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2013年7月12日 (金)

末期資本主義の向こう側 労働時間規制と日本人ラテン化計画

 20世紀に入り、日本経済は重工業中心から情報・サービス産業中心の構造に移行してきました。産業資本主義の段階を過ぎた経済を後期資本主義や末期資本主義と呼びます。脱近代と呼んだりもするそうです。いろいろ呼び方はありますが、私は末期資本主義という呼称が好きです。大きく変わらざるを得ない緊迫感がヒシヒシと伝わってくる表現だからです。それは恐ろしいことであると同時に、新しい時代を迎えるワクワク感を感じさせるものでもあります。末期資本主義が産業資本主義とどうのように異なるかは、渡邊太氏の『愛とユーモアの社会運動論』に詳しく書かれていますので、関心のある人は一読してみてください。

 さて、以前書きました「労働時間規制は必要だ 個人の努力にも規制は必要か?」という記事を書きましたが、そこで指摘している市場飽和とは、まさに末期資本主義の1つの側面なのです。高品質の工業製品が安価に手に入るようになり、モノではなく情報やサービスを売らざるを得なくなったのです。便利なものは世の中に普及しているのですから、私たちはある意味理想郷に生きているのかもしれません。私たちは江戸時代には究極的に「選ばれし者」であった各国の大名よりも便利で快適な生活を送っているのです。しかし、実際の日本社会はどうでしょう。なぜこんなに便利なものがあふれており、十分快適に生きていくことができるはずなのに、過労死するまで働かざるを得ない人がいるのでしょうか。そのヒントになりそうなツイートを見つけました。

https://twitter.com/otakibot/status/347269645537013760
ベーシックインカムの議論じゃないけど、昔よりも色んな技術が発展して、生産効率が上がったんだから、遊んで暮らせたって本当はいいはずなんだよね。でもそうならないところに資本主義の最大の欠点があると思う。

なぜ私たちは、十分な食べ物も便利なものも手にしながら、遊びにかける時間を増やさないのでしょう。それは、企業が生産性の向上により生まれた時間の余裕をさらなる生産活動に費やしてしまうのと同じように、労働者も生産性の向上によって生まれた時間の余裕を余暇時間として活用せず、少しでも多くの給料を稼ぐために使ってしまうからです。私がブラック労働が生まれてしまうことの責任を労働者も負っていると考えるのは、この点があるからです。結局労働力の安売りをし、ダンピングを引き起こしているのは労働者なのです。しかし、時間的な余裕をさらなる生産活動に費やし、少しでも多く稼ぎたいという気持ちはごく自然なものであるように思います。資本主義社会において多くの労働者がそういう選択をしてしまうのも自然な成り行きと言えるでしょう。問題はその過剰さにあるのです。
 加えて、私たちの幸福は何も十分な食料と便利な生活用品のみによってもたらされるわけではありません。承認や尊敬と呼ばれるものはあくまでその集団の中での他者との比較により、相対的に優位に立つことで得られるものなのでしょう。みんなが大名レベルの生活をしていても、大名レベルの幸福感が得られるわけではないのです。私たちはそういう競争のなかに生きているのですが、やはり頑張りすぎてしまっては「普通」のハードルがどんどん吊り上げられ、苦しくなってしまいます。さすがにみんなで手をつないで同時にゴールしようというのは不自然ですが、やはり問題は過剰さにあるのでしょう。

 頑張りすぎることがデフォルトになっている背景には、産業テクノロジーの高度化もあるのでしょう。高付加価値の製品を低コストで生産できる機械が普及すれば、人間の提供する労働力の価値は相対的に下がります。こうして情報・サービス産業に移行せざるを得ない労働者が多く生み出されたわけですが、この状況は19世紀のラッダイト運動が起こった背景と非常に近いものがあります。なんてことを考えていたら、IT技術の普及の陰にネオ・ラッダイト運動なるものが起こっていたというではないですか。なぜ労働者たちは生産性を向上させる機械を打ち壊さなければならなかったのでしょう。それは、生産性の向上によって得られる富や利便性を資本家が独占したからにほかなりません。当時、労働者たちが取るべき手段は機械を打ち壊すことではなく、「機械を導入したことで得られる富を独り占めするな!こっちにも分け前をよこせ!」と主張することだったのではないでしょうか。こう考えると、社会全体の富の総量だけでなく、その分配の仕方が私たちの幸福にいかに大きな影響を与えるかが見えてきます。

 ネオ・ラッダイト運動が示唆するのは、高品質なものが安価で手に入り、相対的に労働力の価値が下がる現象が情報・サービス産業の分野にも及んでいるということです。私は社会科の授業で、産業には農林水産業などの第一次産業、製造業や工業などの第二次産業、情報・サービス産業などの第三次産業があると習いました。この第三次産業まで飽和してしまったら、私たちはどのようにお金を稼ぎ、生きていけばいいのでしょうか。健康で文化的な最低限度の生活を送るのに十分なお金を、高度な産業機械やIT技術が生み出すものより高付加価値かつ安価な製品やサービスを継続的に提供し続けることなど可能なのでしょうか。この問題が顕在化したものがワーキングプアであるという見方も可能になります。もちろん、そこには富の分配の問題もあるのでしょうが、もはや人間の能力の限界として、すべての人間が高度な機械より高い生産性を発揮することなど不可能なのでしょう。安部総理大臣は「日本再興戦略」なるものを策定したようですが、こういった市場飽和の問題をどのように捉えているのか、疑問は多々残ります。
新たな成長戦略 ~「日本再興戦略-JAPAN is BACK-」を策定!~

 一時期話題になっていたベーシック・インカムは、社会保障という文脈ではなく、市場飽和による資本主義経済の維持の限界から必要になると考えることもできます。働いて稼ぐことなど、一部のエリートに許された贅沢な行為になるのではないでしょうか。つまり、産業機械やIT技術の発達により可能になった「遊んで暮らす」を制度として実践しようというのがベーシック・インカムの発想であると私は考えています。何やら「遊んで暮らす」という言葉に「怠け」や「甘え」といった負のイメージを持つ人もいるかもしれません。しかし、「遊んで暮らす」は必ずしも「怠け」を意味するものではありません。先ほど指摘したように、承認や尊敬は競争に勝ち、相対的に優位に立つことで得られるものです。きっと私たちは衣食住が保障されたとしても、金銭を介さない形で競争を続けるでしょう。しかしそれは、現在では金銭を介して一続きになってしまっている「生存」と「承認」が切り離された形での競争です。失敗しても生存は確保されるので、芸術や芸能、スポーツの分野に失敗を恐れず人生のすべてをかけることも可能になるのです。また、少なくとも、過労死するまで働かなくてはならなかったり、働いても働いても貧しさから抜け出せない社会よりは「怠け」や「甘え」に満ちた社会の方がよほどマシだと言えるでしょう。
 といっても、ベーシック・インカムには財源の確保など、実践に至るまでに乗り越えなければならない問題は多くあります。さすがにいきなり「遊んで暮らす」を実践するのは無理があるのでしょう。では、段階的な移行措置としてどのような方法が考えられるでしょうか。

 いきなり「遊んで暮らす」のは無理でも、労働時間の上限を大胆に短くすることでそれに近づけることは可能なのではないでしょうか。発想としては、生産性の向上によって生まれた時間の余裕を、さらなる生産活動に充てるのではなく、素直に余暇時間として活用するという感じです。先ほど指摘した通り、わずかでも余暇時間が増えるなら、少しでも稼げることに時間を使いたいというのも資本主義社会に生きる人間の自然な感情ですから、ここは公的に制限を設ける必要が生じます。ここは大胆に、1日5時間、週に25時間以上の労働は法律で禁止してみてはどうでしょう。少子化の問題もバリバリ解消するかもしれません。「そんなことをしたら国際競争に負けてしまう」という指摘もあるでしょう。その通りだと思います。グローバル化の怖さは、この過当競争のフィールドが全世界に拡大される点にあるのだと思います。日本だけが規制を設けるのは理にかなわないので、市場が成熟している国には同じように規制を設けるように求める必要があるでしょう。むしろ現状において、すでに労働時間規制を実践しているヨーロッパ諸国(イギリスを除く)は新自由主義路線で長時間労働が常態化している国々に対し、抗議を起こしてもいいのではないか、私としては切実にお願いしたいレベルで抗議が当然だと考えています。世界規模で労働の価値のダンピングを防ぐことが必要なのでしょう。

 以前から経済アナリストの森永卓郎氏が提唱する「日本人ラテン化計画」が、私の主張とも重なるところが大きい気がするのですが、その全貌はまだ明かされないままです。様々な場面で語られるようになってきたワークライフバランスですが、その実これまで残業代を払ってやらせていた仕事も勤務時間内に詰め込んで経費を削減するといった従業員に寄り添うものでないものや、高付加価値のモノを短時間で生み出すことのみを指向し市場の飽和を加速させるだけのものアイディアもあります。そういう点を考慮すれば、人間の幸福に直結する本当のワークライフバランスは森永氏の提唱するものにあるように私は思っています。

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