務効率化を推し進めて今まで一日12時間かかって50生産していたものを、8時間で50生産できるようになったとしよう。素直に考えると、これで残業は無くなってみんな定時に帰れるということになりそうだけど、本当にそんなにうまくいくだろうか。仮に、この業務効率化によって削減された4時間を、さらに生産に当てると今まで1日50しか生産できなかったのが、75生産できるように変わる。そして経営者は、往々にしてこのような意思決定をしたがる。

そもそも企業というのは、基本的には業績を伸ばそうと成長を志向していくものだから、このような判断がなされるのはある意味当然だ。投資家は会社の業績がよくなって株価が上がることを期待するし、ライバル企業との競争などに常に晒されている以上、「もうこのへんで成長はやめます」という判断ができる企業はほとんどない。圧倒的な一人勝ちでもしない限り、業務効率化によって生み出された余剰時間は、さらなる業務拡大に投資されてしまう。構造的に、業務効率化が残業を当然のように減らすようにはなっていない。

まったくもってその通りです。そのため、電脳くらげさんの指摘する通り、残業を減らすためには業務効率化とは関係なく労働時間規制を設ける必要があるのです。

 さて、この記事を読んでからふと考えたことがあります。それは、労働時間規制と同じように、個人の努力にも規制を設けるべきではないかということです。「これ以上頑張ってはいけません」という制限を設けるべきではないかということです。これだけを聞くとかなりトンデモな感じになってしまいますので、その論拠を説明したいと思います。

 わかりやすくするため、労働時間規制を例に説明します。さらにわかりやすくするため、残業の割り増し賃金がなく、企業が残業を減らすインセンティブがない(長時間働かせるほど経営上有利になる)社会を想定しましょう。かつ輸出入もないものとして考えましょう。市場が高度に成熟し、市場飽和状態であるという条件もプラスしましょう。3つ目の条件は現代の日本社会とかなり近いものだと言えます。
 その国には財を生産する企業がA、B、C、Dと4社存在します。市場飽和状態においては、企業の経営努力は経済成長ではなくシェアの拡大という形で企業に利益をもたらします。ある企業が経営努力によってシェアを拡大すれば、他の企業のシェアが単純にその分減ります。A社がシェアを拡大するために、労働時間を8時間から10時間に延ばしたとしましょう。すると、他社はシェアを取り戻すために、さらに拡大するために、労働時間をさらに長くするでしょう。それを繰り返すとどうなるでしょうか。

   労働時間(時間)  シェア(%)  売上高(億円)
A社    8          40       400
B社    6          30       300
C社    4          20       200
D社    2          10       100
こうだったものが…

    労働時間(時間)  シェア(%)  売上高(億円)
A社    16          40       400
B社    12          30       300
C社    8           20       200
D社    4           10       100
こうなります。

どうでしょう。経済成長がないので、国民の可処分所得の総額は一定です。すると、労働時間の延長は、単に労働時間当たりの売上高が下がるという結果を引き起こします。働く時間は伸びても、給料には変化を生じさせようがありません。つまり、市場飽和状態では、経営努力は完全に相対的な順位を変える機能しか持たず、歯止めを掛けなければただ従業員のQOLが下がるという恐ろしい事態に陥ります。これが労働時間規制の必要性の根拠であり、市場飽和の度合いが高まれば高まるほどその必要性は増すのです。

 これは、個人の努力にもそのまま当てはまるのではないでしょうか。努力によって自分の所得を増やしたとしても、それは誰かの所得を減らすことで生じた増加分ででしかありません。そういった状況で、みんなが自分の所得を増やすために頑張れば頑張るほど、努力量当たりの所得は減少します。10の努力で500万円稼げる社会が、100の努力で500万円やっと稼げる社会に変わります。ある個人の努力は、500万円稼ぐのに必要となる努力量を引き上げます。そういった状況では、必要最低限以上の努力をすることは「悪」とさえ言えるかもしれません。恐ろしいですね。ですので、市場飽和状態の社会では、お金を稼ぐための努力はそこそこにし、限られた所得のなかでいかに幸福を最大化させるかということに知恵を注ぐ方が賢明なのです。

 ここまで読んで「努力に制限を設けてしまったら社会が衰退するじゃないか」と思った人も多くいることと思います。その通りですね。ですので、私が制限を設けるべきだと考えているのは、お金を稼ぐための努力に限ります。たとえば、スポーツや芸術、芸能、学術的な研究などの分野については、大いに努力し競争し続けるべきだと思います。

 いくら市場が飽和しているといっても、現実にはまだ需要を掘り起こす余地はありますし、海外の新興国を中心に新たな市場開拓によって経済成長を実現することは、これからの日本経済を立て直す上で必須のプロセスと言えるでしょう。しかし、かなり長いスパンで見れば、開拓した市場もいつか飽和します。この世界全体が飽和状態となり、新たに市場を開拓することが難しくなります。グローバル化と言っても、それまで国内という枠のなかだけだった相対的な競争が世界というフィールドに広がるだけで、相対的な順位を競うだけの競争であることには変わりはないのです。だからこそ、やはりお金を稼ぐための努力には制限を設けるべきなのです。

 また「努力量当たりの所得が低下するなら、割に合わないと感じて、自ずとお金によらない幸福を得ようとする人が増えていくのではないか」という意見もあるでしょう。その通りだとは思うのですが、日本社会の現状はどうでしょう。私の個人的な感覚としては、努力量当たりの所得はとっくにめちゃくちゃ低い水準に落ちていると思います。過労死のある恥ずかしい国、日本ですよ。となると「とにかく稼がなくては」という思いに囚われている状態を脱するには、何らかの外的な要因が必要となるのではないでしょうか。それが、具体的には労働時間規制という形で必要となるのでしょう。

 自分で読み返してみても若干のトンデモ感は拭えませんし、経済学などをちゃんと勉強した人から見ればツッコミどころはいろいろあるかと思いますので、遠慮なくコメントを残していただければと思います。

2013年6月22日 (土)

分断支配の乗り越え方 うまくいっている側の問題を明らかにしよう

 以前「分断支配とどう向き合うか」というタイトルの記事を書きました。抑圧者は被抑圧者を分断することで団結できなくし、抑圧的な構造を解消する運動を封じ込めることができます。現在労働者が置かれている立場も同じような状況にあり、立場の異なる労働者が団結できずにいます。先日、そのような分断が起こってしまう背景を的確にあぶり出し、その解消へのアイディアを提案する素晴らしい著書と出会いました。それがこちら。

貴戸理恵
『「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに 生きづらさを考える』

ある問題が起こった時に、「当事者の能力が足りないからだ。自己責任だ」という意見もあれば「社会的な問題があるのだから個人の責任ではない」という意見も主張されます。そして、だいたいの場合はそれらの異なる意見が妥協点を見いだすことはなく、平行線のまま議論は終わってしまいます。それは、「当事者の能力が足りないからだ」という意見も「社会的な問題があるからだ」という意見も、ぞれぞれ単独では正しい意見だからです。どちらも現状を説明する意見として成立し得るからです(私の個人的な意見としては「個人の能力を養い、活用する環境を整える」ということも含めて社会環境の改善を最大限に行うべきだと思っています)。この著書では、個人と社会の双方を視野に入れ、その関係性によって考えようと提案しています。
 この著書では、本来個人に属すものではなく、関係性によって計るべきものまで個人化されていることを指摘しています(コミュニケーション能力、人間力等)。その指摘も非常に重要な意味を持つのですが、この記事では分断支配に関係のある部分だけを紹介したいと思います。60ページほどの短い著書なので、少しでも関心を感じたらぜひ読んでみてください。

 まず『なぜ「私たち」は「彼ら」を聞けないのか』という章から引用してみます。

 「関係的な生きづらさ」は一般的な理解が得られにくく、「働いて自活している人」の側からは、しばしば「甘えているだけではないか」というバッシングにさらされます。しかし、それとは裏腹に本人が深い悩みや苦しみを持っている場合は少なくありません。本人の主観的現実の厳しさは周囲に届かず、周囲からの否定的評価に本人は身をすくめます。
 このようなディスコミュニケーションはどこからくるのでしょうか。「コミュニケーション」とは二者間の相互作用ですから、その不成立は、双方のあり方に遡って検証される必要があります。
(中略)
 一方で、そうした語りを「聞く側」はどうでしょうか。
 「聞く」とは「相手の語りに耳を澄ます」という受動的な行為ですが、同時に、語り―聞く相互関係を通じて、語りの内容に影響を与える能動的な行為でもあります。たとえば、不登校やひきこもりの経験は、共感的な聞き手を得ることで、豊かに紡ぎだされることがあります。一方で、聞き手の側が「学校に行くのが当たり前」「まっとうな人間なら働くべき」という枠組みを強固に持っていれば、語られることは難しくなるでしょうし、仮に語られたとしても聞く耳を持ってもらえず、結果的にないものにされてしまうでしょう。
 多くの場合、聞き手にとって「病や障がいで働きたくても働くことができない」「働いているにもかかわらずワーキングプアで貧困から抜け出せない」という事態を理解し得ても、「働いてもすぐ辞めてしまう」「働くことに向けて一歩が踏み出せない」という事態を理解することは困難です。
 それを踏まえ、ここでは、「なぜ「私たち」には「彼ら」がわからないのか」と問うてみたいと思います。一定程度「語られている」にもかかわらず、「無理解」が絶えないとすれば、問題は「語る側」ではなく「耳を傾ける側」にある可能性があります。
 とはいえ、それは「彼らの立場に立って、共感的に受け止める」という精神論にとどまりません。それでは結局のところ、「分かる人には分かるが、分からない人には分からない」ものとして、思考の放棄に陥ってしまうでしょう。そうではなく、聞き手側が前提している理解の枠組みを見なおすことで、理解を不可能にしているしくみについて考えてみたいのです。

このように具体的な例を挙げてもらえると非常にわかりやすいのですが、受け止める側の姿勢が関係性にもたらす影響は無視できるものではありません。それは1対1でのコミュニケーションにおいてもそうですが、社会全体が受け止める側になるときにも当てはまります。「聞く」「受け止める」という行為は、情報伝達の結果に影響を与える能動的な行為なのです。

次に『「わたし」のポジションから考える』という章から、現時点において成功しているように見える人とうまくいっていないように見える人との間に生じるディスコミュニケーションについての解説を見てみましょう。

 もうひとつ、考えなければならないことがあります。それは、「学校に行き、働いて自活している人」は、じつは「聞けない」のではなく、「聞きたくない」状態にあるのではないか、ということです。これは一見うまくいっているように見える「働いて自活している人」のあり方に関わることであり、重要です。
 過酷な市場競争は、「仕事をしない/できない人」だけでなく、「働いて自活している人」をも巻き込んで広がっています。一方に、競争の中で重圧を感じ、力尽き、立ち止まってしまった人びとがおり、他方には、その同じ競争で勝ち残ることを求められ、できうるかぎりのパフォーマンスでそれに応える人びとがいます。そのとき、「問題あり」と見なされるのは前者です。「働いて自活している人」は、「正常」の「あるべき」状態と見なされ、そのあり方をあまり問い返されることはありません。けれども、「正常」だと見なされている人びとが、問題を抱えていないわけではないでしょう。
 たとえば、熊沢誠(二〇〇七)は、長時間労働やノルマの重圧といった正社員の仕事の過酷さに触れ、「フリーターは燃え尽きた正社員の明日」としながら、非正社員と正社員はともに同じ構造のなかでひずみを抱えているのであり、仕事は、自己の人格や他者との関係を投入することを要求し、市場はそれを「売れるか否か」というグローバルに通用する価値によって一元的に評価します。「売れる」とされることも「売れない」とされることも、自己の人格や他者との関係を値踏みされる点で同一の基盤に立っているのであり、追い立てられるように「勝つこと」を求められ続ける人は、やっぱり生きづらさを抱えていると言えるでしょう。
 その証拠に、「働いて自活している人」はしばしば、「仕事をしない/できない人」に対してバッシングを向けます。たとえば、次のような言い方を耳にしないでしょうか。
「五体満足でその気になれば働けるのに、意欲がなくて働かない。そんな人間は怠け者で、甘えている。おまえがひとり楽をしているあいだに、世の中の人は必死であくせく働いて稼いでいるのだ。その血税で、怠け者のための就労支援の予算に年間数億円も使われているのは我慢できない。働きたくても働けないか、働いても貧しいならまだしも、働けるくせにただ楽をしたいから働かないでいる人間に、なぜ私の大事な金を使わなければならないのか?」
そこにあるのは、「私には関係ない」という無関心や、「しょうがないではないか」という諦めではなく、「許せない」という憎悪です。
明確な理由がないように見えるにもかかわらず働いていない人間が、ひとり「楽」をしているかもしれない事態を、「働いている私たち」は見過ごすことができません。「私たち」は「彼ら」を、ただ無視するだけでは飽き足らず、怒りをぶつけ、激励し、憐み、貶めます。(中略)
なぜでしょうか。それは、「私たち」が生きる現実が過酷であることと、無関係ではないでしょう。疲れの取れない体を布団から引きはがす朝。学校も仕事もなく、自然に目覚めるまで起きる必要のない存在を、人は憎悪せずにいられません。そこには、もしかしたら自責の念に耐えながら布団のなかで丸まっているかもしれない存在の苦しみが、創造される余地はありません。「彼ら」の存在は「私たち」に疑念を起こさせるのです。「頑張って耐えて仕事に行くことは、避けようと思えば避けられることなのではないか?」と。「競争から降りる」というオプションは、競争に勝ち続けている者の忍耐を侮辱するのです。
それにしても、体調や精神のバランスを崩しながら働き続けることや、先の見えない不安をやり過ごしつつ目の前の仕事に没頭することが、「適応」と呼ばれるならば、「適応」が望ましいことだと本当に言えるでしょうか。「生きづらい」のは、いったいどちらの側なのでしょうか。
このように考えてみると、本書の冒頭で述べた「関係性の個人化」の問題点が再び見えてきます。「コミュニケーション能力」や「社会性」という言葉は、「学校に行かない子どもには社会性がない、社会性を身につけさせて学校に適応させよう」「ひきこもりの若者にはコミュニケーション能力がない、コミュニケーション能力を身につけさせて職場復帰させよう」というふうに、問題の設定の仕方を一方向的にします。このように言うことで、「学校に行き、働いて自活している側」を反省的に問い直すことなく、「学校に行かない/働かない側」にのみ、問題を押し付けてしまうのです。
「私たち」は、「コミュニケーション能力」という言い方を採用することによって、逆に、「彼ら」とのコミュニケーションを途絶させてきたのかもしれません。「関係性」の問題であれば、改善の責任は「私たち」と「彼ら」の双方にあることになり、少なくとも、①「私たち」が「彼ら」に合わせる、②「彼ら」が「私たち」に合わせる、③相互に調整する、という三つの選択肢が生まれます。「関係性の個人化」は、相互交渉の失敗を相手の責任にのみ帰す点で、「対等な交渉相手」として関係形成を望むことからの逃避であり、「社会」に居直る側のおごりではないでしょうか。

長い引用になりましたが、非常に無駄のない文章で省略できる部分がほとんどありませんでした。貴戸氏が指摘しているのは非常に重要な点です。以下にまとめてみましょう。

・現時点において問題なく自活できているような人も、うまくいっていないように見える人も、同じ抑圧を受けている
・受けている抑圧が同じであるからこそ、努力して適応している人は自分と同じ努力をしていないように見える人を憎悪する
・そもそも抑圧的な環境への適応など望ましくないものである
・その抑圧自体には目が向けられず、適応できていない人たちの個人的な問題だとされている

いずれの指摘も現在の日本社会における分断支配の構造を的確にあぶりだしています。怠けているように見える人に対して「みんな我慢しているのだから、あなたも我慢しなさい」という非難の言葉がよく向けられますが、問題があるのは「みんなが我慢しなければならない状況」そのものにあります。適応できない個人にのみ問題を押し付けてしまう状況を解消するには、適応できない個人を責めてしまう「私たち」に対し、そのことを根気よく語り続ける必要があるのでしょう。

2013年6月14日 (金)

第8回ジレンマ×ジレンマに出演します!

 今回は事後報告ではなく宣伝です。「ジレンマ×ジレンマ」とは、大学生を中心とした若者たちが勝手に企画したネット配信の討論番組です。詳しくはUSTREAMの番組紹介欄を見てください。第8回のテーマは「学校」。みなさんも学校とは何らかの関わりをもって生きてきたわけですし、誰しも学校というものに対して一言二言あるのではないでしょうか。もし関心がありましたら、ぜひご視聴ください。

放送日時
6/15(土)open17:00 start17:30 @ギークカフェ水道橋 ¥1000(include 1drink)
USTREAM配信で中継があるので、会場に来られない方はそちらでご観覧ください。

 さて、今回一登壇者でしかない私が宣伝のような記事を書いているかというと、先日行った事前打ち合わせが非常に刺激的で、本番も素晴らしい議論が展開されるのではないかと期待に胸を躍らせているからです。そもそも、こうした専門家でない人たちによる議論に、どのような意義があるのでしょうか。ここで1つ、そのヒントになるようなエッセイを紹介します。

ほぼ日刊イトイ新聞 おとなの小論文教室。感じる・考える・伝わる!
Lesson 299  立脚点

誰かに何かを伝えたいとき、「誰が」「なぜ」「どんな想いで」伝えようとしているのかが非常に大きな意味を持ち、それは肩書や小手先のテクニックより大切なことなのです。今回のテーマは「学校」です。学校教育については、多くの専門家が豊富なデータや一貫性のある理論をもとに、様々な研究や提言がなされています。そこから学び取れることは多くあります。しかし、このような専門家ではない人たちが話し合うことからは、その人の経験にもとづく血の通った声が聞こえます。その人の抱える切実さやままならなさがダイレクトに伝わります。以前「いつ幸せになるか? 今でしょ!」という記事で、「幸福の実現が人生における最も高次の目標であり、生きる上で行うあらゆる活動はその手段である」という価値観について触れました。人間が国家や社会を形成するのは、1人1人がバラバラに生きるより得られる幸福が多いからです。政府などが行う福祉的な政策が本当に個人の幸福という最終目標を達成できているかは、統計データなどのマクロな情報だけでは把握できません。むしろ数少ない対象を深く深く掘り下げて得られる血の通った情報からこそ、そういったことに対する判断が可能になるのです。今回の登壇者も5~6人ですが、しかし経歴や現在の肩書は様々です。この少人数の話し合いの中から、様々な有益な情報が飛び出すのではないかと期待しています。
 私が事前打ち合わせを素晴らしいものだと感じたのは、登壇者、番組スタッフを含め、あの場に集まった人たちがそういった価値観を共有していたからです。もちろん、ジレンマ×ジレンマは今回で第8回になりますから、どのような趣旨の番組かということを皆さんよくわかっていたこともあるでしょう。それにしても、互いに初対面の人同士が大半だったにもかかわらず、かなりのぶっちゃけトークというか、「私はこう考えています」というのをストレートに伝え合うことができたのです。その人のパーソナリティに深く関わるような話題も多くありました。本来なら、ある程度以上の信頼関係が築けていてこそ可能なことのように思えますが、あの打ち合わせでは「ここでならぶっちゃけても大丈夫だ」というような「場」に対する信頼のようなものがあったのだと、今振り返ると思います。
 また、この番組では登壇者のセクシュアリティも明らかにするという慣習があるようで、そのことについても打ち合わせで確認しました。「○○さんはヘテロですか?」「ヘテロです」「私はトランスです」みたいな会話が行われたのですが、こういう話題が「普通」に会話できる場が存在するということに、私は驚きと喜びを感じました。20年前にはとても考えられないような光景だと思います。そういう場ですので、明日は私も安心してぶっちゃけようと思います。

 こういった企画に対して、「目立ちたいだけだ」とか「自分の知識をひけらかしたいだけだ」といった冷めた反応もあるかと思います。しかし、私はそれでいいと思っています。「目立ちたい」とか「賢いと思われたい」というのはごくありふれた感情だと思いますし、そういった感情も下手に取り繕おうとせずにオープンにすることで、議論はより豊かなものになるでしょう。私にもそういう気持ちがないわけではないですからね。

 ジレンマ×ジレンマは「会いに行ける番組」というキャッチコピーを掲げているように、観る人との距離の近さが魅力の1つでもあります。明日の放送を観て「私も出てみたい」とか「こういうのやってみたい」とか思ってもらえたら非常に嬉しいです。なにしろ、この手の企画でいちばん良いインプットを得て得をするのは登壇者でしょうから、何事もやりたいと思ったらためらわずやってみることかなと思います。それでは、明日はギークカフェで僕と握手。

2013年6月 1日 (土)

「先生!学校での経験が社会で役に立たないのはどうしてですか?」「それは、学校運営を成り立たせるためのルールが多すぎるからだよ」

 今回は労働の話題ではありません。私が教員として勤めていた経験を通じて考えた学校教育の問題点について書いていきたいと思います。もちろん、学校教育は大人になってから様々な場面で能力を発揮する能力を身に付ける場としての役割があり、労働とも関連のある分野のものです。今回はその接点に焦点を当てて考えてみたいと思います。

 よく「学校での勉強は社会で役に立たない」という表現での学校教育批判を耳にすることがあります。まず、この場合の「社会」とは多くの場合職場を想定して使われることが多いですが、私はそのような範囲を限定した「社会」「社会人」という表現は正しくないと思っています。この記事では、学校を卒業したのちに属する可能性のある場を全て含めて「社会」という表現を使用したいと思います(本当のところ「学校も社会の一部だろ」と思っていますが、ここでは便宜上学校と「それ以外」に分けて考えたいと思います)。そのような批判に対しては様々な反応があり、なかなか1つの結論を導き出すのは難しいものです。この記事では教科ではなく、教科指導などの様々な教育活動を行う上で前提となっている学校のルールについて、その問題点を明らかにしていきます。

 学校のルールというと、校則として明文化されたものから、当然のものとして明文化されていないものまで、様々なものがあります。みなさんの中にも、何のためにあるのかわからない校則に理不尽さを感じた経験がある人も多くいると思います。例えば、多くの学校では髪を染めることを禁止していたり、登校時の髪型に決まりがあったり、スカートの丈に決まりがあったり、身だしなみに関するルールもたくさんあります。ある一人の生徒が学校生活を経て社会に出て行くにあたり、髪を染めたかどうかということがその生徒の人生にそれほど大きな影響を及ぼすとは思えません。これらのルールは生徒の人生を良くするという点に主眼を置いたものではないと言えます。
 では何のためのルールなのでしょうか。それは、学校を荒れさせないために存在するルールです。極端な話、身だしなみに関するルールのない学校と、細かく決められている学校のどちらが荒れやすいかと考えれば、やはり前者のほうが荒れやすいでしょう。また、「派手になり過ぎない程度なら染めてもいいのではないか」といった議論もあると思いますが、そのラインをどこに引くかということを突き詰めていくと、結局「まったく染めてはいけない」という結論に行きついてしまいます。それは、生徒の自由や多様性を受け入れるのに必要となるコストを負担する余裕が学校にないからです。なぜ余裕がないのかと言えば、その最大の原因は現場の教員が生徒と直接関わる時間が不足しているからです。日本の教員の勤務実態は、事務作業にかかる時間が長く、生徒と十分に関わることができない問題点が指摘されて久しいですが、その弊害は様々な形で表れています。校則に関して言えば、やはりなぜそのルールが必要なのか、生徒自身に考えさせ、納得をしたうえで受け入れることが、教育的なプロセスと言えるでしょう。それでも繰り返しルールを破ってしまう生徒には、根気よく向き合い、どうしてルールを守る必要があるのかを伝え続ける必要があるでしょう。その労力が「生徒の自由や多様性を受け入れるのに必要となるコスト」です。しかし、現実の教育現場にはそこまでの余裕がありません。人手と時間が圧倒的に不足しています。そうして、「ルールなのだからとにかく従いなさい」という指導をせざるを得なくなってしまいます。
 教員の中には「校則にはルールのためのルールという性質もあり、とにかくルールを守ることを習慣づけることが目的なんだ」と説明する人もいます。私はその意見には反対です。それでは条件反射的にルールに従うだけの思考停止を招くだけであり、到底教育的であるとは言えません。「ルールのためのルール」「合理的でないルール」など、教育という観点からは害悪でしかありません。学校教育に必要なのは、生徒が考え納得する時間と状況を十分に確保できる条件を整備することなのです。「荒れさせないためのルール」を生徒に押し付けるのではなく、生徒の自由や多様性を認めても荒れない条件を確保することなのです。

 もう一つの問題点を指摘したいと思います。ルールではありませんが、「荒れさせないためのルール」と同じような影響を生徒に与えてしまう仕組みが学校には存在します。それは、「生徒の失敗を許さない制度」です。やはり、人が能力を身に付けていく過程では、根気よく試行錯誤を繰り返し、失敗を重ねながら目標に近づいていくことが求められます。しかし、学校には生徒が入学した段階からある程度のクオリティを求められていることがあります。その最たるものが掃除であると私は思っています。なんだ、掃除くらい簡単なものじゃないかと思う人もいるかもしれません。しかし、学校での掃除の目的は掃除のテクニックを身に付けることではありません。掃除の目的は自分たちで使う公共空間を自分たちの手で整備しようという姿勢を身に付けることの実践なのです。これはかなり人間としてレベルの高いことだと思いませんか?大人だって、自ら進んで公共のためになることをする人はかなり稀有な存在だと思います。ただ、学校教育を通してそういう人間を育成しようという理念自体は大変すばらしいことですね。しかし、やり方がまずいのです。それほどレベルの高いことですから、「できない」状態から「できる」状態まで試行錯誤を繰り返し近づいていくのが理想です。問題は、掃除に関しては入学した時点からある程度のクオリティを生徒に求めてしまうことにあります。教室環境の乱れは、即荒れにつながります。掃除が行き届いているかどうかが、生徒の学習能率や生活態度に与える影響は大きいものです。ましてや、それが学校という大人数で行動する場であればなおのことです。なので、教員は生徒に掃除で結果を出すことを求めざるを得ません。すると、掃除の目的はいつのまにか「生徒に公共空間を大切にすることを学ばせること」から「生徒に教室を綺麗にさせること」に移り変わってしまいます。生徒が同じ「掃除をする」という行動をとっていても、「自分たちの使う教室だから綺麗にしよう」と思っているか「先生に怒られないように綺麗にしよう」と思っているかでは、教育的な効果がまるで違います。
 掃除に関しては、ある時点でうまくできなくても、根気強く自分たちの手で学校を綺麗にすることの素晴らしさを説き、「次はもっと綺麗にできるといいね」と励まし、できなかった部分をカバーするのは職員の仕事とするのが良いと思います。その方が、生徒が卒業する時点で、本来目指していた「公共空間を自ら大切にする人」の姿に近くなっているでしょう。

 「荒れさせないためのルールや仕組み」は当然学校の外では意味を持ちません。そのため、真面目で「いい子」と褒められていた人ほど、学校と社会の評価基準のギャップに戸惑います。「40人の生徒を1人の教員が指導する」という条件の下で指導の効果を最大化するようにデザインされている学校というシステムが、社会の中でかなり特殊なものであるということなのでしょう。「学校の常識は社会の非常識」という揶揄も、ある程度的を射ていると言えるでしょう。では、学校はどのように変わるべきか、私たちは生きていくためにどのような力を身に付ければいいのかということについては、また別の記事で書いていきたいと思います。

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