フォト

twitter

ほしい物リスト

無料ブログはココログ

« 2013年12月 | トップページ | 2014年2月 »

2014年1月

2014年1月 5日 (日)

需要が枯渇した市場の中で頑張ることの意味 ニートは現代の衆生を救う修行僧か?

 前回の記事では、現代の日本国内の市場は需要が不足しており、資本主義経済の前提条件が揺らいでいるという点を指摘しました。今回は、需要が枯渇することによって個人が頑張って働くことの意味がどのように変わるのかということを考えてみたいと思います。

 そのためには、資本主義経済の仕組みを知らなくてはなりません。私の付け焼刃の知識でどこまで説得力のある考察ができるかわかりませんが、何事も挑戦が大事です。私が思う資本主義の最大の特徴は、人間の持つ欲求を健全な社会の形成にうまくつなげている点にあります。「たくさんお金を稼いでいい暮らしがしたい、有能な人間として認められたいという欲を満たしたいなら、それだけの価値のある仕事をしなさい」というルールが資本主義の根底にあるのです。
 これはじつにうまい仕組みです。人間には誰しも、程度の差はあれ、「他の人よりいい暮らしがしたい」「他の人より優秀だと認められたい」という欲求があります。仏教的には煩悩と呼ぶべきものでしょうか。そういういかんともしがたい欲求が、社会の必要を満たすための活動に結びつくように設計された仕組みが資本主義経済です。もともとの動機は「他の人より抜きん出たい」というどうしようもない欲求だったとしても、それが社会を形成する大義に結びついているのですから、働く側としてもじつに気分がいいものです。

 しかし、これはあくまで資本主義経済の前提である需要が十分に存在するという条件があっての話です。需要がなくなれば、社会の必要を満たし健全な社会を形成するという大義はその分薄れます。そして、「他人より抜きん出たい」という卑しい欲求が占める割合が大きくなります。私が「もともとビジネスってソーシャルなものなんじゃないか? 職業に貴賤はあるか」という記事で職業の貴賎はそのビジネスが社会の必要を満たすものかどうかで決まると主張したのはそういう理由からです。就職面接で志望動機を答える際の常套句として「御社の○○という事業を通して社会に貢献したい」という回答が挙げられますが、本当にその事業が人々の必要を満たし、社会の形成に重要な役割を果たしているかどうかはよく考えてみる必要がありそうです。

 さて、需要が枯渇している社会では個人が頑張って働くことの意味が様々な方面で変化します。「労働時間規制は必要だ 個人の努力にも規制は必要か?」という記事で単純化したモデルを用いて説明しましたが、個人が努力によって稼ぎを増やすことは、飽和した市場においては他者の取り分を減らさずには実現しません。社会全体の富の総量は変わらず、取り分の配分が変わるだけです。つまり「他の人より抜きん出たい」というどうしようもない欲求を満たす以上の意味を持たなくなります。たまに「たくさん稼いでいる人はその分たくさん税金を収めているのだから偉い」という趣旨の意見を耳にすることがありますが、結局他の誰かが収めるはずだった税金がその人に移っただけなので、税金の総額は増えません。「たくさん稼いでいるから偉いわけではない」というのは、もはや綺麗事ではなく、数字に現れる客観的な事実と言って差し支えないでしょう。たくさん稼ぐことが「偉い」という評価につながるのは、稼ぐことが社会の必要を満たすことにつながる構造が前提条件として必要なのです

 「労働時間規制は必要だ 個人の努力にも規制は必要か?」という記事でも説明したように、需要が枯渇した市場で頑張って働くことは、労力あたりの利益を引き下げる作用をもたらします。需要の枯渇は同じ水準の給料を維持するために必要な労力を引き上げます。すると、最低賃金を超える付加価値をもたらす労働を提供することの難しさが増し、結果としてニートが増えるというのは前回の記事で説明した通りです。もしみんながみんな、自分だけはレールから外れまいと、少しでも自分の取り分を増やそうと頑張ってしまえば、働いてお金を稼ぐことの難しさは無尽蔵に上がり続けます。そんな中、バイタリティの低い者から「こんな大変な条件では働けない」とドロップアウトしていきます。ある人は、そんな人たちを努力が足りない、根性がないと責め立てます。しかし、需要が枯渇しているという環境の変化を考えれば、働くことの大変さについていけない人が現れるのは当然のことなのです。それどころか、そういう人たちの存在は、働くことの大変さを可視化し、さらに働くことのハードルを上げる過当競争に歯止めをかける役割を果たしているのです。それはまるで、経済的な成功によっていい暮らしや他人からの評価を得たいという世俗的な煩悩から解き放たれた修行僧のようではありませんか。もちろん、ニートと呼ばれる人の多くは止むにやまれずそうなったというのが実態であり、主体的にその道を選んだ人などほとんどいないでしょう。ただ、日本に仏教が広まっていく時代においても、止むにやまれぬ事情から出家して仏門に入ったという人もいるという説もあります。歴史に詳しい方がこの記事を読んでくれたら、そのあたりの解説をお願いしたいものです。

 修行僧のくだりは半分冗談であるとして、この記事を通して言いたかったことは「働いてこそ立派な社会人」のような考え方の根拠がなくなりつつあるぞということです。立派な社会人とやらの肩書きを得るための競争が全く不毛なものに姿を変えつつあります。社会保障の負担を増やすお荷物のような存在として扱われるニートですが、職にあぶれるということはそもそも構造的に働く必要がない(働くことによって満たされる需要がない)ということになります。それがお荷物になってしまうような制度設計の問題であり、個人を責める前に「過労死するほど仕事があり、自殺するほど仕事がない」という状況をなんとかするべきでしょう。正月休みが終わり、明日から仕事始めという方も多くいるでしょう。みなさんはこの飽和した市場の中で何を目指して働きますか?

« 2013年12月 | トップページ | 2014年2月 »

2015年4月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

最近のトラックバック