フォト

twitter

ほしい物リスト

無料ブログはココログ

« いつ幸せになるか? 今でしょ! | トップページ | 第8回ジレンマ×ジレンマに出演します! »

2013年6月 1日 (土)

「先生!学校での経験が社会で役に立たないのはどうしてですか?」「それは、学校運営を成り立たせるためのルールが多すぎるからだよ」

 今回は労働の話題ではありません。私が教員として勤めていた経験を通じて考えた学校教育の問題点について書いていきたいと思います。もちろん、学校教育は大人になってから様々な場面で能力を発揮する能力を身に付ける場としての役割があり、労働とも関連のある分野のものです。今回はその接点に焦点を当てて考えてみたいと思います。

 よく「学校での勉強は社会で役に立たない」という表現での学校教育批判を耳にすることがあります。まず、この場合の「社会」とは多くの場合職場を想定して使われることが多いですが、私はそのような範囲を限定した「社会」「社会人」という表現は正しくないと思っています。この記事では、学校を卒業したのちに属する可能性のある場を全て含めて「社会」という表現を使用したいと思います(本当のところ「学校も社会の一部だろ」と思っていますが、ここでは便宜上学校と「それ以外」に分けて考えたいと思います)。そのような批判に対しては様々な反応があり、なかなか1つの結論を導き出すのは難しいものです。この記事では教科ではなく、教科指導などの様々な教育活動を行う上で前提となっている学校のルールについて、その問題点を明らかにしていきます。

 学校のルールというと、校則として明文化されたものから、当然のものとして明文化されていないものまで、様々なものがあります。みなさんの中にも、何のためにあるのかわからない校則に理不尽さを感じた経験がある人も多くいると思います。例えば、多くの学校では髪を染めることを禁止していたり、登校時の髪型に決まりがあったり、スカートの丈に決まりがあったり、身だしなみに関するルールもたくさんあります。ある一人の生徒が学校生活を経て社会に出て行くにあたり、髪を染めたかどうかということがその生徒の人生にそれほど大きな影響を及ぼすとは思えません。これらのルールは生徒の人生を良くするという点に主眼を置いたものではないと言えます。
 では何のためのルールなのでしょうか。それは、学校を荒れさせないために存在するルールです。極端な話、身だしなみに関するルールのない学校と、細かく決められている学校のどちらが荒れやすいかと考えれば、やはり前者のほうが荒れやすいでしょう。また、「派手になり過ぎない程度なら染めてもいいのではないか」といった議論もあると思いますが、そのラインをどこに引くかということを突き詰めていくと、結局「まったく染めてはいけない」という結論に行きついてしまいます。それは、生徒の自由や多様性を受け入れるのに必要となるコストを負担する余裕が学校にないからです。なぜ余裕がないのかと言えば、その最大の原因は現場の教員が生徒と直接関わる時間が不足しているからです。日本の教員の勤務実態は、事務作業にかかる時間が長く、生徒と十分に関わることができない問題点が指摘されて久しいですが、その弊害は様々な形で表れています。校則に関して言えば、やはりなぜそのルールが必要なのか、生徒自身に考えさせ、納得をしたうえで受け入れることが、教育的なプロセスと言えるでしょう。それでも繰り返しルールを破ってしまう生徒には、根気よく向き合い、どうしてルールを守る必要があるのかを伝え続ける必要があるでしょう。その労力が「生徒の自由や多様性を受け入れるのに必要となるコスト」です。しかし、現実の教育現場にはそこまでの余裕がありません。人手と時間が圧倒的に不足しています。そうして、「ルールなのだからとにかく従いなさい」という指導をせざるを得なくなってしまいます。
 教員の中には「校則にはルールのためのルールという性質もあり、とにかくルールを守ることを習慣づけることが目的なんだ」と説明する人もいます。私はその意見には反対です。それでは条件反射的にルールに従うだけの思考停止を招くだけであり、到底教育的であるとは言えません。「ルールのためのルール」「合理的でないルール」など、教育という観点からは害悪でしかありません。学校教育に必要なのは、生徒が考え納得する時間と状況を十分に確保できる条件を整備することなのです。「荒れさせないためのルール」を生徒に押し付けるのではなく、生徒の自由や多様性を認めても荒れない条件を確保することなのです。

 もう一つの問題点を指摘したいと思います。ルールではありませんが、「荒れさせないためのルール」と同じような影響を生徒に与えてしまう仕組みが学校には存在します。それは、「生徒の失敗を許さない制度」です。やはり、人が能力を身に付けていく過程では、根気よく試行錯誤を繰り返し、失敗を重ねながら目標に近づいていくことが求められます。しかし、学校には生徒が入学した段階からある程度のクオリティを求められていることがあります。その最たるものが掃除であると私は思っています。なんだ、掃除くらい簡単なものじゃないかと思う人もいるかもしれません。しかし、学校での掃除の目的は掃除のテクニックを身に付けることではありません。掃除の目的は自分たちで使う公共空間を自分たちの手で整備しようという姿勢を身に付けることの実践なのです。これはかなり人間としてレベルの高いことだと思いませんか?大人だって、自ら進んで公共のためになることをする人はかなり稀有な存在だと思います。ただ、学校教育を通してそういう人間を育成しようという理念自体は大変すばらしいことですね。しかし、やり方がまずいのです。それほどレベルの高いことですから、「できない」状態から「できる」状態まで試行錯誤を繰り返し近づいていくのが理想です。問題は、掃除に関しては入学した時点からある程度のクオリティを生徒に求めてしまうことにあります。教室環境の乱れは、即荒れにつながります。掃除が行き届いているかどうかが、生徒の学習能率や生活態度に与える影響は大きいものです。ましてや、それが学校という大人数で行動する場であればなおのことです。なので、教員は生徒に掃除で結果を出すことを求めざるを得ません。すると、掃除の目的はいつのまにか「生徒に公共空間を大切にすることを学ばせること」から「生徒に教室を綺麗にさせること」に移り変わってしまいます。生徒が同じ「掃除をする」という行動をとっていても、「自分たちの使う教室だから綺麗にしよう」と思っているか「先生に怒られないように綺麗にしよう」と思っているかでは、教育的な効果がまるで違います。
 掃除に関しては、ある時点でうまくできなくても、根気強く自分たちの手で学校を綺麗にすることの素晴らしさを説き、「次はもっと綺麗にできるといいね」と励まし、できなかった部分をカバーするのは職員の仕事とするのが良いと思います。その方が、生徒が卒業する時点で、本来目指していた「公共空間を自ら大切にする人」の姿に近くなっているでしょう。

 「荒れさせないためのルールや仕組み」は当然学校の外では意味を持ちません。そのため、真面目で「いい子」と褒められていた人ほど、学校と社会の評価基準のギャップに戸惑います。「40人の生徒を1人の教員が指導する」という条件の下で指導の効果を最大化するようにデザインされている学校というシステムが、社会の中でかなり特殊なものであるということなのでしょう。「学校の常識は社会の非常識」という揶揄も、ある程度的を射ていると言えるでしょう。では、学校はどのように変わるべきか、私たちは生きていくためにどのような力を身に付ければいいのかということについては、また別の記事で書いていきたいと思います。

« いつ幸せになるか? 今でしょ! | トップページ | 第8回ジレンマ×ジレンマに出演します! »

教育」カテゴリの記事

コメント

管理するコストが不足しているなら、管理しなければいいと思います。
40人もの生徒を管理する教師も大変だとは思いますが、
管理される生徒一人一人だって窮屈だし、コスト不足を理由に一元的管理をされるのは苦しい。
大学のようにクラスで縛らない義務教育というものがあれば、最高だと思うんですよね。

コストで言えば、教育的指導>管理 ですね。
「クラスで縛らない義務教育」これは私も望ましいものだと思います。
クラス制にはメリットもありますが、デメリットの方が大きいと思います。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1588989/51864020

この記事へのトラックバック一覧です: 「先生!学校での経験が社会で役に立たないのはどうしてですか?」「それは、学校運営を成り立たせるためのルールが多すぎるからだよ」:

« いつ幸せになるか? 今でしょ! | トップページ | 第8回ジレンマ×ジレンマに出演します! »

2015年4月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

最近のトラックバック