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2014年5月

2014年5月25日 (日)

「努力が報われる社会」とは言うけれど

 以前「なぜブラック企業は生まれるのか2 産業構造は具体的にどう変わったのか」という記事で、ブラック企業の問題を考えるうえで経済をマクロな視点で見る必要があること、市場が飽和している状況では高度成長期とは働くことの意味合いが異なることを指摘しました。今回は、市場飽和という特殊な状況下で、どのように富を配分するのが適切なのかということを考えてみたいと思います。

 記事のタイトルの「努力が報われる社会」ですが、このフレーズを耳にするのはいわゆる弱者に対するバッシングという文脈であることが多いように思います。具体的には、生活保護をはじめとする社会保障を受けている人を対象に、財源となる税金を納めている労働者が「頑張って働いている者が搾取され、楽をしている者にばらまかれている」という不満を持ってしまうのです。そういった状況が生じてしまう問題に関しては「分断支配の乗り越え方 うまくいっている側の問題を明らかにしよう」という記事でも扱いましたが、この国の社会保障の問題は一度それを必要とするような状況に陥ってしまうと、なかなか労力あたりのリターンの低い待遇から抜け出せない点にあるのだと思います。

 「努力が報われる」とは努力量に応じた報酬が得られる状態を指すのでしょうが、需要が潤沢に存在した高度成長期にはある程度それが実現できていたのではないでしょうか。作って売り出せばその分だけ売れるのであれば、投入した労力や時間に応じた報酬を与える制度を作ることも難しくないように思います。それが現代のように作っても売れるとは限らない状況では、努力をしても結果が伴わないことも珍しくありません。成果主義の給与システムを採用する企業も増えているようですが、これは結果として生じた成果に給与を対応させているのであって、投入した労力の量を基準にしているわけではありません。そもそも努力の量を数値化して比較するなどとても困難なことですから、目に見えやすいアウトプットで評価するというのはまっとうな方法であると思います。理想としては頑張っている人の方が多くを得られる仕組みがあるに越したことはありませんが、「頑張っている」というのはどうしても主観的な評価になってしまいます。この記事でもアウトプットの相対的な比較と、それに応じた報酬の分配について考えてみたいと思います。

 先日、このようなツイートを見かけました。

https://twitter.com/Katsuhito000/status/468963990048362497
「うまくいってる」の定義が「富の総量が増える」か「富の所有の偏差が小さい」か次第でどうとでもなるけど、いわゆる新自由主義は後者を無視しすぎ。
https://twitter.com/Katsuhito000/status/468965415658733568
昔何かで読んだが、頑張りとか結果次第で、順位とか所得が実感が伴う程度の少量変動する社会が、最も活力があるらしい。
https://twitter.com/Katsuhito000/status/468965651496071168
別の言い方をすると、ある時点で負けてる奴が「まだまだこれから」と思える程度の差しかつかないのがいいらしい。
https://twitter.com/Katsuhito000/status/468965933474930690
負けてる奴からの突き上げがあるという状態が勝ってる奴のサボりを抑止するので、全体として頑張る奴が多数になるという構図。
https://twitter.com/Katsuhito000/status/468966942167273472
レースゲームで順位が下の車ほどブーストボーナスが付いて、ゲームとして楽しくなり成立するってのがあって、現実社会でもそういうほうが活性化するのかもと思った。
https://twitter.com/Katsuhito000/status/468968275888832512
やはり適度な再分配によって過激にならない競争が持続するようにしておくのがいいのだろう。新自由主義は経過も結果も過激であるし、敗北後の再挑戦がほぼ不可能なのもいただけない。

どのような富の分配を「適切」「良い」とするのかは、考え方次第でいろんな基準を挙げることができるでしょう。その中でFX Katsuhito氏は、みんなが「もっと頑張ろう」という気持ちになれるという基準で適切な富の分配を考えています。重要なのは「頑張りとか結果次第で、順位とか所得が実感が伴う程度の少量変動する」という点でしょうか。単純化したモデルを用いて比較してみましょう。
 ある国には10人の国民がいて、全員が何かしらの形態で働いています。国民所得は100で、所得の分配は以下のとおりです。順位は労働による生産性の大きさの相対的な順位です。

1位 20
2位 16
3位 13
4位 11
5位 10
6位 8
7位 7
8位 6
9位 5
10位 4

 また別のある国でも10人の国民が働いています。国民所得が100という条件も同じですが、所得の分布が大きく異なります。

1位 20
2位 15
3位 15
4位 15
5位 10
6位 5
7位 5
8位 5
9位 5
10位 5

どちらの国も国民所得は同じですし、アウトプットの順位と所得が逆転するという非合理もありませんが、働く人のやる気には差が生じてしまいそうです。後者の方では、3位や8位の人は多少順位が変わっても所得は変わらないので、あまり「もっと頑張ろう」という気持ちにはならないでしょう。新自由主義的な経済活動により資本の拡大再生産が進めば、所得の分配は二極化していくと言われています。働く人のやる気をどう盛り立てるかという観点からしても、過度に二極化した所得の分配は望ましくないと言えるでしょう。

 実際には人間のやる気は報酬のみに影響を受けるわけではありませんし、そもそもこれだけ市場が成熟した状況でみんながやる気を出して頑張る必要があるのかという疑問も残ります。また、所得の分配に関してどの社会にも当てはまる唯一の最良な方法など存在しませんし、仮にそれがあったとしてもどのようにそれを実現すればいいのでしょうか。本来は労使間の交渉で決めるのが筋ですから、法律で民間企業の従業員の給与を決めるというのは現実的ではありません。日本ではもっと政労使の対等な議論が必要なのだと思います。所得の分配についても、ちゃんと合意を作る過程を経るのが望ましいあり方なのです。

 市場が成熟した状況ではこれまでと同じ資本主義のルールを維持するのに無理が生じるという指摘を以前しましたが、次の記事ではその点を踏まえて適切な所得の分配のルールを1つ考えてみたいと思います。

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