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2013年6月25日 (火)

労働時間規制は必要だ 個人の努力にも規制は必要か?

まず、こちらの記事をお読みください。

脱社畜ブログ
業務効率化だけでは残業はなくならない

あわせて、重要なところを引用しておきましょう。

例えば、あなたの部門が、業務効率化を推し進めて今まで一日12時間かかって50生産していたものを、8時間で50生産できるようになったとしよう。素直に考えると、これで残業は無くなってみんな定時に帰れるということになりそうだけど、本当にそんなにうまくいくだろうか。仮に、この業務効率化によって削減された4時間を、さらに生産に当てると今まで1日50しか生産できなかったのが、75生産できるように変わる。そして経営者は、往々にしてこのような意思決定をしたがる。

そもそも企業というのは、基本的には業績を伸ばそうと成長を志向していくものだから、このような判断がなされるのはある意味当然だ。投資家は会社の業績がよくなって株価が上がることを期待するし、ライバル企業との競争などに常に晒されている以上、「もうこのへんで成長はやめます」という判断ができる企業はほとんどない。圧倒的な一人勝ちでもしない限り、業務効率化によって生み出された余剰時間は、さらなる業務拡大に投資されてしまう。構造的に、業務効率化が残業を当然のように減らすようにはなっていない。

まったくもってその通りです。そのため、電脳くらげさんの指摘する通り、残業を減らすためには業務効率化とは関係なく労働時間規制を設ける必要があるのです。

 さて、この記事を読んでからふと考えたことがあります。それは、労働時間規制と同じように、個人の努力にも規制を設けるべきではないかということです。「これ以上頑張ってはいけません」という制限を設けるべきではないかということです。これだけを聞くとかなりトンデモな感じになってしまいますので、その論拠を説明したいと思います。

 わかりやすくするため、労働時間規制を例に説明します。さらにわかりやすくするため、残業の割り増し賃金がなく、企業が残業を減らすインセンティブがない(長時間働かせるほど経営上有利になる)社会を想定しましょう。かつ輸出入もないものとして考えましょう。市場が高度に成熟し、市場飽和状態であるという条件もプラスしましょう。3つ目の条件は現代の日本社会とかなり近いものだと言えます。
 その国には財を生産する企業がA、B、C、Dと4社存在します。市場飽和状態においては、企業の経営努力は経済成長ではなくシェアの拡大という形で企業に利益をもたらします。ある企業が経営努力によってシェアを拡大すれば、他の企業のシェアが単純にその分減ります。A社がシェアを拡大するために、労働時間を8時間から10時間に延ばしたとしましょう。すると、他社はシェアを取り戻すために、さらに拡大するために、労働時間をさらに長くするでしょう。それを繰り返すとどうなるでしょうか。

   労働時間(時間)  シェア(%)  売上高(億円)
A社    8          40       400
B社    6          30       300
C社    4          20       200
D社    2          10       100
こうだったものが…

    労働時間(時間)  シェア(%)  売上高(億円)
A社    16          40       400
B社    12          30       300
C社    8           20       200
D社    4           10       100
こうなります。

どうでしょう。経済成長がないので、国民の可処分所得の総額は一定です。すると、労働時間の延長は、単に労働時間当たりの売上高が下がるという結果を引き起こします。働く時間は伸びても、給料には変化を生じさせようがありません。つまり、市場飽和状態では、経営努力は完全に相対的な順位を変える機能しか持たず、歯止めを掛けなければただ従業員のQOLが下がるという恐ろしい事態に陥ります。これが労働時間規制の必要性の根拠であり、市場飽和の度合いが高まれば高まるほどその必要性は増すのです。

 これは、個人の努力にもそのまま当てはまるのではないでしょうか。努力によって自分の所得を増やしたとしても、それは誰かの所得を減らすことで生じた増加分ででしかありません。そういった状況で、みんなが自分の所得を増やすために頑張れば頑張るほど、努力量当たりの所得は減少します。10の努力で500万円稼げる社会が、100の努力で500万円やっと稼げる社会に変わります。ある個人の努力は、500万円稼ぐのに必要となる努力量を引き上げます。そういった状況では、必要最低限以上の努力をすることは「悪」とさえ言えるかもしれません。恐ろしいですね。ですので、市場飽和状態の社会では、お金を稼ぐための努力はそこそこにし、限られた所得のなかでいかに幸福を最大化させるかということに知恵を注ぐ方が賢明なのです。

 ここまで読んで「努力に制限を設けてしまったら社会が衰退するじゃないか」と思った人も多くいることと思います。その通りですね。ですので、私が制限を設けるべきだと考えているのは、お金を稼ぐための努力に限ります。たとえば、スポーツや芸術、芸能、学術的な研究などの分野については、大いに努力し競争し続けるべきだと思います。

 いくら市場が飽和しているといっても、現実にはまだ需要を掘り起こす余地はありますし、海外の新興国を中心に新たな市場開拓によって経済成長を実現することは、これからの日本経済を立て直す上で必須のプロセスと言えるでしょう。しかし、かなり長いスパンで見れば、開拓した市場もいつか飽和します。この世界全体が飽和状態となり、新たに市場を開拓することが難しくなります。グローバル化と言っても、それまで国内という枠のなかだけだった相対的な競争が世界というフィールドに広がるだけで、相対的な順位を競うだけの競争であることには変わりはないのです。だからこそ、やはりお金を稼ぐための努力には制限を設けるべきなのです。

 また「努力量当たりの所得が低下するなら、割に合わないと感じて、自ずとお金によらない幸福を得ようとする人が増えていくのではないか」という意見もあるでしょう。その通りだとは思うのですが、日本社会の現状はどうでしょう。私の個人的な感覚としては、努力量当たりの所得はとっくにめちゃくちゃ低い水準に落ちていると思います。過労死のある恥ずかしい国、日本ですよ。となると「とにかく稼がなくては」という思いに囚われている状態を脱するには、何らかの外的な要因が必要となるのではないでしょうか。それが、具体的には労働時間規制という形で必要となるのでしょう。

 自分で読み返してみても若干のトンデモ感は拭えませんし、経済学などをちゃんと勉強した人から見ればツッコミどころはいろいろあるかと思いますので、遠慮なくコメントを残していただければと思います。

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コメント

いつも考えるヒントになる記事に感謝しつつ拝見しています。
記事について感じたことを、コメントさせていただきます。

市場飽和状態では競争が激化し、従業員の労働時間が増えるが
売り上げは増えず、結果的に給与も増えず、賃金単価が減るとのことですが
私は逆の動きになると思いました。

まず労働時間が増えればコストが嵩みます。
市場飽和であることを知っている場合、過度な競争は避けようとするはずです。
カルテルなどは独占禁止法で難しいですが、潰しあいを避けるように
企業は合理的な行動をしつつ、コスト削減に勤しみます。
つまり全体の労働時間が増えることはないが
雇用カットが加速するため、1人当たりの労働時間は増えると思います。

成長ができないので、雇用も増やさないはずです。
働きたくても働き場所がないという状況が普通になるはずです。
過労よりも過酷な不労状態が続くのではと想像しました。

また努力に制限を設けるというのは
ヒトの本質に反すると思われます。

努力したい人が社会主義みたいな国は嫌だと言って
国を捨てて海外に行ってしまっては
どうしようもないと思いますし、十分な努力もできないところでは
イノベーションも起きなくなると思います。
たくさんの失業者を守るためのセーフティーネットが確実に崩壊します。

資本主義、貨幣経済は、市場飽和をたしかに意識していませんが
努力すれば報われるという点においては、とても良く出来たシステムです。

コメントありがとうございます。

市場飽和が賃金に与える影響ですが、それは経営陣の判断に寄るのではないかと思います。収益の減少を賃金カットという方法で補うか、企業の利益を犠牲にして従業員の給与水準を保つかは、それぞれの企業によって判断が分かれるため、一概には言えないでしょう。ただ、市場飽和によって企業全体の収益が減少することは間違いないだろうと。現実には、ご指摘の通り、雇用をカットし従業員一人あたりの労働時間を延ばすケースが多いでしょう。

努力に制限を設けるのは、記事で書いた通り「お金を稼ぐための努力」に限るべきだと考えています。仮に社会主義みたいな国が実現したとしても、人々は金銭を介さない形で努力による競争を続け、他者より優れていることを証明しようとすることを辞めないはずです。その競争は「生存」の確保と切り離されているだけ、現状の競争よりだいぶマシなのではないかと思います。

ただ、セーフティーネットの財源をどう確保するかという問題を考慮すると、なかなか実現は難しい話しなんでしょうね・・・。

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