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2013年6月22日 (土)

分断支配の乗り越え方 うまくいっている側の問題を明らかにしよう

 以前「分断支配とどう向き合うか」というタイトルの記事を書きました。抑圧者は被抑圧者を分断することで団結できなくし、抑圧的な構造を解消する運動を封じ込めることができます。現在労働者が置かれている立場も同じような状況にあり、立場の異なる労働者が団結できずにいます。先日、そのような分断が起こってしまう背景を的確にあぶり出し、その解消へのアイディアを提案する素晴らしい著書と出会いました。それがこちら。

貴戸理恵
『「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに 生きづらさを考える』

ある問題が起こった時に、「当事者の能力が足りないからだ。自己責任だ」という意見もあれば「社会的な問題があるのだから個人の責任ではない」という意見も主張されます。そして、だいたいの場合はそれらの異なる意見が妥協点を見いだすことはなく、平行線のまま議論は終わってしまいます。それは、「当事者の能力が足りないからだ」という意見も「社会的な問題があるからだ」という意見も、ぞれぞれ単独では正しい意見だからです。どちらも現状を説明する意見として成立し得るからです(私の個人的な意見としては「個人の能力を養い、活用する環境を整える」ということも含めて社会環境の改善を最大限に行うべきだと思っています)。この著書では、個人と社会の双方を視野に入れ、その関係性によって考えようと提案しています。
 この著書では、本来個人に属すものではなく、関係性によって計るべきものまで個人化されていることを指摘しています(コミュニケーション能力、人間力等)。その指摘も非常に重要な意味を持つのですが、この記事では分断支配に関係のある部分だけを紹介したいと思います。60ページほどの短い著書なので、少しでも関心を感じたらぜひ読んでみてください。

 まず『なぜ「私たち」は「彼ら」を聞けないのか』という章から引用してみます。

 「関係的な生きづらさ」は一般的な理解が得られにくく、「働いて自活している人」の側からは、しばしば「甘えているだけではないか」というバッシングにさらされます。しかし、それとは裏腹に本人が深い悩みや苦しみを持っている場合は少なくありません。本人の主観的現実の厳しさは周囲に届かず、周囲からの否定的評価に本人は身をすくめます。
 このようなディスコミュニケーションはどこからくるのでしょうか。「コミュニケーション」とは二者間の相互作用ですから、その不成立は、双方のあり方に遡って検証される必要があります。
(中略)
 一方で、そうした語りを「聞く側」はどうでしょうか。
 「聞く」とは「相手の語りに耳を澄ます」という受動的な行為ですが、同時に、語り―聞く相互関係を通じて、語りの内容に影響を与える能動的な行為でもあります。たとえば、不登校やひきこもりの経験は、共感的な聞き手を得ることで、豊かに紡ぎだされることがあります。一方で、聞き手の側が「学校に行くのが当たり前」「まっとうな人間なら働くべき」という枠組みを強固に持っていれば、語られることは難しくなるでしょうし、仮に語られたとしても聞く耳を持ってもらえず、結果的にないものにされてしまうでしょう。
 多くの場合、聞き手にとって「病や障がいで働きたくても働くことができない」「働いているにもかかわらずワーキングプアで貧困から抜け出せない」という事態を理解し得ても、「働いてもすぐ辞めてしまう」「働くことに向けて一歩が踏み出せない」という事態を理解することは困難です。
 それを踏まえ、ここでは、「なぜ「私たち」には「彼ら」がわからないのか」と問うてみたいと思います。一定程度「語られている」にもかかわらず、「無理解」が絶えないとすれば、問題は「語る側」ではなく「耳を傾ける側」にある可能性があります。
 とはいえ、それは「彼らの立場に立って、共感的に受け止める」という精神論にとどまりません。それでは結局のところ、「分かる人には分かるが、分からない人には分からない」ものとして、思考の放棄に陥ってしまうでしょう。そうではなく、聞き手側が前提している理解の枠組みを見なおすことで、理解を不可能にしているしくみについて考えてみたいのです。

このように具体的な例を挙げてもらえると非常にわかりやすいのですが、受け止める側の姿勢が関係性にもたらす影響は無視できるものではありません。それは1対1でのコミュニケーションにおいてもそうですが、社会全体が受け止める側になるときにも当てはまります。「聞く」「受け止める」という行為は、情報伝達の結果に影響を与える能動的な行為なのです。

次に『「わたし」のポジションから考える』という章から、現時点において成功しているように見える人とうまくいっていないように見える人との間に生じるディスコミュニケーションについての解説を見てみましょう。

 もうひとつ、考えなければならないことがあります。それは、「学校に行き、働いて自活している人」は、じつは「聞けない」のではなく、「聞きたくない」状態にあるのではないか、ということです。これは一見うまくいっているように見える「働いて自活している人」のあり方に関わることであり、重要です。
 過酷な市場競争は、「仕事をしない/できない人」だけでなく、「働いて自活している人」をも巻き込んで広がっています。一方に、競争の中で重圧を感じ、力尽き、立ち止まってしまった人びとがおり、他方には、その同じ競争で勝ち残ることを求められ、できうるかぎりのパフォーマンスでそれに応える人びとがいます。そのとき、「問題あり」と見なされるのは前者です。「働いて自活している人」は、「正常」の「あるべき」状態と見なされ、そのあり方をあまり問い返されることはありません。けれども、「正常」だと見なされている人びとが、問題を抱えていないわけではないでしょう。
 たとえば、熊沢誠(二〇〇七)は、長時間労働やノルマの重圧といった正社員の仕事の過酷さに触れ、「フリーターは燃え尽きた正社員の明日」としながら、非正社員と正社員はともに同じ構造のなかでひずみを抱えているのであり、仕事は、自己の人格や他者との関係を投入することを要求し、市場はそれを「売れるか否か」というグローバルに通用する価値によって一元的に評価します。「売れる」とされることも「売れない」とされることも、自己の人格や他者との関係を値踏みされる点で同一の基盤に立っているのであり、追い立てられるように「勝つこと」を求められ続ける人は、やっぱり生きづらさを抱えていると言えるでしょう。
 その証拠に、「働いて自活している人」はしばしば、「仕事をしない/できない人」に対してバッシングを向けます。たとえば、次のような言い方を耳にしないでしょうか。
「五体満足でその気になれば働けるのに、意欲がなくて働かない。そんな人間は怠け者で、甘えている。おまえがひとり楽をしているあいだに、世の中の人は必死であくせく働いて稼いでいるのだ。その血税で、怠け者のための就労支援の予算に年間数億円も使われているのは我慢できない。働きたくても働けないか、働いても貧しいならまだしも、働けるくせにただ楽をしたいから働かないでいる人間に、なぜ私の大事な金を使わなければならないのか?」
そこにあるのは、「私には関係ない」という無関心や、「しょうがないではないか」という諦めではなく、「許せない」という憎悪です。
明確な理由がないように見えるにもかかわらず働いていない人間が、ひとり「楽」をしているかもしれない事態を、「働いている私たち」は見過ごすことができません。「私たち」は「彼ら」を、ただ無視するだけでは飽き足らず、怒りをぶつけ、激励し、憐み、貶めます。(中略)
なぜでしょうか。それは、「私たち」が生きる現実が過酷であることと、無関係ではないでしょう。疲れの取れない体を布団から引きはがす朝。学校も仕事もなく、自然に目覚めるまで起きる必要のない存在を、人は憎悪せずにいられません。そこには、もしかしたら自責の念に耐えながら布団のなかで丸まっているかもしれない存在の苦しみが、創造される余地はありません。「彼ら」の存在は「私たち」に疑念を起こさせるのです。「頑張って耐えて仕事に行くことは、避けようと思えば避けられることなのではないか?」と。「競争から降りる」というオプションは、競争に勝ち続けている者の忍耐を侮辱するのです。
それにしても、体調や精神のバランスを崩しながら働き続けることや、先の見えない不安をやり過ごしつつ目の前の仕事に没頭することが、「適応」と呼ばれるならば、「適応」が望ましいことだと本当に言えるでしょうか。「生きづらい」のは、いったいどちらの側なのでしょうか。
このように考えてみると、本書の冒頭で述べた「関係性の個人化」の問題点が再び見えてきます。「コミュニケーション能力」や「社会性」という言葉は、「学校に行かない子どもには社会性がない、社会性を身につけさせて学校に適応させよう」「ひきこもりの若者にはコミュニケーション能力がない、コミュニケーション能力を身につけさせて職場復帰させよう」というふうに、問題の設定の仕方を一方向的にします。このように言うことで、「学校に行き、働いて自活している側」を反省的に問い直すことなく、「学校に行かない/働かない側」にのみ、問題を押し付けてしまうのです。
「私たち」は、「コミュニケーション能力」という言い方を採用することによって、逆に、「彼ら」とのコミュニケーションを途絶させてきたのかもしれません。「関係性」の問題であれば、改善の責任は「私たち」と「彼ら」の双方にあることになり、少なくとも、①「私たち」が「彼ら」に合わせる、②「彼ら」が「私たち」に合わせる、③相互に調整する、という三つの選択肢が生まれます。「関係性の個人化」は、相互交渉の失敗を相手の責任にのみ帰す点で、「対等な交渉相手」として関係形成を望むことからの逃避であり、「社会」に居直る側のおごりではないでしょうか。

長い引用になりましたが、非常に無駄のない文章で省略できる部分がほとんどありませんでした。貴戸氏が指摘しているのは非常に重要な点です。以下にまとめてみましょう。

・現時点において問題なく自活できているような人も、うまくいっていないように見える人も、同じ抑圧を受けている
・受けている抑圧が同じであるからこそ、努力して適応している人は自分と同じ努力をしていないように見える人を憎悪する
・そもそも抑圧的な環境への適応など望ましくないものである
・その抑圧自体には目が向けられず、適応できていない人たちの個人的な問題だとされている

いずれの指摘も現在の日本社会における分断支配の構造を的確にあぶりだしています。怠けているように見える人に対して「みんな我慢しているのだから、あなたも我慢しなさい」という非難の言葉がよく向けられますが、問題があるのは「みんなが我慢しなければならない状況」そのものにあります。適応できない個人にのみ問題を押し付けてしまう状況を解消するには、適応できない個人を責めてしまう「私たち」に対し、そのことを根気よく語り続ける必要があるのでしょう。

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