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2013年7月

2013年7月24日 (水)

問題を解決するのに最も有効な方法はインセンティブを作ること

 7月21日は参議院選挙投票日でした。投票率の低さを問題とする声は以前からいたるところから聞こえますが、その具体的な解決策は見えていません。そんななか、投票日の直前、こんなツイートを見かけました。

https://twitter.com/ynabe39/status/358715839320571904
選挙に来てほしいなら投票所で景品でも配ればいいと思う。「そういう問題じゃない」とすればどういう問題なのか。

https://twitter.com/ynabe39/status/358721018635890689
「投票に景品を与える」というと「バカバカしい」と思って「投票しないことに罰則を設ける」というと「バカバカしい」と思わないのはなぜか。どちらも同じことで,かつ心理学的には明らかに「景品を与える」ほうが優れた方法であるのに。

https://twitter.com/ynabe39/status/358723449830649856
ようするに「投票に行かないやつが気に入らないから罰を与えたい」という議論ばかりで「どうしたら投票率を上げられるか」を本気で考える人は少ないんだろうなあ。

https://twitter.com/ynabe39/status/358724050165563392
投票率の問題については「投票に行かない人の状況や気持ち」から議論を立ち上げないといけないのに,その問題に興味をもつのは主に「投票に行っている人」だから「自分と違うけしからん人間を処罰する」という発想にしかならないのだろう。

https://twitter.com/ynabe39/status/358726245388779520
「するのが当たり前のことには報酬を与える必要はない,報酬を与えてはいけない」というのはわりと広く共有されている常識だが,心理学者的には間違っていると思う。

https://twitter.com/ynabe39/status/358726683290906624
「当たり前のことをしてくれない人」が現にいるときには,その人に罰を与えるより「当たり前のことに報酬を与える」ことのほうが効果的である場合が多い。

私はこれまでツイッターで社会問題に対するアプローチの仕方についていろいろ述べてきました。いろいろ考えた結果、端的にまとめると以下のようになります。

・問題の原因や構造を明らかにする活動と、それを解決するための活動は質が異なる
・前者に取り組む人は多いが、後者に取り組む人は少ない
・後者には、アイディアを行動に移す際に生じる結果に責任を負わなければならない
・後者により問題を解決しなければ、前者による分析がどんなに優れていても意味がない

投票率の低さに限らずこの日本社会には様々な問題がありますが、問題の原因究明や構造分析は盛んに行われていても、その解決の具体的な方法を提案するところまではなかなか進まないようです。しかし、いつまでも手をこまねいているわけにもいきません。何か解決策を考え、行動に移さなければなりません。私もいろいろ考えたり意見を伺ったりしてきた結果、あらゆる問題の解決に共通するポイントがあるのではないかという考えに至りました。それは「問題に関係する人たちが問題を解決するように行動するインセンティブを作る」ということです。インセンティブとは、組織や人に対して行動を促す動機づけのことです。もっと砕いた感じで言うと「解決するように行動すると得をする仕組みを作る」ということになります。

 ここまで読んで、「そりゃそうだ。人間得するように行動するんだから、そういう仕組みを作ればいいに決まってる」と思った人もいれば「そんなのおかしい。特定の人だけが得をするのは不公平だし、得とか損とか関係なく問題を解決できる立場にいるなら解決するべきだ」と思った人もいるでしょう。おそらく、真面目な人であるほど後の感想を抱いたのではないでしょうか。それは、問題の原因や構造を明らかにするアプローチは「正しさ」を出発点とした活動であるということによるのでしょう。それに対し、解決のための具体策を考えるアプローチは、眼の前の「問題」そのものからスタートする活動です。無理が通れば道理が引っ込むとはよく言ったものですが、問題が起こっているということは、すでに道理は引っ込んでいるのです。論理的な正しさを説くことで解決するようなものなら、そもそも問題として認識されることもないのでしょう。非常に口惜しいことですが、私たちは、すべての人が道徳的に正しく生きられるわけではないことも、正しさだけを拠り所に生きることがとても困難であることも、経験的に知っています。であれば、正しさとは違った観点から具体的な解決策を導き出す必要があることも、抵抗を抱きつつも理解できるのではないでしょうか。

 冒頭で紹介した投票率を上げるために「投票に来た人に景品を与える」というアイディアは、「問題に関係する人たちが問題を解決するように行動するインセンティブを作る」という活動の例として非常にわかりやすいものだと思います。本来なら景品などなくとも投票には行くべきですが、それでも投票に行かない人が多くいるのが現実です。「自分の意見が政策に反映される」というインセンティブが選挙にはもともと備わっているのですが、それは自分が支持する候補が当選した場合に限られますし、その構造が見えにくいのが難点です。投票率を上げるには、「わざわざ休日の時間をわずかでも割いて投票所に足を運びたくなる」だけの魅力のあるインセンティブが必要なのでしょう(個人的にはただ投票率を上げればいいという問題ではなく、政策をじっくり吟味したうえで投票するところまでいかなければ不十分だと思っていますが、そのインセンティブを作るのはかなり困難だと言えるでしょう)。

 最近ではあまり騒がれなくなりましたが「イクメン」に対しても同じことが言えそうです。「イクメン」という言葉が流行りだした頃「これまで女性に育児や家事が押し付けられてきたことが問題なのであって、男性が育児や家事を負担するようになったことを特別視し、わざわざもてはやすのはおかしい」という批判の声も上がりました。この主張自体は筋の通ったものです。これまで低水準だった男性の育児参加が普通の水準に近づいただけのことで、普通のことをしている人を褒めるのは確かにおかしなことです。しかし、現実問題として家事や育児を行う男性を増やすために具体的に何ができるかと考えることは、それとはまた別の話です。それまで仕事ばかりに没頭していた夫が褒めることで家事や育児をやるのであれば、大いに褒めようじゃありませんか。掌の上で転がすような感じでいいではないですか。クラスでも優秀なあの子はこれまで1日2時間勉強していたのをさらに30分勉強時間を増やすというところ、一切勉強しなかったうちの子が15分でも勉強するようになったのなら、大げさなくらい褒めてあげましょう。それで望ましい結果が得られるのなら、もてはやし良い気分にさせてあげるのは無駄なことではないでしょう。

 もう1つ例を挙げましょう。よく「昔ワルかったやつが更正するとさも立派なことのように扱うけど、昔からずっと真面目だった人の方が偉いに決まってる」という不満もよく耳にします。これは非常によくわかります。本当にその通りです。その通りなのですが、もしかしたら、そうやって褒めそやすことでワルかった人が再び悪の道に走るのを防ぐことになるかもしれません。もしくは、昔からワルくて今もワルい人が「真面目に生きてみるのも良いかもな」と改心するきっかけになるかもしれません。それは、真面目な人が生きやすい社会を作ることに貢献しているということができるでしょう(ただ、更正したワルをもてはやすのは、真面目に生きるインセンティブを作ろうというより、単純に昔との比較で偉く見えてしまっているという動機による場合が多いのでしょう)。

 ここまで読んでも納得のいかない人もいるでしょう。「結局初めから真面目に正しく生きている人が損をするじゃないか」と思う人もいるでしょう。しかし、冒頭でツイートを紹介した渡邊芳之氏はこうも言っています。

https://twitter.com/ynabe39/status/358732858598244352
@meganelife もともと「道義的に自分の行動を制御して窃盗をしない人」も,そのことによって得るものがあったからそうしているのだと思います。行動の制御で得るものがなかったから窃盗をする人には外部的に「得るもの」を与えるということです。

つまり、初めから真面目に正しく生きていた人には、そうするだけのインセンティブがあったのではないか、ということです。もちろん、道徳心や自制心など、1人1人を見ていけば様々な違いはあります。それでも、社会的に望ましくない行動を取る人たちの人間性だけを問題にしても解決には至りません。問題の原因や構造を理解している人が、寛容さと謙虚さを持ち、地に足をつけて具体的に解決策を考えることが、問題の解決には一番の近道だと言えるでしょう。

 いろいろ理屈を捏ねて説明しましたが、インセンティブを作ることで問題を解決しようという動きは、ソーシャルビジネスという形で実現されています。社会貢献的な活動を継続するために収益性を持たせるという説明はよく耳にしますが、私は金銭的なインセンティブを持たせるという意味合いの方が大きいのではないかと考えています。たくさんお金が稼げるのであれば、優秀な人も活動に関わってくれるかもしれませんし、自分たちのやる気も上がります。活動を拡大するための資金を得ることにもつながります。ソーシャルビジネスでがっぽり稼ぐことは、社会貢献という観点からも高く評価されることなのです。というかビジネスはもともとそういうものだったのです。
 多くの社会問題は、問題の構造を指摘するフェイズは十分に行われていると私は感じています。それらを解決策を考えるフェイズにどう持っていくかに知恵を絞っていく必要があるのでしょう。

 もちろん「ホワイトアクション事例集」も企業が労働者を大切にするインセンティブを作ろうという発想によるものです。今後の展開を括目してお待ちいただければと思います。

2013年7月12日 (金)

末期資本主義の向こう側 労働時間規制と日本人ラテン化計画

 20世紀に入り、日本経済は重工業中心から情報・サービス産業中心の構造に移行してきました。産業資本主義の段階を過ぎた経済を後期資本主義や末期資本主義と呼びます。脱近代と呼んだりもするそうです。いろいろ呼び方はありますが、私は末期資本主義という呼称が好きです。大きく変わらざるを得ない緊迫感がヒシヒシと伝わってくる表現だからです。それは恐ろしいことであると同時に、新しい時代を迎えるワクワク感を感じさせるものでもあります。末期資本主義が産業資本主義とどうのように異なるかは、渡邊太氏の『愛とユーモアの社会運動論』に詳しく書かれていますので、関心のある人は一読してみてください。

 さて、以前書きました「労働時間規制は必要だ 個人の努力にも規制は必要か?」という記事を書きましたが、そこで指摘している市場飽和とは、まさに末期資本主義の1つの側面なのです。高品質の工業製品が安価に手に入るようになり、モノではなく情報やサービスを売らざるを得なくなったのです。便利なものは世の中に普及しているのですから、私たちはある意味理想郷に生きているのかもしれません。私たちは江戸時代には究極的に「選ばれし者」であった各国の大名よりも便利で快適な生活を送っているのです。しかし、実際の日本社会はどうでしょう。なぜこんなに便利なものがあふれており、十分快適に生きていくことができるはずなのに、過労死するまで働かざるを得ない人がいるのでしょうか。そのヒントになりそうなツイートを見つけました。

https://twitter.com/otakibot/status/347269645537013760
ベーシックインカムの議論じゃないけど、昔よりも色んな技術が発展して、生産効率が上がったんだから、遊んで暮らせたって本当はいいはずなんだよね。でもそうならないところに資本主義の最大の欠点があると思う。

なぜ私たちは、十分な食べ物も便利なものも手にしながら、遊びにかける時間を増やさないのでしょう。それは、企業が生産性の向上により生まれた時間の余裕をさらなる生産活動に費やしてしまうのと同じように、労働者も生産性の向上によって生まれた時間の余裕を余暇時間として活用せず、少しでも多くの給料を稼ぐために使ってしまうからです。私がブラック労働が生まれてしまうことの責任を労働者も負っていると考えるのは、この点があるからです。結局労働力の安売りをし、ダンピングを引き起こしているのは労働者なのです。しかし、時間的な余裕をさらなる生産活動に費やし、少しでも多く稼ぎたいという気持ちはごく自然なものであるように思います。資本主義社会において多くの労働者がそういう選択をしてしまうのも自然な成り行きと言えるでしょう。問題はその過剰さにあるのです。
 加えて、私たちの幸福は何も十分な食料と便利な生活用品のみによってもたらされるわけではありません。承認や尊敬と呼ばれるものはあくまでその集団の中での他者との比較により、相対的に優位に立つことで得られるものなのでしょう。みんなが大名レベルの生活をしていても、大名レベルの幸福感が得られるわけではないのです。私たちはそういう競争のなかに生きているのですが、やはり頑張りすぎてしまっては「普通」のハードルがどんどん吊り上げられ、苦しくなってしまいます。さすがにみんなで手をつないで同時にゴールしようというのは不自然ですが、やはり問題は過剰さにあるのでしょう。

 頑張りすぎることがデフォルトになっている背景には、産業テクノロジーの高度化もあるのでしょう。高付加価値の製品を低コストで生産できる機械が普及すれば、人間の提供する労働力の価値は相対的に下がります。こうして情報・サービス産業に移行せざるを得ない労働者が多く生み出されたわけですが、この状況は19世紀のラッダイト運動が起こった背景と非常に近いものがあります。なんてことを考えていたら、IT技術の普及の陰にネオ・ラッダイト運動なるものが起こっていたというではないですか。なぜ労働者たちは生産性を向上させる機械を打ち壊さなければならなかったのでしょう。それは、生産性の向上によって得られる富や利便性を資本家が独占したからにほかなりません。当時、労働者たちが取るべき手段は機械を打ち壊すことではなく、「機械を導入したことで得られる富を独り占めするな!こっちにも分け前をよこせ!」と主張することだったのではないでしょうか。こう考えると、社会全体の富の総量だけでなく、その分配の仕方が私たちの幸福にいかに大きな影響を与えるかが見えてきます。

 ネオ・ラッダイト運動が示唆するのは、高品質なものが安価で手に入り、相対的に労働力の価値が下がる現象が情報・サービス産業の分野にも及んでいるということです。私は社会科の授業で、産業には農林水産業などの第一次産業、製造業や工業などの第二次産業、情報・サービス産業などの第三次産業があると習いました。この第三次産業まで飽和してしまったら、私たちはどのようにお金を稼ぎ、生きていけばいいのでしょうか。健康で文化的な最低限度の生活を送るのに十分なお金を、高度な産業機械やIT技術が生み出すものより高付加価値かつ安価な製品やサービスを継続的に提供し続けることなど可能なのでしょうか。この問題が顕在化したものがワーキングプアであるという見方も可能になります。もちろん、そこには富の分配の問題もあるのでしょうが、もはや人間の能力の限界として、すべての人間が高度な機械より高い生産性を発揮することなど不可能なのでしょう。安部総理大臣は「日本再興戦略」なるものを策定したようですが、こういった市場飽和の問題をどのように捉えているのか、疑問は多々残ります。
新たな成長戦略 ~「日本再興戦略-JAPAN is BACK-」を策定!~

 一時期話題になっていたベーシック・インカムは、社会保障という文脈ではなく、市場飽和による資本主義経済の維持の限界から必要になると考えることもできます。働いて稼ぐことなど、一部のエリートに許された贅沢な行為になるのではないでしょうか。つまり、産業機械やIT技術の発達により可能になった「遊んで暮らす」を制度として実践しようというのがベーシック・インカムの発想であると私は考えています。何やら「遊んで暮らす」という言葉に「怠け」や「甘え」といった負のイメージを持つ人もいるかもしれません。しかし、「遊んで暮らす」は必ずしも「怠け」を意味するものではありません。先ほど指摘したように、承認や尊敬は競争に勝ち、相対的に優位に立つことで得られるものです。きっと私たちは衣食住が保障されたとしても、金銭を介さない形で競争を続けるでしょう。しかしそれは、現在では金銭を介して一続きになってしまっている「生存」と「承認」が切り離された形での競争です。失敗しても生存は確保されるので、芸術や芸能、スポーツの分野に失敗を恐れず人生のすべてをかけることも可能になるのです。また、少なくとも、過労死するまで働かなくてはならなかったり、働いても働いても貧しさから抜け出せない社会よりは「怠け」や「甘え」に満ちた社会の方がよほどマシだと言えるでしょう。
 といっても、ベーシック・インカムには財源の確保など、実践に至るまでに乗り越えなければならない問題は多くあります。さすがにいきなり「遊んで暮らす」を実践するのは無理があるのでしょう。では、段階的な移行措置としてどのような方法が考えられるでしょうか。

 いきなり「遊んで暮らす」のは無理でも、労働時間の上限を大胆に短くすることでそれに近づけることは可能なのではないでしょうか。発想としては、生産性の向上によって生まれた時間の余裕を、さらなる生産活動に充てるのではなく、素直に余暇時間として活用するという感じです。先ほど指摘した通り、わずかでも余暇時間が増えるなら、少しでも稼げることに時間を使いたいというのも資本主義社会に生きる人間の自然な感情ですから、ここは公的に制限を設ける必要が生じます。ここは大胆に、1日5時間、週に25時間以上の労働は法律で禁止してみてはどうでしょう。少子化の問題もバリバリ解消するかもしれません。「そんなことをしたら国際競争に負けてしまう」という指摘もあるでしょう。その通りだと思います。グローバル化の怖さは、この過当競争のフィールドが全世界に拡大される点にあるのだと思います。日本だけが規制を設けるのは理にかなわないので、市場が成熟している国には同じように規制を設けるように求める必要があるでしょう。むしろ現状において、すでに労働時間規制を実践しているヨーロッパ諸国(イギリスを除く)は新自由主義路線で長時間労働が常態化している国々に対し、抗議を起こしてもいいのではないか、私としては切実にお願いしたいレベルで抗議が当然だと考えています。世界規模で労働の価値のダンピングを防ぐことが必要なのでしょう。

 以前から経済アナリストの森永卓郎氏が提唱する「日本人ラテン化計画」が、私の主張とも重なるところが大きい気がするのですが、その全貌はまだ明かされないままです。様々な場面で語られるようになってきたワークライフバランスですが、その実これまで残業代を払ってやらせていた仕事も勤務時間内に詰め込んで経費を削減するといった従業員に寄り添うものでないものや、高付加価値のモノを短時間で生み出すことのみを指向し市場の飽和を加速させるだけのものアイディアもあります。そういう点を考慮すれば、人間の幸福に直結する本当のワークライフバランスは森永氏の提唱するものにあるように私は思っています。

2013年7月 7日 (日)

もはや通用しなくなるであろう基準に適合するための努力を続けるメリットなんてない

 以前『「雇用崩壊とジェンダー」に学ぶ賃金差別の実態』という記事で、日本社会における差別というものについて触れました。関係する箇所を引用してみましょう。

このような差別が存在しているにも関わらず、メディアが「格差」という表現を用いることの要因が、竹信先生は以下の2点にあると述べました。

・日本社会において、そもそも差別とは何であるかという議論が十分に行われていない
・「差別」というと明らかに善悪の価値判断が必要になってしまうが、「格差」という表現なら「差がある」という事実を中立的に表すことができる

竹信先生の言うとおりだと思います。自身のどういう言動が差別に当たるのかよくわからないために、多くの人は加害者になることを恐れ「触らぬ神に祟りなし」という態度を取り、いわゆる弱者とされている人たちから距離を置き、相互理解が生まれる機会が失われるのでしょう。

加えて、こちらのツイートをご覧ください。

https://twitter.com/qqmasa/status/352356876425506816
これもその通りで、何が差別で何がそうでないかの絶対的な判断基準など存在しない。現時点では「パワーゲーム」によって決まってしまっているけど、これを「合意」によって決めなければ公正ではない。合意形成にはあらゆる属性の人が関わって議論が必要になるが、この社会ではその労力をひたすら惜しむ

「これ」にあたる、上記のツイートの元となったツイートは、「差別には絶対的な基準があるわけではなく、それぞれのコミュニティのパワーゲームによって決まる。そのコミュニティ内で肯定されている差別には、むしろ積極的に加担しないと排除される」という趣旨のものでした。

 さて、「差別」というものはよく「区別」との比較によって意味を説明される概念です。区別とは、待遇や扱いに差異を設けることに正当性や合理性があるものを指し、差別はそれらがないものという説明がよくなされます。とてもわかりやすい説明ではあるのですが、その「正当性」や「合理性」というものはどのように決まるのでしょうか。この点を深く深く突き詰めて考えていくと、結局のところ何が区別にあたり何が差別であるかは、そのコミュニティの成員が納得する基準を「合意」という形で恣意的に決めるしかないという結論に至ります。仮に全人類に共通する普遍的な基準があったとしても、それをそれぞれ異なる文化的背景を持つ国家などの集団に当てはめることは不可能でしょう。人間という存在がそもそも多様なものであり、必要となるルールは誰が成員となりどんな集団を形成するかによって変化するのです。
 上記のツイートにもあるように、そのルール作りのための「合意」を形成するには手間がかかります。現在の日本社会では合意形成のための議論ができているとは到底言い難い状況です。仮に日本社会で共通となる基準ができたとしても、自分が属する小さい集団(職場、家族など)では、また独自の基準が必要になります。また、時間の経過とともに成員の構成が変われば、同じ集団であっても基準は柔軟に変える必要が生じます。基準は非常に流動的なものなのです。すると、結局はその場その場で、自分の言動がその集団において正当性や合理性のあるものかを自分で判断する必要があります。その手間を惜しんでしまうと、ありもしない「どこへ行っても通用する基準」を自分で勝手に作ってしまい、時に自分の想定していない他者を傷つけるような言動を取ってしまい、またそのことに気付けないという事態に陥ってしまうのです。

 というところまで考えたところで、「本当なら集団ごとに決めるべき基準が、あたかも絶対的な基準が存在するかのように扱われている例は他にもあるぞ」と気づきました。例えば、最近ではもはや陳腐化していますが、コミュニケーション能力はどうでしょう。貴戸理恵氏の論文「学校に行かない子ども・働かない若者には『社会性』がないのか」から引用してみましょう。

「社会性」をはじめ「コミュニケーション能力」「対人能力」など、本来二者以上の相互交渉の産物であるはずの「関係」を、個人の「性質」や「能力」に還元してしまう言葉があふれている。だがそうした個人への還元は相互交渉の失敗を相手に一方的に帰責する点で、「対等な交渉相手」として関係形成に臨むことからの逃避であり、「社会」に居直る側のおごりではないだろうか。

もともとコミュニケーションとは、そこに参加しているメンバーの間で情報や意思を正確に伝えあうことができればいいわけですから、全人類に共通する絶対的なコミュニケーションのルールなど必要ないのです。なぜコミュニケーションの絶対的なルールがあるかのように考え、「コミュニケーション能力」なるものが存在すると考えてしまうのかについては、前々回の記事「分断支配の乗り越え方 うまくいっている側の問題を明らかにしよう」という記事を参照してください。

 コミュニケーション能力に関連して、近年増加していると言われる発達障害についても考えてみましょう。発達障害の1つとされる自閉症ですが、その特徴は以下の3点であると定義されています。

(1)対人関係の障害
(2)コミュニケーションの障害
(3)限定した常同的な興味、行動および活動

先ほどの「コミュニケーションに絶対的なルールはない」という前提を踏まえると、これら(1)(2)の定義がおかしなものであると気づきます。「対人関係に絶対的な正解が存在する」という前提に立たなければ、「対人関係の障害」という定義は成り立たないからです。それを踏まえ、そもそも「発達」とは何であるかについて、最近よく引用している津田英二氏の『物語としての発達/文化を介した教育』からまたまた引用してみましょう。

 第二に、国民国家の形成と関わる規範性との関連で説明できる。近代は国民国家の形成期としても特徴づけられる。国民国家の課題は一つの国民の形成であった。多様な言語を話し、宗教や階級によって分断されていた国民を一つに統合しようというプロジェクトである。このプロジェクトにおいては、国民としての規範を定めて、その規範に人々を当てはめていくという作業を必要とした。学校教育は、こうした面からも近代初期に必要とされたのである。個人が社会的に肯定的な価値を付与された状態に達することを意味する発達概念は、こうした規範に合った国民の形成にとって不可欠な道具であったということができよう。

このように、そもそも人間のどのような能力の変化が「発達」の範疇にカウントされるかは、社会構築的に決まるものなのです。それがあたかも普遍的、絶対的なものであるかのように扱うことは、大きな弊害を生み出すことになります。

それと同時に、差別や発達などの絶対的な基準がまったく無意味なものではないことに気がつきます。上記の引用からも分かるように、発達概念は近代国民国家を形成するうえで非常に有用なものでした。絶対的な基準を設けると、国家という非常に大きな集団を効率よくまとめあげ、コントロールしやすくなるのです。以前別の記事でも紹介しましたが、本田由紀先生のモデルが示す通り、近代日本社会は非常に効率よく統治できるようにデザインされてきたのです。しかし、そこには大きな弊害もありました。基準を設けることは、その基準を満たさない人を必ず排除することになるからです。これまでの日本社会は、様々な社会的排除を生み出しながら、効率的な運営を優先してきたのです。

 さて、絶対的な基準が弊害を生むものであるとして、それでは絶対的な基準のない社会
とはどのようなものでしょうか。それは、その集団ごとに独自のルールを持ち、また定期的にルールを点検し、それぞれの集団の変化に合わせて柔軟にルールを変えていくことが習慣化された社会です。これは、所属する集団の数だけルールを身につけなければならず、またそのルールも日々アップデートされていきます。そのことを面倒に感じることもあるでしょうが、こちらの方が「人間とはもともと多様なものである」という実態に合うものだと思います。絶対的な基準がある社会とない社会のどちらが望ましいのか。それは個人によって意見の異なる問いでしょう。この問いは、多様な人間が共存する社会において、多様性から生じる摩擦を基準を満たさない一部の人に丸投げするのか、成員の全員で平等に負担するのか、という問いでもあります。

 私の個人的な意見としては、もちろん基準のない社会を目指すべきだと思っています。しかし、それは人権という観点からの平等性だけを考えているわけではありません。産業構造の変化などを考慮すると、むしろ基準などない方が効率的に社会を運営することができると考えられるのです。『「やむなしブラック企業を救え!」って具体的にどうするの?』という記事では「働き方」という観点から、これまでの画一的だった日本企業の人事管理を見直す必要性について書きました。経済成長と企業経営の双方の観点から見ても、大量生産が有効だった時代には、日本の伝統的な終身雇用と年功序列に基づく人事管理は非常に効果的なものでした。しかし、市場が成熟して多品種少量生産に切り替えなければならなくなった現在においては、その方法では以前ほどの利益は生み出せないのです。それと同じことが社会に存在する様々な基準においても生じているのでしょう。

 例えば、発達障害が増加していると言われますが、中枢神経系の機能不全という身体的特性を持つ人が短期間に急増することなどあり得るのでしょうか。これまでの「発達」の基準が社会構造の変化に合わず、その結果として「対人関係の障害」「コミュニケーションの障害」に該当するように見えるケースが増えているというのが実際のところではないでしょうか。個人の能力に変化はなくとも、これまで「なんかトロい人だな~」程度に思えていたことが「あんな容量悪い人を雇っている余裕はない!」と思ってしまうほど職場環境が厳しくなったというように社会的な環境の方が変わってしまっただけなのだと私は考えています。基準が合わなくなることは、個人が基準を満たすことが難しくなることも意味します。「分断支配の乗り越え方 うまくいっている側の問題を明らかにしよう」という記事で指摘した通り、現時点で基準を満たしている人たちも、その立場を維持するのに大変な苦労を味わっているのです。基準を満たせず排除されてしまっている人だけの問題ではないのです。

 では、今後私たちがとるべき手段は何なのでしょう。社会構造に合う新しい基準を設けることでしょうか。それとも、基準のない社会を目指すことでしょうか。私の意見は後者です。なぜなら、今後ますます社会構造の変化は急速になり、新たな基準を設けてもたちどころに古くなってしまうからです。もはや基準を設けるという発想が持てなくなる時代も遠からず訪れるのではないでしょうか。基準のない社会に備えて、柔軟に多様な他者を受け入れるスキルを身につけておくのが得策だと言えるでしょう。
 差別の基準、発達の基準、ジェンダーの基準、働き方の基準、これらすべては社会を効率よく運営するために人為的に作られた、いわば「裸の王様」にすぎません。その基準に適合するために、過労死するほど働いたり、適合するための努力をしていないように見える人を攻撃してまで、もはや通用しなくなるであろう基準に適合するための努力を続けるメリットはないと言えるでしょう。

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