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2014年7月 6日 (日)

「アナと雪の女王」の大ヒットに見る社会学的感染力の可能性 1人の問題はみんなの問題

 ディズニーの長編作品の53作目にあたる「アナと雪の女王」が大ヒットを記録しています。興行収入は、6月23日の時点で日本国内で約237億6337万円と歴代3位、世界では歴代5位を記録しています。7月16日発売のブルーレイとDVDも、予約受付開始から10日で40万件の予約を記録し、これはディズニー・スタジオ史上最高の記録だそうです。今回の記事では、本作がなぜこれほどの人気作品となったのかじっくり考えてみたいと思います。これまでこのブログでは働くことの困難さという問題を軸に、表面的な差異によって人々が分断されてしまうこと個人が社会に適応していく際に生じる問題(障害やセクシャルマイノリティ等)、それらの問題を解消するヒントとしての当事者研究について考えを述べてきました。バラバラに考えてきたこれらの話題が、「アナと雪の女王」の映画を見たことによって1つにまとまっていくような感覚を得ました。それは「アナ雪」のストーリー構成に、本当は同じような困難を抱えているのに表面的な差異によって分かり合えない問題を解消するヒントがあるように感じたからです。 

そのことに学問的な裏付けを付与してくれるかもしれない資料を入手しました。
『三田社会学』第19号 「当事者研究と社会学的感染力 ―当時者研究と社会学の出会いのさきに―」
この論文は同性愛者であり社会学者の小倉康嗣氏が、アスペルガー症候群当事者であり当事者研究会の実践者である綾屋紗月氏と、脳性まひの当事者であり当事者研究の研究を行ってきた熊谷晋一郎氏と出会い、当事者研究の存在を知り、その可能性について論じたものです。まず「当事者研究」とはなんなのでしょうか。こちらのページ(当事者研究とは-当事者研究の理念と構成-)に詳しい解説が載っていますので、よかったら参照してください。綾屋氏と熊谷氏は『つながりの作法 同じでも違うでもなく』の中で当事者研究について「専門家の描写や言説をいったん脇に置き、他者にわかるように自分の体験を内側から語る作業」と説明しています。小倉氏は「自分がいま苦労していることやそれに対する身の処し方を、専門家や既存の知に預けるのではなく、自らの研究テーマとして出して、仲間の力を借りながら、その苦労をいろんな方向から眺めて、自分を助ける知としていく。生きづらさや苦労の機制を知ることで、それをよりよい生の契機としていく」活動と定義しています。こういった活動が必要とされる背景として、病気や障害について専門家が外部から行う説明と当事者の実感にギャップが存在するという状況があります。具体的な例を『つながりの作法 同じでも違うでもなく』から綾屋氏の経験を引用します。

 私は「アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)」という診断名を得ている。その定義は自閉症の「①相互的社会関係能力の限界 ②コミュニケーション能力の限界 ③想像力の限界」という三つ組の特徴が見られることとされている。しかしこれはのちにも述べるが、あくまでも外側からの見立てに過ぎない。特徴とされるそれらの現象がなぜ生じるのかを、私の内側からの感覚で言えば、「どうも世界にあふれるたくさんの刺激や情報を潜在化させられず、細かく、大量に、等しく拾ってしまう傾向が根本にあるようだ」という表現になる。

確かに、医学的な定義と当事者の実感に基づく説明とでは、受ける印象に大きな違いがありますね(参照:「障害名ファースト」で語ることについて)。綾屋氏自身も他の精神疾患について、当事者の生の言葉に触れることで理解が深まった経験があるようです。

 かつて「自分のおかしさの原因探し」をしていた時に、綾屋は精神医学や心理学で語られる症状は一通り読んだ。経験している症状も多く、どれもだいたい実感としてわかると思ったが、唯一、そのなかで統合失調症だけがわからなかった。まるで手のつけようのない、怖くて破滅的な病気であるように描かれているばかりで、実感として伝わってこなかったのである。それが『べてるの家の「当事者研究」』を読んで初めて「あ、これなら内側からわかる気がする」と思えた。それは「自分のなかに生じるあの感覚の延長線上にあるのではないか」と自分に引き寄せてわかる感覚だった。

当事者研究のメリットとしては、
・当事者が自分の言葉で生きづらさを語ることで、周囲の人が先入観に惑わされずに当事者の生きづらさを理解し、必要な支援をしやすくなる
・当事者が自分自身と障害や病気とを切り離して考えられるようになり、ことさらに自分を責めることがなくなる
・苦労のパターンや構造が当時者自身にも明確になり、具体的な対応策を考えるヒントになる
ということが挙げられるようです。また、当時者研究には当時者同士の相互理解を深める効果もあるようです。例えば、自助支援グループなどでは、当事者が自身の苦労と他の当事者の苦労を比較して深刻さを競ってしまったり、収入や社会的ステータス、学歴、人間関係などの差異を強調して分断が生じてしまうこともあるそうです。同じ病気や障害を抱えていても、全く同じ苦労や背景を有しているわけではありません。そこで重要になるのが著書のタイトルにもなっている「同じでもなく違うでもなく」という感覚です。著書の中ではそれを「自分のなかにある信念を一段高いところから客観視することで、他者との「対立していない共有する部分」を見つけるという方法」と説明しています。具体例をべてるの家の実践から引用します。

べてるの家では、個人個人が体験している「主観的な事実」としての幻覚妄想を、「お客さん」「幻聴さん」「幻覚妄想状態」と呼び、明確にラベリングしている。これは「べてるの家全体にとっての現実」と、個人個人の「主観的な事実」との間に、ある程度の区別を置こうという振る舞いだと言えるだろう。
しかし特筆すべきは、メンバーのほとんどが、同じような幻覚妄想状態を体験したことがあり、その苦悩を熟知しているということだ。したがって、他者の幻覚妄想に対して、その内容を真に受けることはないものの、それに伴う感情の機微には深く共感するというスタンスがとられる。
これはちょうど、誰かが片思いで苦しんでいる時に、同じような片思いのつらさを過去に経験したことのある仲間たちが、相談に乗るときのポジションに似ている。妄想的苦悩の内容からは客観的に距離を置きながらも、苦悩そのものには深く共感してくれるのが、べてる流の包み込み方と言える。

一人一人が抱える幻聴、幻覚の具体的な内容は違いますが、「幻聴、幻覚にとらわれてしまう苦悩」という一段高いレイヤーに存在する視点から見た問題としては、みんな共通しているのです。片思いの例もありましたが、それは病気や障害に限らずあらゆるものに当てはまるでしょう。個々の会社の実情は違っても働くことの辛さは多くの労働者で共有できるでしょうし、何かしら思い通りにならないものを抱えながら生きているという点でもみんな共通しているのです。視点を一段高いレイヤーに持っていくことで共通点を見出す例として、こんな笑い話があります。

「うちの旦那と息子ったら食事の時間にも政治の議論ばっかりやってて、うるさくてしかたないの」
「似たもの同士の親子ね」
「全然違うわ。旦那は共和党、息子は民主党を支持していて、正反対よ」
「そうじゃなくて、団欒の時間にも熱くなっちゃうほど政治の議論が大好きってところは同じでしょ?」

小倉氏、綾屋氏、熊谷氏の三者も、同性愛、アスペルガー症候群、脳性まひと、抱えている生きづらさの種類は違いますが、自分の生まれ持った性質がありのまま社会に受け入れられず、その苦悩を「ないもの」としたり改善のための努力を強いられることの辛さを経験しているという点では同じなのです。「当事者研究と社会学的感染力」では、他者の「生の声」「生きた言葉」「生きられた経験」に触れることで得られる、表面的な差異を超えた共通の体験や感覚への気づきを「感染」と表現しています。「感染」という表現には、「対立していない共有する部分」の存在を言葉で理解するだけでなく、「自分だけではなかった!」という喜びやワクワク感、切実感が込められているのです。それは言葉の上での「理解」というより、「体感」に近いものなのでしょう。
 前置きがとても長くなりましたが、本当は同じような困難を抱えているのに表面的な差異によって分かり合えない問題を解消するヒントが少しずつ見えてきました。C・W・ミルズという社会学者は、個人とマクロな社会構造とのつながりを洞察する想像力を「社会学的想像力」と呼んで、その重要性を主張しました。つまりは、自分が抱えている問題は自分だけの個人的な問題ではなく、社会的な背景からの影響の存在に気づく力です。小倉氏は、そこから一歩踏み込んで、ワクワク感や切実感を伴って表面的な差異を超えた共通の体験や感覚への気づきを与える力を「社会学的感染力」として提唱しています。もう少し砕けた言葉で、ある社会問題に対して「これは自分の問題でもある」という気づきを「理解」を超えたインパクトを伴って与える力と言うこともできるでしょう。小倉氏は、「社会学的感染力」によって相互理解を深めるメッセージを発するためのアイディアをいくつか提案していますが、その中でも「文字による表現だけでは収まりきらない問題になってくるのかもしれない」という可能性を指摘しています。メッセージを発する媒体は学術的な調査や論文にとどまらず、芸術や芸能といった様々な形を取り得るでしょう。もちろんその中には、映画も含まれるはずです。

※【ネタバレ注意】この先、「アナと雪の女王」だけでなく「プリンセスと魔法のキス」「塔の上のラプンツェル」の内容にも少し触れます。内容を知りたくない方はご注意を。
 そういった観点からすると、「アナと雪の女王」は強い「社会学的感染力」を持つ作品であり、多くの人がこの作品の発するメッセージに感染したことが大ヒットという形に表れていると読み取ることができます。それでは、「アナと雪の女王」が持つ「社会学的感染力」の源泉をいくつか挙げてみましょう。

・「魔法」というデフォルメ、モデル化された問題と現実的な問題の絶妙なバランス
 ディズニー映画の魅力と言えば、何と言ってもそのファンタジー性でしょう。シンデレラを美しいプリンセスに変身させる魔法や、人間の王子に恋をする人魚。モンスターの世界があって人間と同じように働いていたら、オモチャが生きていて人間の見ていないところで冒険を繰り広げていたら、なんて考えたらワクワクが止まりません。しかし、「アナ雪」での魔法は、ネガティブな意味を持つものでした。「美女と野獣」の野獣にかけられた呪いのような位置づけになるでしょうか。このようなネガティブなファンタジー性は、わかりやすくデフォルメ、モデル化された問題として観る者に伝わります。誰しも「生まれつきあんな能力を自分の意志と関係なく持っていたら、そりゃあ生きづらいだろうな」と感じます。そして「アナ雪」の特徴は、モデル化された問題の他に極めて現実的な問題も描いていることです。具体的には、以前に書いたレビューでも述べたように、王位継承に関わることや、生まれてくる順番など、現実に存在する当人の意志ではどうにもできない問題のことです。それらの問題を1つの作品に同居させることで、現実的な問題も「魔法」と同等に生きづらさの要素となる深刻なものであるというメッセージが伝わるのです。公開以来、インターネット上の様々な媒体で多様な視点でのレビューが発信されていますが、「アナ雪」で描かれている「現実的な問題」の方に注目する人が多いのも興味深いところです。「これは自分のことかもしれない!」と感染した人が多く存在することの証でしょう。例を挙げてみましょう。

【ネタバレ注意】「アナと雪の女王」を見た長女が感じた長子の悲哀
「アナ雪に共感する長子たち」の嘆きになんかモヤモヤする次女のつぶやき

「長子は大人の期待に応えようと自分を抑えて「良い子」になろうとしまうんだよね」「道化を演じて明るく振舞うのも自分を抑えてるのと同じなんだよ。それを能天気だと思われてしまうのが末っ子の悲しいところ」といったところでしょうか。こういった反応があるのは、「アナ雪」が現実に存在する兄弟姉妹の抱く不満をリアルに描いていたからなのでしょう。そして、こちらのハンス王子に関するまとめも素晴らしい視点で書かれています。

アナライジングアナ雪

作中で、生まれた順番による最も大きな理不尽を被っているのがハンス王子です。彼は13番目に生まれたというだけで、統治者としての優れた才覚を発揮する機会を得られないのですから。自分の努力では変えられない生まれ持った要素によって苦しんでいるという点では、まさにエルサと同じなのです。国に連れ戻されたハンス王子はアレンデール王国での出来事を振り返り、エルサのことを思い出し「僕と同じじゃないか!」と再び口にしたに違いありません。
 クリストフに関しては、親の姿が見えないことやトナカイにしか心を開いていないことなど、彼も色々持っているのですが、当人がそれを気にしているようには描かれていません。「自分の力で解決できない問題があっても大丈夫」というメッセージを初めから体現しているキャラクターという位置づけなのでしょうか。
 本作のファンタジー性である魔法の扱いについても、大きな特徴があります。それは、愛の力によって魔法を制御できるようになったとしても魔法そのものはなくならないという結末であり、「美女と野獣」とは大きく異なるところです。問題を解消するのではなく、問題とうまく付き合いながら生きていくのです。これは「勝手に治すな自分の病気」という理念のもと、医療的に病気を治すことよりも病気を抱えながらも楽しく幸せに生きていく方法を探ろうというべてるの家の姿勢にも通じるものがあります。やっと世界がべてるに追いついてきたというところでしょうか
 ディズニーがファンタジー性のある作品の中に現実的な問題の要素を取り入れる傾向は、ピクサーとの提携以降に始まり、近年のプリンセス・ストーリーではその傾向がさらに強まっているように感じます。例えば、日本では2009年公開の「プリンセスと魔法のキス」では、自分のレストランを開きたいと願う主人公は資金が集められず壁にぶち当たります。この作品の「夢を叶えるには強く願うだけではなく、地に足のついた努力が必要(でも努力一辺倒でもだめ)」というメッセージは非常に大切なものですが、ディズニー作品のファンタジー性による高揚感を期待しているファンのニーズを的確に捉えているとは言えないかもしれません。その点を見ても、「アナ雪」は雪の魔法の華やかさを存分にアピールし、現実的な問題を暗喩しながらもディズニー作品としてのファンタジー性も大切にしていました。それも大ヒットの決め手の1つなのでしょう。
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・普遍性の高いテーマ設定
 日本では2010年公開の「塔の上のラプンツェル」は、現実的な問題をテーマのド真ん中に設定していました。それは「支配的な親からの自立」です。この作品の悪役ゴーテルは、自分の若さを保つために魔法の力を持つ王女を誘拐し、自分の娘として育てます。その支配的な親子関係の描写が何ともリアルで生々しく、映画の華やかな色彩とは裏腹に恐ろしさも感じさせる作品でした。エンターテインメント性も高く魅力的な作品でしたが、観る人が自分の問題として受け止め共感するにはテーマが具体的なものに絞られていました(親子関係で苦労した人には深く突き刺さる作品だったでしょう)。一方「アナ雪」は、主要な問題が魔法というファンタジー性のあるもので、「自分の意思では解消できない問題とどう向き合うか」という普遍性の高いものでした。それは「お金がない」「親とうまくいかない」といった問題も内包する、レイヤーの高い位置にある問題です。共感を誘うターゲットが広いということが必ずしも作品として優れているということを意味するわけではありませんが、「アナ雪」に多くの人が「自分のことかもしれない」と共感する要素があり、それが大ヒットを呼び込む要因だったことは間違いないでしょう。
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・登場人物が「感染」するストーリー展開
 本作は、エルサが城に連れ戻されてからの展開が急すぎて、アナが自分を犠牲にしてエルサを助ける行動をとった決め手がいまいちはっきりしないという印象もあります。「肉親だから」というのは理由としては単純すぎるかと思います。トロールの長老が「エルサが閉じこもったのは周りの人を魔法で危険な目に遭わせないようにするためで、君を拒絶していたわけではないんだよ」と教えてやってもよかったんじゃないかとも思いましたが、今ではそういった助けを借りずに自力で「気づき」を得たという流れでよかったと思っています。アナはハンス王子に裏切られ、自分の力ではどうすることもできない状況に陥ったことで、一段高いレイヤーで魔法の存在に苦しんできたエルサと同じ苦悩を味わいます。作中には具体的な描写はないのであくまで私の解釈ですが、アナがエルサの苦悩を体感的に理解した(感染した)ことがアナの自己犠牲の決め手になったと考えると非常にすっきりします。
 アナはエルサだけでなくハンス王子にも感染しました。会ったその日に結婚を決めてしまうのはさすがにとんでもないことですが、アナがハンス王子に強く惹かれたのは自然な流れであるように思います。それは2人に共通点があるからです。ハンス王子が見せた愛情は偽りのものでしたが、彼が13番目の子供だったことで家族のなかで軽んじられており、居場所を感じられずに生きてきたという彼の言葉は真実だったのでしょう。だからこそ、両親を亡くし姉とも分かり合えずに寂しく生きてきたアナは彼の言葉に感染し、惹かれていったのでしょう。そこにつけこむハンス王子の卑劣さが一層際立つのですが、彼の生い立ちを思うと同情の念も禁じ得ません。
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・時代設定
 「アナ雪」は王子も王女も登場する伝統的なプリンセス・ストーリーの設定を踏襲しています。そんな作品が、これだけ変化の急速な現代においても大ヒットを記録したのはどういう要因があるからなのでしょうか。私たちが生きている現代にはもう身分制度はありませんから、王族も平民もありません。どんな出自であってもそれによって将来が決定されることはない自由な社会ということになっていますが、実感としてはどうでしょうか。都市部と地方との格差や、家庭ごとの経済的な格差など、当人の努力ではどうにもできないけれど人生に大きく影響を与える要素は現代にも多く残っています。王様が政治的な実権を握る中世の社会を背景としながらも現代にも残る問題をリアルに描くことで、時代や社会制度という差異にとらわれず、自分の意志で変えられないものとどう向き合うかという普遍的な問題に焦点を当てる構造になっているのです。
 特異能力を持つ人の社会への適応という問題を扱った作品として「X-MEN」も有名です。こちらの作品の舞台は現代のアメリカです。この作品には特異能力を持つ子供たちが能力の正しい使い方を学ぶ「恵まれし子らの学園」という学校が登場します。「X-MEN」には目から破壊光線を出す能力や天候を操る能力など、様々な能力を持つ人物が登場するのですが、同じ能力を持つ人物が複数存在しないという点が特徴的です。個々の能力の特殊性は違っても、大多数の人と違うことで社会に適応できないのではないかという不安を抱えている点で、能力を持つ子供たちはつながっているのです。それはべてるの家のメンバー同士のつながりにも通じるものがあります。
 「アナ雪」はファンによって多くのパロディー動画が作られていますが、私はこれが大好きです。
How Frozen Should Have Ended - Reissued
“The answer is love!!”とオチを言ってしまうところなんか最高に面白いです。「アナ雪」のレビューの中にも「両親の育て方がまずかった。魔法を隠すのではなく正しい使い方を教えるべきだった」という意見は多く目にするのですが、様々なマイノリティーの存在が可視化されていない時代では、隠すという選択肢しか思いつかないのも無理はありません。抑えていたものを解放するカタルシスをストーリーに盛り込むために、プリンセス・ストーリーとして不自然ではない時代背景という制約条件を非常にうまく活用した作品だと言えるでしょう。
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・楽曲の素晴らしさ
 「アナ雪」の大ヒットを支える要素に楽曲の素晴らしさがあるのは言うまでもありません。中でも「Let It Go」は第86回アカデミー賞の歌曲賞を受賞しています。この楽曲の25ヵ国バージョンが動画サイトのディズニーの公式アカウントにより映画に先駆けて公開されており、映画の公開以前から話題を呼んでいました。今回は「Let It Go」の訳詞について考えてみたいと思います。ここで訳詞家の三浦真弓氏のツイートをいくつか引用したいと思います。

https://twitter.com/mayumiura/status/471145338368049152
それでは歌詞の "Let it go" は何て歌えばいいんですか、と代案をぜひお聞きしてみたいものです。 / “"Let it go"と「ありのまま」の違い(小野昌弘) - 個人 - Yahoo!ニュース” http://htn.to/7neyQuxp
https://twitter.com/mayumiura/status/471162624810299392
エンターテイメント翻訳は、情報文書の翻訳とは性質が違うんですよね。同じ意味の伝達、ではなく、同じ効果の喚起、を目指してるんです。RT @katsudobenshi: 様々な設定の変更を伴って『ドラえもん』がアメリカで放送されることに拒絶感を示す人が日本側に多いのも、
https://twitter.com/mayumiura/status/471165205037068288
こんなふうにも言えるかな。台本翻訳(対訳も字幕も)は「頭でわかる」ように訳すことが必要だけど、訳詞は「胸でわかる」ものでないとだめなんです、というか。
https://twitter.com/mayumiura/status/471165802628915200
だから、たとえば洋楽CDなど、歌詞対訳を読みながら、原語のままで歌を聴く、というのは、読んで「頭でわかった」内容を、聴きながら「胸でわかり直してる」という作業なんですね。すごく面倒な作業なんだけど、いい音楽には、そこまでの手間をかけさせるほどの魅力がある。

私も日本語の歌詞をじっくり読んだ時には、原語とのニュアンスの違いに目が向きました。具体的には、日本語の歌詞は英語に比べて「わかりやすく前向きなイメージだな」という印象を抱きました。しかし、上記のツイートの「同じ意味の伝達、ではなく、同じ効果の喚起、を目指してるんです。」という一節が考えをすっと整理してくれました。英語と日本語とでは同じ数の音節に込められる意味の量に大きな差がありますから、そもそも訳詞の場合逐語的な翻訳による正確な意味の伝達は不可能です。そんな制約条件がある中で、メッセージの大筋を変えず、原語の母音の響きを活かした日本語版の歌詞は、考えうる限り最良の訳詞と言えるのではないでしょうか。また、現代の日本人により受け入れられるようにとわかりやすく前向きなテイストを意識的に入れたのだとしたら、訳詞者の力量は相当なものでしょう。
 また、「胸でわかる」という感覚は、先の「感染」に通じるものがありそうです。歌詞に直接的に表される言葉の意味を超えた情感を伝えるという点に関して、歌というものの持つ可能性は大きなものがあるでしょう。その点では、情感の伝達に大きく貢献しているのは日本語版を歌う松たか子氏の表現力なのではないでしょうか。私の主観ではありますが、松たか子氏の歌う「Let It Go」は前向きさより悲愴さや切実さを感じさせる表現であるように感じます(特に「何も怖くない」というフレーズの歌詞の力強さと歌声のまるで泣きそうな切実感とのギャップは、エルサの葛藤を非常によく表現していると思います)。それは松たか子氏が歌詞の意味だけにとらわれず、この曲やストーリーに込められたメッセージ、演じるキャラクターの心情を「胸でわか」っていたからではないでしょうか。その証拠に、日本語の意味を十分には理解できない海外のファンの日本語版への評価も非常に高いのです(海外「日本語の響きって最高」 日本語版 『Let It Go』 の人気が止まらない)。何かを表現する際には、演じる人自身が作品に込められた真意を「胸でわかる」ための感受性の素となる知識や経験をいかに積んでいるかということが、演じる技法以前に大切なのではないでしょうか。
 アニメーション映画ならではの魅力は楽曲以外にもいろいろあります。CGアニメーションの精巧さはかなり高いクオリティーで、特にキャラクターの表情の豊かさは驚くべきものがあります。あれほどデフォルメされているデザインにも関わらず、観る者の感情を揺さぶる表現ができるのは本当に不思議です。中でも、戴冠式のパーティーでアナと口論になり、必死で怒りを抑えようとするエルサの表情は胸に迫るものがあります。歌や台詞での表現と同様に、映画の作成に関わるあらゆるスタッフがそれぞれのポジションの違いを超えて作品に込める真意を共有し、個々の要素が1つの映画に調和して結集することで、観る者の心を揺さぶる強い「感染力」を持つ映画として完成したのです。
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 今回の記事では「アナと雪の女王」という作品を通して「社会学的感染力」という表面的な差異による分断を解消する力の可能性について考えてみました。映画という題材に関しては、そういう影響力を持つ作品は他にもたくさんあるという意見もあるでしょう。確かに、現実の社会問題をよりストレートに扱った作品や、人の情感に訴え掛ける力を持つ作品は他にも多くあるでしょう。しかし、今回注目したいのは、ディズニーというメジャー路線、一般ウケの代名詞とも言える製作会社のエンターテインメント性の高い作品にそういった要素があり、その作品が世界的な大ヒットを記録したという点です。「個性」「自分らしさ」という言葉が一人歩きし、表面的なレイヤーで他者と違うことに価値を見出そうとしがちな現代において、それでも人と人が互いに分かり合い「同じでも違うでもなく」という適度な距離感でつながりを保つことの必要性を多くの人が感じているのかもしれません。それを実現するために「内側からわかる」「自分に引き寄せてわかる」「胸でわかる」といった感覚を大切にし、それらを呼び起こす「感染力」を持つ表現の価値を評価していくことが求められているのでしょう。

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