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2014年7月

2014年7月13日 (日)

映画評「プリンセスと魔法のキス」 ディズニーが描く「夢」の変遷

 多くのファン同様「アナと雪の女王」に強烈に感染した私は、最近のプリンセス・ストーリーも観てみることにしました。今回の記事では2009年公開の「プリンセスと魔法のキス」を中心に、最近のプリンセス・ストーリーがディズニー作品のメインテーマでもある「夢」をどのように描いてきたのかを考えていきたいと思います。
 作品を観ての率直な感想としては、メッセージ性がとても深く、考えさせられる作品だといったところです。そのメッセージは本当に素晴らしく、私の目には非常に魅力的な作品として映ったのですが、これは本当に子供向けのエンタメ作品か!?本当にディズニー映画か!?とも正直思いました。監督に「リトル・マーメイド」「アラジン」でも監督を務めたジョン・マスカーとロン・クレメンツを起用していることでも話題になりましたが、本作はそれらの作品とはテイストが大きく異なります。それは時代ごとにどのようなストーリーが広く受け入れられるのかということを熟考しているディズニーならではの変化なのだと思います。では、どのように異なるのかをじっくり考えてみましょう。あらすじの部分に色をつけました。長くなってしまったので、本作を見たことのある人や、解説の部分だけを読みたい人は、色つきの部分は読み飛ばしてください。

※【ネタバレ注意】この先、「プリンセスと魔法のキス」だけでなく「アナと雪の女王」「塔の上のラプンツェル」の内容にも少し触れます。内容を知りたくない方はご注意を。
願うだけでは夢は叶わない

 作品の舞台は1900年代初頭のニューオーリンズで、主人公のティアナはアフリカ系アメリカ人の女の子です。ディズニー作品のプリンセスには、王様の娘であるパターンと王子様と結婚してプリンセスになるパターンがありますが、本作の主人公は後者です。レストランを開く夢を持つ父親に育てられ、美味しい料理を分かち合う喜びを幼い頃から知っていたティアナは、父親とともにレストランを開く夢を持ちます。父親は戦争にとられ、夢を叶えることなく亡くなってしまいますが、ティアナは幼い頃の夢を持ち続け、開店資金を貯めるためにウェイトレスの仕事を掛け持ちしています。ティアナが仕事に出かけるところでタイトルが表示され、本編が始まります。
 印象的だったのはプロローグでのティアナが幼かった頃の父親とのやり取りです。レストランを開く夢を持つティアナは、夜空の星に願いをかければ夢が叶うという童話を思い出し、両親の前で願い事をします。それを見た父親はティアナに「願い事は夢を叶える手伝いはするけれど、自分で一生懸命努力しなければ夢は叶わない。一番大切なことが何かってことを忘れてはいけないよ」と語りかけます。成長したティアナはこの言葉を胸に、一生懸命に働くのですが、この作品は序盤から泣かせにきますね。父親が登場する時間は短いのですが、そのなかで家族への愛に溢れた人物であることを明確に表現できるのは驚きです。かつて「ピノキオ」の挿入歌「星に願いを」が「映画史における偉大な歌100選」の第7位に入るといった功績を残すディズニーが、このようなメッセージを発することもまたすごい。そもそも、木の人形が人間になることを夢見たり、人魚姫が人間の王子との結婚を夢見たりすることに比べ、本作の「レストランを開く」という夢のなんと現実的なことでしょう。これは本当にディズニー映画か!?かつてのディズニー作品では夢や主人公そのものがファンタジックであり、ファンタジー性がストーリーのど真ん中に位置していましたが、最近の作品では主人公の成長などの人間ドラマに味付けを加える程度の役割になっているようです(本作ではヒロインと王子様がヴードゥーの呪いでカエルの姿に変えられ、動物たちと言葉を交わせるようになります)。そのあたりからも、多くの人に受け入れられるストーリーの質の変化がうかがえますね。
夢まであとすこし (プリンセスと魔法のキス) (YouTube 日本語版)
[MOV] Princess and the Frog - "Almost There" - Full Video (YouTube 英語版)
Almost There Lyrics — Anika Noni Rose (as Tiana) (英語版 歌詞)
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努力だけでもダメ?
 本作の王子様ナヴィーンは、マルドニアという架空の国からやってきます。表向きは立派な王子なので、ニューオーリンズの人たちにも歓迎されるのですが、実態は金遣いが荒くだらしない女ったらしで、親からは勘当されています。金持ちの家の娘との結婚を目論んでいますが、結婚すれば遊び歩く自由がなくなるという葛藤を抱えているかなりしょーもない男です。自由に生きるために必要な金が欲しいという欲につけこまれ、ヴードゥーの術師(ドクター・ファシリエ)に呪いをかけられ、カエルにされてしまします。そして、仮装パーティーの会場で出会ったティアナをプリンセスと勘違いし、呪いを解くためにキスをするように頼みます。ためらうティアナに、自分は王家の裕福な人間で、キスをしてくれたらレストランの開業資金を援助すると言って取引を持ちかけます。ティアナは夢のために仕方なくキスをします。これは本当にディズニー映画か!?実際にはプリンセスではないティアナがキスをしても呪いは解けず、それどころかティアナまでカエルの姿に変わってしまいます。沼地に迷い込んだ2人はワニに食べられそうになるのですが、いち早く切り株の穴に逃げ込んだティアナはレストランを開くための資金を援助することを約束させ、ナヴィーンを助けます。ナヴィーンはシャーロット(ティアナの親友の大富豪の娘。王子様と結婚しプリンセスになることを夢見ている)と結婚し、開店資金を出させると約束します。その後2人は呪いを解くために、道中出会ったワニのルイスとホタルのレイとともに、沼地の奥に住むヴードゥーの術師ママ・オーディを訪ねます。ママ・オーディは人間に戻りたいという2人の願いを見抜き、「望むものはわかったが、本当に必要なものはなにか」と問いかけます。ナヴィーンは「望むものも必要なものも同じじゃないか」と訝しりますが、ママ・オーディははっきり違うと言います。ここでそのシーンで流れる挿入歌「もう一度考えて(原題:Dig a Little Deeper)」を聴いてみてください。
もう一度考えて (プリンセスと魔法のキス)
Dig a Little Deeper - Princess and the Frog
Dig A Little Deeper Jenifer Lewis (Mama Odie) Lyrics
「望むもの(what you want)」と「必要なもの(what you need)」とどう違うのか、様々な解釈が可能でしょう。ここでは、「自分の実現したいこととして意識的に理解しているもの」と「無意識のレベルにあり言語化できないもの」といったところでしょうか。もしくは「表面的な欲望」と「幸せに生きるために本質的に必要なもの」かもしれません。ナヴィーンの場合は非常にわかりやすいものです。「お金では幸せは買えない」というメッセージはいたるところで耳にしたことがあるでしょう。ティアナの夢についてはどうでしょうか。ママ・オーディも「あんたの方がやっかいだね」と言っていますが、確かに「表面的な欲望」と呼ぶには彼女の夢は立派すぎるように思います。ママ・オーディの歌を聴いたティアナは「必要なものがわかりました。夢を実現するためにもっと努力します」と言いますが、それを聞いたママ・オーディは肩を落とします。ティアナに必要なものは「努力」ではないようです。ディズニー映画で「努力をしなければ夢は叶わない」というメッセージを発しただけでも驚くべきことなのに、さらに一歩進んで「努力一辺倒の人生もダメ」とまで言ってしまうのですから、時代の変化を感じずにはいられません。
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あんたが誰だって関係ないんだよ
 ママ・オーディは、人間に戻るためにはナヴィーン王子がプリンセスとキスしなければならないと言います。そしてそのプリンセスとは、ティアナの幼い頃からの親友のシャーロットでした。シャーロットは王家の生まれではないのですが、街一番の大富豪の父親がマルディグラ(ニューオーリンズで行われる世界的に有名なカーニバル)のキングに選ばれたため、カーニバルの期間中は娘のシャーロットはプリンセスということのようです。方法がわかった一行はニューオーリンズを目指します。ティアナに惹かれていることに気づいたナヴィーンは、シャーロットと結婚するのをやめ、自分で働いてティアナの夢を叶えようと決意しますが、その気持ちを伝えることができませんでした。ニューオーリンズでは、ナヴィーンに化けさせた召使いとシャーロットを結婚させて大富豪の家に取り入り、シャーロットの父親を呪い殺し街を支配しようとするファシリエの計画も進行していました。ナヴィーンも捉えられてしまいます。このままでは2人が人間に戻れなくなってしまうため、ホタルのレイはナヴィーンを助け出し、呪術の道具を奪って逃げるのですが、ファシリエに捕まり踏み潰されてしまいます。レイから呪術の道具を受け取ったティアナも、ファシリエの呪術によってレストランを開く夢が叶った幻影を見せられます。道具と引き換えに夢を叶えてやると取引を持ちかけたのです。ファシリエは「今までの苦労を思い出せ。お前の夢を笑ったやつを見返してやれ」とティアナを誘惑します。そして「かわいそうな父親を思い出せ。お前が彼の夢を叶えてやれるんだ」と父親の幻影をティアナに見せます。そこでティアナは気づくのでした。「父さんの夢は叶わなかったけれど、父さんには愛があった。父さんは大切なものがわかっていた」。ティアナはファシリエの誘惑を振り切り、呪術の道具を叩きつけて壊します。ファシリエは呪術に飲み込まれ消えてしまいました。
 助け出されたナヴィーンはことの顛末をシャーロットに話しました。ナヴィーンは人間に戻ったらシャーロットと結婚することを約束し、ティアナに開業資金を出してあげるように頼みました。それを見たティアナは自分のために望まない結婚をしてほしくないと、ナヴィーンを止めます。2人の間に本当の愛があることに気づき、心を打たれたシャーロットはキスで呪いを解いてもナヴィーンとは結婚しないと言います。しかし、日付が変わりカーニバルが終わってしまったため、いくらキスをしても2人は人間に戻りませんでした。そして、2人はカエルの姿のまま一緒に生きていくことを決意します。
 瀕死の怪我を負ったレイは、そんな2人の姿を見届けて息を引き取ります。沼地でレイの葬儀を行う彼らは、夜空に輝く大きな星の隣に、新たな星が輝いていることに気がつきます。その星は、レイが世界で一番美しいホタルだと勘違いし、エヴァンジェリーンと呼び恋焦がれていた星でした。レイはついに最愛の相手と一緒になったのです。

 終盤でも泣かせに来るのですが、みなさんはこの展開をどう思いますか?ティアナとナヴィーンはカエルの姿で生きることを決意し、レイは星になって願いを叶えました。ここでママ・オーディの歌を思い出してみましょう。

見かけなんかは気にしちゃいけない 指輪いくつしてようと、どうでもいいさ!!
(Don't matter what you look like Don't matter what you wear
How many rings you got on your finger We don't care)

ここまではよくわかります。表面的なことにとらわれてはいけないというメッセージはよく耳にするものです。問題はこの次です。

あんたが誰だって関係ないんだよ
(Don't matter where you come from Don't even matter what you are)

これには驚きです。外見などの表面的な要素と対比され、これこそが大事だとされてきた”what you are”(あなた自身、ありのままのあなた)でさえ問題ではないと言うのです。これまで個性だとか、自分らしさだとか、アイデンティティだとか、自分が自分として生きることが大切だとされてきた時代に、このメッセージは驚きです
 では、大事なものとはいったいなんなのでしょう。それは、ママ・オーディの言う「必要なもの」、つまり「自分をよく見つめなければ見えてこない本質的な幸せ」ということでしょう。レイにとっては、エヴァンジェリーンと一緒になれたことが重要なのであって、彼らがホタルだとか星だとかは些細な問題なのです!ティアナの父親は働き詰めで、夢も叶えられませんでしたが、彼には愛する家族がいました。彼にとってはそれが幸せでした。ナヴィーンとカエルとして生きていくことを決意したティアナは、事実上人間としてレストランを開く夢を諦めました。ティアナはそれが自分にとって必要な選択だと気づき、自分の進む道を決めました。
 これまで私たちは、理性や意志によって困難を克服し、自分の望む生き方を実現することをよしとし、そういった自律的な生き方に価値をおいてきました。しかし、そのように意識的に自分の生き方をコントロールすることが、必ずしも幸福を約束しないという事実にも目を向けるようになってきたのでしょう。その背景には、リーマン・ショックなどの経済的な混乱や、安定的な経済成長が永続的なものではないという認識の広がりなどがあるのかもしれません。そういった困難を経験し、人が生きていくことの機微や複雑さに腰を据えて向き合おうという姿勢の必要性を、多くの人が徐々に感じるようになってきたのでしょう。そして、その傾向は”Let it go”(ほうっておこう)という精神を象徴する「アナと雪の女王」の大ヒットという形でも顕在化したのです。
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 その後、ティアナとナヴィーンはママ・オーディのもとで結婚式を挙げます。2人がキスをすると呪いは解け、人間の姿に戻ります。王子と結婚したティアナはプリンセスとなり、プリンセスとナヴィーンがキスをしたことで呪いが解けたというわけです。なんとも一休さんみたいなトリッキーなオチですね。人間に戻った2人は目をつけていた物件を買い上げ、レストランを開きます。ティアナは夢を叶え、そして愛する人との幸せな生活も手に入れ、ハッピーエンドとなります。
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ディズニーが描く「夢」の変遷とその背景
 さて、ここで改めてこの作品で描かれている「夢」が、これ以前のプリンセス・ストーリーのそれと異なった要因を考えてみたいと思います。本作の特徴は夢や主人公の存在にファンタジー性がないということですが、では夢にファンタジー性があった作品が公開された時代の状況はどのようなものだったのでしょう。1950年代には、「シンデレラ」(1950)、「不思議の国のアリス」(1951)、「ピーターパン」(1953)、「眠れる森の美女」(1959)と、ファンタジー性の豊かな作品が公開されました。経済史的には、この年代のアメリカは「20世紀でアメリカ経済が最も輝いた50年代」と呼ばれる均衡ある経済発展を遂げました。日本では2005年公開の「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画が、昭和33年(1958年)当時の日本社会の様子を忠実に表現したことで話題になりました。あの映画で描かれていたように、日毎に豊かになり、便利なものが手軽に手に入るようになっていった時代に、それらの映画は公開されました。アメリカン・ドリームという言葉に象徴される上昇志向や右肩上がりの成長に多くの人が期待を寄せていた時代です。その頃には、さらに豊かな未来の像を思い描くことができ、スケールの大きな夢を多くの人が抱くことができたのでしょう。そのような人たちの心に、50年代の夢にあふれるディズニー作品はマッチしたのです。
 では、本作が公開された2009年はどのような年だったのでしょう。まだ記憶に新しい方も多くいると思いますが、2008年には世界的金融危機のきっかけとなったリーマン・ショックが起こりました。その影響もあってか、2009年のアメリカのGDPは名目、実質ともにマイナス成長となっています(参照:アメリカのGDPの推移)。また、先ほどのアメリカン・ドリームに関しても2008年にアメリカの研究機関と英国BBCが行った調査では、アメリカ人の54%はアメリカン・ドリームは手に入らないと考えているという結果が出ました(参照:「アメリカ人が抱く夢と現実」)。つまり、それまでの成長物語を心から信じられるような状況ではなくなり、絵空事のような「夢」に共感する人は少なくなったのでしょう。だからこそ、本作の描く「夢」はディズニー作品にしては極めて現実的であり、慎ましいものとなりました。といっても、本作の結末で頭金を用意するので精一杯だった主人公がレストランの経営を軌道に乗せている様子を「映画だからね」と冷ややかに見ていた人もいるかもしれません。2010年以降のアメリカは緩やかな経済成長を再び始めるのですが、経済格差の拡大により、成長による豊かさを実感できる人は少ない状況が続いています。

夢が叶ったあとは
 そのような状況は、翌年公開の「塔の上のラプンツェル」の「夢が叶ったあとはどうすればいいの?」という問いにつながります。これまでの記事で指摘したように、豊かさを実感できないことの原因が需要の枯渇にあるとしたらどうでしょう。需要の枯渇には、経済成長の停滞と労働の負荷の上昇という負の側面と、便利なものの普及という正の側面があります。現代の私たちは、50年代の人たちが夢みたような便利な生活を享受しているのです。私たちが生きているのは、まさに夢が叶ったあとの世界です。それはさぞ幸せな世界だろうと思いきや、実感としては「確かに豊かで便利になったと思うけど、幸せかどうかと聞かれると…」といったところではないでしょうか。上記のような問いかけは、豊かだけれどどこか空疎な時代を生きる私たちの心情を鋭く表していると言えるでしょう。作中では上記のような主人公の問いかけに対し、王子様ポジションのキャラクターは「また新しい夢を見つければいい」と答えます。う~ん、わかるような…わからないような…新しい夢って具体的にどんなものでしょうね。そのヒントになるのがこの歌です。
誰にでも夢はある(塔の上のラプンツェル)
[HD]Tangled - I've Got A Dream
I've Got a Dream Brad Garrett, Jeffrey Tambor, Mandy Moore Lyrics
ピアニストやインテリアデザイナーなど、いかにも夢らしい夢も登場するのですが、お菓子作りや編み物やコレクションって、それは趣味と呼ぶべきものではないでしょうか。いえいえ、そんな大層なものじゃなくても、本人が夢と思うならそれも立派な夢です。こんな時代に夢中になれる趣味を存分に楽しんで生きることだって、夢のようなことじゃありませんか。だってアメリカン・ドリームのような大きな夢にはとても手が届きそうにありませんし…。「塔の上のラプンツェル」では、主人公の夢も「空を飛ぶ光を直接見たい」という非常に個人的なものでした。この作品からは、他人に誇れるようなものでなくても、あなた自身が満足する生き方ができればそれでいいというメッセージを感じ取ることができました。もちろんその背景には、レストランを開くという現実的な夢でさえ実現するのは困難なものであるというシビアな現実を多くの人が認識しているという状況があるのです。
 また、この映画のエンディングテーマ”Something That I Want”の歌詞”I want something that I want”って、まさにかのキャッチコピー「ほしいものが、ほしいわ」なんですよね。生まれた頃から便利なものに囲まれて生きてきた私たちにとって、何が欲しいのか自分でも明確にはわからない、それでも心のそこから手に入れたいと思うものや夢中になれるものを見つけたいという感覚は、多くの人に共通するものなのかもしれません。
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アナ雪=蟹工船?
それでは、今年公開され大ヒットを記録した「アナと雪の女王」はどうだったのでしょう。この作品は「夢」については一切触れていません。叶うとか叶わないとかのレベルではなく、言及さえしません。魔法が制御できなくなるという問題が生じ、それを解決してスタート地点に戻る物語です。マイナスをゼロに戻すだけであって、プラスの要素はほとんどありません。姉妹の絆は強まったかもしれませんが、アナとエルサは元々仲のいい姉妹でした。アナとクリストフはくっついたじゃないかと思う人もいるかもしれませんが、あの2人の関係が永続的なものであることを示す描写はありませんでした(参照:ポストモダンな『アナと雪の女王』の「その後」を予想してみた。)。そんな作品がなぜこれだけのヒットを記録したのでしょうか。それは「アナ雪」が、夢を追いかける余裕などなく、日々生じる問題をなんとか乗り越え、時には諦め、受け入れながら必死に生きる現代の私たちの姿を描き出した作品だからです。もしかすると、「アナ雪」の大ヒットは2008年の「蟹工船ブーム」と方向性を同じくするものなのかもしれません。
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 さて、それでは50年代以降のディズニーの長編作品のメッセージ(?)を再度確認してみましょう。
50年代の作品「王子様の舞踏会だ~!誕生日じゃない日だ~!ネバーランドだ~!ヒャッハー!」
プリンセスと魔法のキス「願うだけでは夢は叶わないよ。努力が必要。でも夢が叶ったからといって幸せになれるとは限らないし、叶わなくても幸せになれるかもしれないよ。夢は幸せの1つの形でしかないんだ」
塔の上のラプンツェル「夢が叶ったあとはどうすればいいの?」「新しい夢を見つければいいんだよ」「例えばどんな?」「編み物とか、お菓子作りとか、そういうのだって立派な夢だよ。外食せずに家で鍋をつついて、100円レンタルのDVDを見て、ユニクロを着ていれば、十分に生きて行けるし、幸せでしょう?
アナと雪の女王「もうほっとこう」

いかがでしたでしょうか。眠れる森の美女に関する知識がないのがバレてしまいましたね。このように見ると、いかにも現代の社会には夢も希望もないような印象を抱いてしまいますが、必ずしもそれは事実ではありません。国の経済的な発展という大きなストーリーや、結婚という外部から与えられた枠組みが、個人の幸せを必ずしも保証するものではないという事実が明らかになり、一人一人が自身の生き方や人生の意味について腰を据えて考える必要性と向き合わなければならない時代を迎えたのです。その作業は、自分の中にしか存在しない答えを深く掘り下げるという、非常に面倒で先が見えず、また様々な欠点もあるありのままの自分と向き合わなければならないストレスフルなものです。しかし、そのプロセスを経ずに、本当に自分の満足のいく生き方を実現するのは不可能なことです。いうなれば、50年代の「成長の時代」は、経済的な豊かさによって、その面倒なプロセスを経なくても生きていけた時代だったのです。それが現代では、そのプロセスを経なければ生きていけない時代になったと言えるでしょう。それはもちろんピンチであり、同時に多くの人が自身の生き方や社会との関わり方について深く考え、一人一人が小さな行動に移し、結果として大きな社会変革を生み出す可能性を持つチャンスでもあります。今は世の中がそんな本当の豊かさに向かうきっかけが醸成されている「産みの苦しみ」の時期なのかもしれません。形式的な夢や希望、上昇志向にごまかされない自分にとっての本当の豊かさや幸せとは何なのか、それを実現するために社会とどのように関わっていけばいいのか、よく考えていきたいものです。

2014年7月 6日 (日)

「アナと雪の女王」の大ヒットに見る社会学的感染力の可能性 1人の問題はみんなの問題

 ディズニーの長編作品の53作目にあたる「アナと雪の女王」が大ヒットを記録しています。興行収入は、6月23日の時点で日本国内で約237億6337万円と歴代3位、世界では歴代5位を記録しています。7月16日発売のブルーレイとDVDも、予約受付開始から10日で40万件の予約を記録し、これはディズニー・スタジオ史上最高の記録だそうです。今回の記事では、本作がなぜこれほどの人気作品となったのかじっくり考えてみたいと思います。これまでこのブログでは働くことの困難さという問題を軸に、表面的な差異によって人々が分断されてしまうこと個人が社会に適応していく際に生じる問題(障害やセクシャルマイノリティ等)、それらの問題を解消するヒントとしての当事者研究について考えを述べてきました。バラバラに考えてきたこれらの話題が、「アナと雪の女王」の映画を見たことによって1つにまとまっていくような感覚を得ました。それは「アナ雪」のストーリー構成に、本当は同じような困難を抱えているのに表面的な差異によって分かり合えない問題を解消するヒントがあるように感じたからです。 

そのことに学問的な裏付けを付与してくれるかもしれない資料を入手しました。
『三田社会学』第19号 「当事者研究と社会学的感染力 ―当時者研究と社会学の出会いのさきに―」
この論文は同性愛者であり社会学者の小倉康嗣氏が、アスペルガー症候群当事者であり当事者研究会の実践者である綾屋紗月氏と、脳性まひの当事者であり当事者研究の研究を行ってきた熊谷晋一郎氏と出会い、当事者研究の存在を知り、その可能性について論じたものです。まず「当事者研究」とはなんなのでしょうか。こちらのページ(当事者研究とは-当事者研究の理念と構成-)に詳しい解説が載っていますので、よかったら参照してください。綾屋氏と熊谷氏は『つながりの作法 同じでも違うでもなく』の中で当事者研究について「専門家の描写や言説をいったん脇に置き、他者にわかるように自分の体験を内側から語る作業」と説明しています。小倉氏は「自分がいま苦労していることやそれに対する身の処し方を、専門家や既存の知に預けるのではなく、自らの研究テーマとして出して、仲間の力を借りながら、その苦労をいろんな方向から眺めて、自分を助ける知としていく。生きづらさや苦労の機制を知ることで、それをよりよい生の契機としていく」活動と定義しています。こういった活動が必要とされる背景として、病気や障害について専門家が外部から行う説明と当事者の実感にギャップが存在するという状況があります。具体的な例を『つながりの作法 同じでも違うでもなく』から綾屋氏の経験を引用します。

 私は「アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)」という診断名を得ている。その定義は自閉症の「①相互的社会関係能力の限界 ②コミュニケーション能力の限界 ③想像力の限界」という三つ組の特徴が見られることとされている。しかしこれはのちにも述べるが、あくまでも外側からの見立てに過ぎない。特徴とされるそれらの現象がなぜ生じるのかを、私の内側からの感覚で言えば、「どうも世界にあふれるたくさんの刺激や情報を潜在化させられず、細かく、大量に、等しく拾ってしまう傾向が根本にあるようだ」という表現になる。

確かに、医学的な定義と当事者の実感に基づく説明とでは、受ける印象に大きな違いがありますね(参照:「障害名ファースト」で語ることについて)。綾屋氏自身も他の精神疾患について、当事者の生の言葉に触れることで理解が深まった経験があるようです。

 かつて「自分のおかしさの原因探し」をしていた時に、綾屋は精神医学や心理学で語られる症状は一通り読んだ。経験している症状も多く、どれもだいたい実感としてわかると思ったが、唯一、そのなかで統合失調症だけがわからなかった。まるで手のつけようのない、怖くて破滅的な病気であるように描かれているばかりで、実感として伝わってこなかったのである。それが『べてるの家の「当事者研究」』を読んで初めて「あ、これなら内側からわかる気がする」と思えた。それは「自分のなかに生じるあの感覚の延長線上にあるのではないか」と自分に引き寄せてわかる感覚だった。

当事者研究のメリットとしては、
・当事者が自分の言葉で生きづらさを語ることで、周囲の人が先入観に惑わされずに当事者の生きづらさを理解し、必要な支援をしやすくなる
・当事者が自分自身と障害や病気とを切り離して考えられるようになり、ことさらに自分を責めることがなくなる
・苦労のパターンや構造が当時者自身にも明確になり、具体的な対応策を考えるヒントになる
ということが挙げられるようです。また、当時者研究には当時者同士の相互理解を深める効果もあるようです。例えば、自助支援グループなどでは、当事者が自身の苦労と他の当事者の苦労を比較して深刻さを競ってしまったり、収入や社会的ステータス、学歴、人間関係などの差異を強調して分断が生じてしまうこともあるそうです。同じ病気や障害を抱えていても、全く同じ苦労や背景を有しているわけではありません。そこで重要になるのが著書のタイトルにもなっている「同じでもなく違うでもなく」という感覚です。著書の中ではそれを「自分のなかにある信念を一段高いところから客観視することで、他者との「対立していない共有する部分」を見つけるという方法」と説明しています。具体例をべてるの家の実践から引用します。

べてるの家では、個人個人が体験している「主観的な事実」としての幻覚妄想を、「お客さん」「幻聴さん」「幻覚妄想状態」と呼び、明確にラベリングしている。これは「べてるの家全体にとっての現実」と、個人個人の「主観的な事実」との間に、ある程度の区別を置こうという振る舞いだと言えるだろう。
しかし特筆すべきは、メンバーのほとんどが、同じような幻覚妄想状態を体験したことがあり、その苦悩を熟知しているということだ。したがって、他者の幻覚妄想に対して、その内容を真に受けることはないものの、それに伴う感情の機微には深く共感するというスタンスがとられる。
これはちょうど、誰かが片思いで苦しんでいる時に、同じような片思いのつらさを過去に経験したことのある仲間たちが、相談に乗るときのポジションに似ている。妄想的苦悩の内容からは客観的に距離を置きながらも、苦悩そのものには深く共感してくれるのが、べてる流の包み込み方と言える。

一人一人が抱える幻聴、幻覚の具体的な内容は違いますが、「幻聴、幻覚にとらわれてしまう苦悩」という一段高いレイヤーに存在する視点から見た問題としては、みんな共通しているのです。片思いの例もありましたが、それは病気や障害に限らずあらゆるものに当てはまるでしょう。個々の会社の実情は違っても働くことの辛さは多くの労働者で共有できるでしょうし、何かしら思い通りにならないものを抱えながら生きているという点でもみんな共通しているのです。視点を一段高いレイヤーに持っていくことで共通点を見出す例として、こんな笑い話があります。

「うちの旦那と息子ったら食事の時間にも政治の議論ばっかりやってて、うるさくてしかたないの」
「似たもの同士の親子ね」
「全然違うわ。旦那は共和党、息子は民主党を支持していて、正反対よ」
「そうじゃなくて、団欒の時間にも熱くなっちゃうほど政治の議論が大好きってところは同じでしょ?」

小倉氏、綾屋氏、熊谷氏の三者も、同性愛、アスペルガー症候群、脳性まひと、抱えている生きづらさの種類は違いますが、自分の生まれ持った性質がありのまま社会に受け入れられず、その苦悩を「ないもの」としたり改善のための努力を強いられることの辛さを経験しているという点では同じなのです。「当事者研究と社会学的感染力」では、他者の「生の声」「生きた言葉」「生きられた経験」に触れることで得られる、表面的な差異を超えた共通の体験や感覚への気づきを「感染」と表現しています。「感染」という表現には、「対立していない共有する部分」の存在を言葉で理解するだけでなく、「自分だけではなかった!」という喜びやワクワク感、切実感が込められているのです。それは言葉の上での「理解」というより、「体感」に近いものなのでしょう。
 前置きがとても長くなりましたが、本当は同じような困難を抱えているのに表面的な差異によって分かり合えない問題を解消するヒントが少しずつ見えてきました。C・W・ミルズという社会学者は、個人とマクロな社会構造とのつながりを洞察する想像力を「社会学的想像力」と呼んで、その重要性を主張しました。つまりは、自分が抱えている問題は自分だけの個人的な問題ではなく、社会的な背景からの影響の存在に気づく力です。小倉氏は、そこから一歩踏み込んで、ワクワク感や切実感を伴って表面的な差異を超えた共通の体験や感覚への気づきを与える力を「社会学的感染力」として提唱しています。もう少し砕けた言葉で、ある社会問題に対して「これは自分の問題でもある」という気づきを「理解」を超えたインパクトを伴って与える力と言うこともできるでしょう。小倉氏は、「社会学的感染力」によって相互理解を深めるメッセージを発するためのアイディアをいくつか提案していますが、その中でも「文字による表現だけでは収まりきらない問題になってくるのかもしれない」という可能性を指摘しています。メッセージを発する媒体は学術的な調査や論文にとどまらず、芸術や芸能といった様々な形を取り得るでしょう。もちろんその中には、映画も含まれるはずです。

※【ネタバレ注意】この先、「アナと雪の女王」だけでなく「プリンセスと魔法のキス」「塔の上のラプンツェル」の内容にも少し触れます。内容を知りたくない方はご注意を。
 そういった観点からすると、「アナと雪の女王」は強い「社会学的感染力」を持つ作品であり、多くの人がこの作品の発するメッセージに感染したことが大ヒットという形に表れていると読み取ることができます。それでは、「アナと雪の女王」が持つ「社会学的感染力」の源泉をいくつか挙げてみましょう。

・「魔法」というデフォルメ、モデル化された問題と現実的な問題の絶妙なバランス
 ディズニー映画の魅力と言えば、何と言ってもそのファンタジー性でしょう。シンデレラを美しいプリンセスに変身させる魔法や、人間の王子に恋をする人魚。モンスターの世界があって人間と同じように働いていたら、オモチャが生きていて人間の見ていないところで冒険を繰り広げていたら、なんて考えたらワクワクが止まりません。しかし、「アナ雪」での魔法は、ネガティブな意味を持つものでした。「美女と野獣」の野獣にかけられた呪いのような位置づけになるでしょうか。このようなネガティブなファンタジー性は、わかりやすくデフォルメ、モデル化された問題として観る者に伝わります。誰しも「生まれつきあんな能力を自分の意志と関係なく持っていたら、そりゃあ生きづらいだろうな」と感じます。そして「アナ雪」の特徴は、モデル化された問題の他に極めて現実的な問題も描いていることです。具体的には、以前に書いたレビューでも述べたように、王位継承に関わることや、生まれてくる順番など、現実に存在する当人の意志ではどうにもできない問題のことです。それらの問題を1つの作品に同居させることで、現実的な問題も「魔法」と同等に生きづらさの要素となる深刻なものであるというメッセージが伝わるのです。公開以来、インターネット上の様々な媒体で多様な視点でのレビューが発信されていますが、「アナ雪」で描かれている「現実的な問題」の方に注目する人が多いのも興味深いところです。「これは自分のことかもしれない!」と感染した人が多く存在することの証でしょう。例を挙げてみましょう。

【ネタバレ注意】「アナと雪の女王」を見た長女が感じた長子の悲哀
「アナ雪に共感する長子たち」の嘆きになんかモヤモヤする次女のつぶやき

「長子は大人の期待に応えようと自分を抑えて「良い子」になろうとしまうんだよね」「道化を演じて明るく振舞うのも自分を抑えてるのと同じなんだよ。それを能天気だと思われてしまうのが末っ子の悲しいところ」といったところでしょうか。こういった反応があるのは、「アナ雪」が現実に存在する兄弟姉妹の抱く不満をリアルに描いていたからなのでしょう。そして、こちらのハンス王子に関するまとめも素晴らしい視点で書かれています。

アナライジングアナ雪

作中で、生まれた順番による最も大きな理不尽を被っているのがハンス王子です。彼は13番目に生まれたというだけで、統治者としての優れた才覚を発揮する機会を得られないのですから。自分の努力では変えられない生まれ持った要素によって苦しんでいるという点では、まさにエルサと同じなのです。国に連れ戻されたハンス王子はアレンデール王国での出来事を振り返り、エルサのことを思い出し「僕と同じじゃないか!」と再び口にしたに違いありません。
 クリストフに関しては、親の姿が見えないことやトナカイにしか心を開いていないことなど、彼も色々持っているのですが、当人がそれを気にしているようには描かれていません。「自分の力で解決できない問題があっても大丈夫」というメッセージを初めから体現しているキャラクターという位置づけなのでしょうか。
 本作のファンタジー性である魔法の扱いについても、大きな特徴があります。それは、愛の力によって魔法を制御できるようになったとしても魔法そのものはなくならないという結末であり、「美女と野獣」とは大きく異なるところです。問題を解消するのではなく、問題とうまく付き合いながら生きていくのです。これは「勝手に治すな自分の病気」という理念のもと、医療的に病気を治すことよりも病気を抱えながらも楽しく幸せに生きていく方法を探ろうというべてるの家の姿勢にも通じるものがあります。やっと世界がべてるに追いついてきたというところでしょうか
 ディズニーがファンタジー性のある作品の中に現実的な問題の要素を取り入れる傾向は、ピクサーとの提携以降に始まり、近年のプリンセス・ストーリーではその傾向がさらに強まっているように感じます。例えば、日本では2009年公開の「プリンセスと魔法のキス」では、自分のレストランを開きたいと願う主人公は資金が集められず壁にぶち当たります。この作品の「夢を叶えるには強く願うだけではなく、地に足のついた努力が必要(でも努力一辺倒でもだめ)」というメッセージは非常に大切なものですが、ディズニー作品のファンタジー性による高揚感を期待しているファンのニーズを的確に捉えているとは言えないかもしれません。その点を見ても、「アナ雪」は雪の魔法の華やかさを存分にアピールし、現実的な問題を暗喩しながらもディズニー作品としてのファンタジー性も大切にしていました。それも大ヒットの決め手の1つなのでしょう。
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・普遍性の高いテーマ設定
 日本では2010年公開の「塔の上のラプンツェル」は、現実的な問題をテーマのド真ん中に設定していました。それは「支配的な親からの自立」です。この作品の悪役ゴーテルは、自分の若さを保つために魔法の力を持つ王女を誘拐し、自分の娘として育てます。その支配的な親子関係の描写が何ともリアルで生々しく、映画の華やかな色彩とは裏腹に恐ろしさも感じさせる作品でした。エンターテインメント性も高く魅力的な作品でしたが、観る人が自分の問題として受け止め共感するにはテーマが具体的なものに絞られていました(親子関係で苦労した人には深く突き刺さる作品だったでしょう)。一方「アナ雪」は、主要な問題が魔法というファンタジー性のあるもので、「自分の意思では解消できない問題とどう向き合うか」という普遍性の高いものでした。それは「お金がない」「親とうまくいかない」といった問題も内包する、レイヤーの高い位置にある問題です。共感を誘うターゲットが広いということが必ずしも作品として優れているということを意味するわけではありませんが、「アナ雪」に多くの人が「自分のことかもしれない」と共感する要素があり、それが大ヒットを呼び込む要因だったことは間違いないでしょう。
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・登場人物が「感染」するストーリー展開
 本作は、エルサが城に連れ戻されてからの展開が急すぎて、アナが自分を犠牲にしてエルサを助ける行動をとった決め手がいまいちはっきりしないという印象もあります。「肉親だから」というのは理由としては単純すぎるかと思います。トロールの長老が「エルサが閉じこもったのは周りの人を魔法で危険な目に遭わせないようにするためで、君を拒絶していたわけではないんだよ」と教えてやってもよかったんじゃないかとも思いましたが、今ではそういった助けを借りずに自力で「気づき」を得たという流れでよかったと思っています。アナはハンス王子に裏切られ、自分の力ではどうすることもできない状況に陥ったことで、一段高いレイヤーで魔法の存在に苦しんできたエルサと同じ苦悩を味わいます。作中には具体的な描写はないのであくまで私の解釈ですが、アナがエルサの苦悩を体感的に理解した(感染した)ことがアナの自己犠牲の決め手になったと考えると非常にすっきりします。
 アナはエルサだけでなくハンス王子にも感染しました。会ったその日に結婚を決めてしまうのはさすがにとんでもないことですが、アナがハンス王子に強く惹かれたのは自然な流れであるように思います。それは2人に共通点があるからです。ハンス王子が見せた愛情は偽りのものでしたが、彼が13番目の子供だったことで家族のなかで軽んじられており、居場所を感じられずに生きてきたという彼の言葉は真実だったのでしょう。だからこそ、両親を亡くし姉とも分かり合えずに寂しく生きてきたアナは彼の言葉に感染し、惹かれていったのでしょう。そこにつけこむハンス王子の卑劣さが一層際立つのですが、彼の生い立ちを思うと同情の念も禁じ得ません。
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・時代設定
 「アナ雪」は王子も王女も登場する伝統的なプリンセス・ストーリーの設定を踏襲しています。そんな作品が、これだけ変化の急速な現代においても大ヒットを記録したのはどういう要因があるからなのでしょうか。私たちが生きている現代にはもう身分制度はありませんから、王族も平民もありません。どんな出自であってもそれによって将来が決定されることはない自由な社会ということになっていますが、実感としてはどうでしょうか。都市部と地方との格差や、家庭ごとの経済的な格差など、当人の努力ではどうにもできないけれど人生に大きく影響を与える要素は現代にも多く残っています。王様が政治的な実権を握る中世の社会を背景としながらも現代にも残る問題をリアルに描くことで、時代や社会制度という差異にとらわれず、自分の意志で変えられないものとどう向き合うかという普遍的な問題に焦点を当てる構造になっているのです。
 特異能力を持つ人の社会への適応という問題を扱った作品として「X-MEN」も有名です。こちらの作品の舞台は現代のアメリカです。この作品には特異能力を持つ子供たちが能力の正しい使い方を学ぶ「恵まれし子らの学園」という学校が登場します。「X-MEN」には目から破壊光線を出す能力や天候を操る能力など、様々な能力を持つ人物が登場するのですが、同じ能力を持つ人物が複数存在しないという点が特徴的です。個々の能力の特殊性は違っても、大多数の人と違うことで社会に適応できないのではないかという不安を抱えている点で、能力を持つ子供たちはつながっているのです。それはべてるの家のメンバー同士のつながりにも通じるものがあります。
 「アナ雪」はファンによって多くのパロディー動画が作られていますが、私はこれが大好きです。
How Frozen Should Have Ended - Reissued
“The answer is love!!”とオチを言ってしまうところなんか最高に面白いです。「アナ雪」のレビューの中にも「両親の育て方がまずかった。魔法を隠すのではなく正しい使い方を教えるべきだった」という意見は多く目にするのですが、様々なマイノリティーの存在が可視化されていない時代では、隠すという選択肢しか思いつかないのも無理はありません。抑えていたものを解放するカタルシスをストーリーに盛り込むために、プリンセス・ストーリーとして不自然ではない時代背景という制約条件を非常にうまく活用した作品だと言えるでしょう。
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・楽曲の素晴らしさ
 「アナ雪」の大ヒットを支える要素に楽曲の素晴らしさがあるのは言うまでもありません。中でも「Let It Go」は第86回アカデミー賞の歌曲賞を受賞しています。この楽曲の25ヵ国バージョンが動画サイトのディズニーの公式アカウントにより映画に先駆けて公開されており、映画の公開以前から話題を呼んでいました。今回は「Let It Go」の訳詞について考えてみたいと思います。ここで訳詞家の三浦真弓氏のツイートをいくつか引用したいと思います。

https://twitter.com/mayumiura/status/471145338368049152
それでは歌詞の "Let it go" は何て歌えばいいんですか、と代案をぜひお聞きしてみたいものです。 / “"Let it go"と「ありのまま」の違い(小野昌弘) - 個人 - Yahoo!ニュース” http://htn.to/7neyQuxp
https://twitter.com/mayumiura/status/471162624810299392
エンターテイメント翻訳は、情報文書の翻訳とは性質が違うんですよね。同じ意味の伝達、ではなく、同じ効果の喚起、を目指してるんです。RT @katsudobenshi: 様々な設定の変更を伴って『ドラえもん』がアメリカで放送されることに拒絶感を示す人が日本側に多いのも、
https://twitter.com/mayumiura/status/471165205037068288
こんなふうにも言えるかな。台本翻訳(対訳も字幕も)は「頭でわかる」ように訳すことが必要だけど、訳詞は「胸でわかる」ものでないとだめなんです、というか。
https://twitter.com/mayumiura/status/471165802628915200
だから、たとえば洋楽CDなど、歌詞対訳を読みながら、原語のままで歌を聴く、というのは、読んで「頭でわかった」内容を、聴きながら「胸でわかり直してる」という作業なんですね。すごく面倒な作業なんだけど、いい音楽には、そこまでの手間をかけさせるほどの魅力がある。

私も日本語の歌詞をじっくり読んだ時には、原語とのニュアンスの違いに目が向きました。具体的には、日本語の歌詞は英語に比べて「わかりやすく前向きなイメージだな」という印象を抱きました。しかし、上記のツイートの「同じ意味の伝達、ではなく、同じ効果の喚起、を目指してるんです。」という一節が考えをすっと整理してくれました。英語と日本語とでは同じ数の音節に込められる意味の量に大きな差がありますから、そもそも訳詞の場合逐語的な翻訳による正確な意味の伝達は不可能です。そんな制約条件がある中で、メッセージの大筋を変えず、原語の母音の響きを活かした日本語版の歌詞は、考えうる限り最良の訳詞と言えるのではないでしょうか。また、現代の日本人により受け入れられるようにとわかりやすく前向きなテイストを意識的に入れたのだとしたら、訳詞者の力量は相当なものでしょう。
 また、「胸でわかる」という感覚は、先の「感染」に通じるものがありそうです。歌詞に直接的に表される言葉の意味を超えた情感を伝えるという点に関して、歌というものの持つ可能性は大きなものがあるでしょう。その点では、情感の伝達に大きく貢献しているのは日本語版を歌う松たか子氏の表現力なのではないでしょうか。私の主観ではありますが、松たか子氏の歌う「Let It Go」は前向きさより悲愴さや切実さを感じさせる表現であるように感じます(特に「何も怖くない」というフレーズの歌詞の力強さと歌声のまるで泣きそうな切実感とのギャップは、エルサの葛藤を非常によく表現していると思います)。それは松たか子氏が歌詞の意味だけにとらわれず、この曲やストーリーに込められたメッセージ、演じるキャラクターの心情を「胸でわか」っていたからではないでしょうか。その証拠に、日本語の意味を十分には理解できない海外のファンの日本語版への評価も非常に高いのです(海外「日本語の響きって最高」 日本語版 『Let It Go』 の人気が止まらない)。何かを表現する際には、演じる人自身が作品に込められた真意を「胸でわかる」ための感受性の素となる知識や経験をいかに積んでいるかということが、演じる技法以前に大切なのではないでしょうか。
 アニメーション映画ならではの魅力は楽曲以外にもいろいろあります。CGアニメーションの精巧さはかなり高いクオリティーで、特にキャラクターの表情の豊かさは驚くべきものがあります。あれほどデフォルメされているデザインにも関わらず、観る者の感情を揺さぶる表現ができるのは本当に不思議です。中でも、戴冠式のパーティーでアナと口論になり、必死で怒りを抑えようとするエルサの表情は胸に迫るものがあります。歌や台詞での表現と同様に、映画の作成に関わるあらゆるスタッフがそれぞれのポジションの違いを超えて作品に込める真意を共有し、個々の要素が1つの映画に調和して結集することで、観る者の心を揺さぶる強い「感染力」を持つ映画として完成したのです。
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 今回の記事では「アナと雪の女王」という作品を通して「社会学的感染力」という表面的な差異による分断を解消する力の可能性について考えてみました。映画という題材に関しては、そういう影響力を持つ作品は他にもたくさんあるという意見もあるでしょう。確かに、現実の社会問題をよりストレートに扱った作品や、人の情感に訴え掛ける力を持つ作品は他にも多くあるでしょう。しかし、今回注目したいのは、ディズニーというメジャー路線、一般ウケの代名詞とも言える製作会社のエンターテインメント性の高い作品にそういった要素があり、その作品が世界的な大ヒットを記録したという点です。「個性」「自分らしさ」という言葉が一人歩きし、表面的なレイヤーで他者と違うことに価値を見出そうとしがちな現代において、それでも人と人が互いに分かり合い「同じでも違うでもなく」という適度な距離感でつながりを保つことの必要性を多くの人が感じているのかもしれません。それを実現するために「内側からわかる」「自分に引き寄せてわかる」「胸でわかる」といった感覚を大切にし、それらを呼び起こす「感染力」を持つ表現の価値を評価していくことが求められているのでしょう。

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