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2013年7月 7日 (日)

もはや通用しなくなるであろう基準に適合するための努力を続けるメリットなんてない

 以前『「雇用崩壊とジェンダー」に学ぶ賃金差別の実態』という記事で、日本社会における差別というものについて触れました。関係する箇所を引用してみましょう。

このような差別が存在しているにも関わらず、メディアが「格差」という表現を用いることの要因が、竹信先生は以下の2点にあると述べました。

・日本社会において、そもそも差別とは何であるかという議論が十分に行われていない
・「差別」というと明らかに善悪の価値判断が必要になってしまうが、「格差」という表現なら「差がある」という事実を中立的に表すことができる

竹信先生の言うとおりだと思います。自身のどういう言動が差別に当たるのかよくわからないために、多くの人は加害者になることを恐れ「触らぬ神に祟りなし」という態度を取り、いわゆる弱者とされている人たちから距離を置き、相互理解が生まれる機会が失われるのでしょう。

加えて、こちらのツイートをご覧ください。

https://twitter.com/qqmasa/status/352356876425506816
これもその通りで、何が差別で何がそうでないかの絶対的な判断基準など存在しない。現時点では「パワーゲーム」によって決まってしまっているけど、これを「合意」によって決めなければ公正ではない。合意形成にはあらゆる属性の人が関わって議論が必要になるが、この社会ではその労力をひたすら惜しむ

「これ」にあたる、上記のツイートの元となったツイートは、「差別には絶対的な基準があるわけではなく、それぞれのコミュニティのパワーゲームによって決まる。そのコミュニティ内で肯定されている差別には、むしろ積極的に加担しないと排除される」という趣旨のものでした。

 さて、「差別」というものはよく「区別」との比較によって意味を説明される概念です。区別とは、待遇や扱いに差異を設けることに正当性や合理性があるものを指し、差別はそれらがないものという説明がよくなされます。とてもわかりやすい説明ではあるのですが、その「正当性」や「合理性」というものはどのように決まるのでしょうか。この点を深く深く突き詰めて考えていくと、結局のところ何が区別にあたり何が差別であるかは、そのコミュニティの成員が納得する基準を「合意」という形で恣意的に決めるしかないという結論に至ります。仮に全人類に共通する普遍的な基準があったとしても、それをそれぞれ異なる文化的背景を持つ国家などの集団に当てはめることは不可能でしょう。人間という存在がそもそも多様なものであり、必要となるルールは誰が成員となりどんな集団を形成するかによって変化するのです。
 上記のツイートにもあるように、そのルール作りのための「合意」を形成するには手間がかかります。現在の日本社会では合意形成のための議論ができているとは到底言い難い状況です。仮に日本社会で共通となる基準ができたとしても、自分が属する小さい集団(職場、家族など)では、また独自の基準が必要になります。また、時間の経過とともに成員の構成が変われば、同じ集団であっても基準は柔軟に変える必要が生じます。基準は非常に流動的なものなのです。すると、結局はその場その場で、自分の言動がその集団において正当性や合理性のあるものかを自分で判断する必要があります。その手間を惜しんでしまうと、ありもしない「どこへ行っても通用する基準」を自分で勝手に作ってしまい、時に自分の想定していない他者を傷つけるような言動を取ってしまい、またそのことに気付けないという事態に陥ってしまうのです。

 というところまで考えたところで、「本当なら集団ごとに決めるべき基準が、あたかも絶対的な基準が存在するかのように扱われている例は他にもあるぞ」と気づきました。例えば、最近ではもはや陳腐化していますが、コミュニケーション能力はどうでしょう。貴戸理恵氏の論文「学校に行かない子ども・働かない若者には『社会性』がないのか」から引用してみましょう。

「社会性」をはじめ「コミュニケーション能力」「対人能力」など、本来二者以上の相互交渉の産物であるはずの「関係」を、個人の「性質」や「能力」に還元してしまう言葉があふれている。だがそうした個人への還元は相互交渉の失敗を相手に一方的に帰責する点で、「対等な交渉相手」として関係形成に臨むことからの逃避であり、「社会」に居直る側のおごりではないだろうか。

もともとコミュニケーションとは、そこに参加しているメンバーの間で情報や意思を正確に伝えあうことができればいいわけですから、全人類に共通する絶対的なコミュニケーションのルールなど必要ないのです。なぜコミュニケーションの絶対的なルールがあるかのように考え、「コミュニケーション能力」なるものが存在すると考えてしまうのかについては、前々回の記事「分断支配の乗り越え方 うまくいっている側の問題を明らかにしよう」という記事を参照してください。

 コミュニケーション能力に関連して、近年増加していると言われる発達障害についても考えてみましょう。発達障害の1つとされる自閉症ですが、その特徴は以下の3点であると定義されています。

(1)対人関係の障害
(2)コミュニケーションの障害
(3)限定した常同的な興味、行動および活動

先ほどの「コミュニケーションに絶対的なルールはない」という前提を踏まえると、これら(1)(2)の定義がおかしなものであると気づきます。「対人関係に絶対的な正解が存在する」という前提に立たなければ、「対人関係の障害」という定義は成り立たないからです。それを踏まえ、そもそも「発達」とは何であるかについて、最近よく引用している津田英二氏の『物語としての発達/文化を介した教育』からまたまた引用してみましょう。

 第二に、国民国家の形成と関わる規範性との関連で説明できる。近代は国民国家の形成期としても特徴づけられる。国民国家の課題は一つの国民の形成であった。多様な言語を話し、宗教や階級によって分断されていた国民を一つに統合しようというプロジェクトである。このプロジェクトにおいては、国民としての規範を定めて、その規範に人々を当てはめていくという作業を必要とした。学校教育は、こうした面からも近代初期に必要とされたのである。個人が社会的に肯定的な価値を付与された状態に達することを意味する発達概念は、こうした規範に合った国民の形成にとって不可欠な道具であったということができよう。

このように、そもそも人間のどのような能力の変化が「発達」の範疇にカウントされるかは、社会構築的に決まるものなのです。それがあたかも普遍的、絶対的なものであるかのように扱うことは、大きな弊害を生み出すことになります。

それと同時に、差別や発達などの絶対的な基準がまったく無意味なものではないことに気がつきます。上記の引用からも分かるように、発達概念は近代国民国家を形成するうえで非常に有用なものでした。絶対的な基準を設けると、国家という非常に大きな集団を効率よくまとめあげ、コントロールしやすくなるのです。以前別の記事でも紹介しましたが、本田由紀先生のモデルが示す通り、近代日本社会は非常に効率よく統治できるようにデザインされてきたのです。しかし、そこには大きな弊害もありました。基準を設けることは、その基準を満たさない人を必ず排除することになるからです。これまでの日本社会は、様々な社会的排除を生み出しながら、効率的な運営を優先してきたのです。

 さて、絶対的な基準が弊害を生むものであるとして、それでは絶対的な基準のない社会
とはどのようなものでしょうか。それは、その集団ごとに独自のルールを持ち、また定期的にルールを点検し、それぞれの集団の変化に合わせて柔軟にルールを変えていくことが習慣化された社会です。これは、所属する集団の数だけルールを身につけなければならず、またそのルールも日々アップデートされていきます。そのことを面倒に感じることもあるでしょうが、こちらの方が「人間とはもともと多様なものである」という実態に合うものだと思います。絶対的な基準がある社会とない社会のどちらが望ましいのか。それは個人によって意見の異なる問いでしょう。この問いは、多様な人間が共存する社会において、多様性から生じる摩擦を基準を満たさない一部の人に丸投げするのか、成員の全員で平等に負担するのか、という問いでもあります。

 私の個人的な意見としては、もちろん基準のない社会を目指すべきだと思っています。しかし、それは人権という観点からの平等性だけを考えているわけではありません。産業構造の変化などを考慮すると、むしろ基準などない方が効率的に社会を運営することができると考えられるのです。『「やむなしブラック企業を救え!」って具体的にどうするの?』という記事では「働き方」という観点から、これまでの画一的だった日本企業の人事管理を見直す必要性について書きました。経済成長と企業経営の双方の観点から見ても、大量生産が有効だった時代には、日本の伝統的な終身雇用と年功序列に基づく人事管理は非常に効果的なものでした。しかし、市場が成熟して多品種少量生産に切り替えなければならなくなった現在においては、その方法では以前ほどの利益は生み出せないのです。それと同じことが社会に存在する様々な基準においても生じているのでしょう。

 例えば、発達障害が増加していると言われますが、中枢神経系の機能不全という身体的特性を持つ人が短期間に急増することなどあり得るのでしょうか。これまでの「発達」の基準が社会構造の変化に合わず、その結果として「対人関係の障害」「コミュニケーションの障害」に該当するように見えるケースが増えているというのが実際のところではないでしょうか。個人の能力に変化はなくとも、これまで「なんかトロい人だな~」程度に思えていたことが「あんな容量悪い人を雇っている余裕はない!」と思ってしまうほど職場環境が厳しくなったというように社会的な環境の方が変わってしまっただけなのだと私は考えています。基準が合わなくなることは、個人が基準を満たすことが難しくなることも意味します。「分断支配の乗り越え方 うまくいっている側の問題を明らかにしよう」という記事で指摘した通り、現時点で基準を満たしている人たちも、その立場を維持するのに大変な苦労を味わっているのです。基準を満たせず排除されてしまっている人だけの問題ではないのです。

 では、今後私たちがとるべき手段は何なのでしょう。社会構造に合う新しい基準を設けることでしょうか。それとも、基準のない社会を目指すことでしょうか。私の意見は後者です。なぜなら、今後ますます社会構造の変化は急速になり、新たな基準を設けてもたちどころに古くなってしまうからです。もはや基準を設けるという発想が持てなくなる時代も遠からず訪れるのではないでしょうか。基準のない社会に備えて、柔軟に多様な他者を受け入れるスキルを身につけておくのが得策だと言えるでしょう。
 差別の基準、発達の基準、ジェンダーの基準、働き方の基準、これらすべては社会を効率よく運営するために人為的に作られた、いわば「裸の王様」にすぎません。その基準に適合するために、過労死するほど働いたり、適合するための努力をしていないように見える人を攻撃してまで、もはや通用しなくなるであろう基準に適合するための努力を続けるメリットはないと言えるでしょう。

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