フォト

twitter

ほしい物リスト

無料ブログはココログ

2014年7月13日 (日)

映画評「プリンセスと魔法のキス」 ディズニーが描く「夢」の変遷

 多くのファン同様「アナと雪の女王」に強烈に感染した私は、最近のプリンセス・ストーリーも観てみることにしました。今回の記事では2009年公開の「プリンセスと魔法のキス」を中心に、最近のプリンセス・ストーリーがディズニー作品のメインテーマでもある「夢」をどのように描いてきたのかを考えていきたいと思います。
 作品を観ての率直な感想としては、メッセージ性がとても深く、考えさせられる作品だといったところです。そのメッセージは本当に素晴らしく、私の目には非常に魅力的な作品として映ったのですが、これは本当に子供向けのエンタメ作品か!?本当にディズニー映画か!?とも正直思いました。監督に「リトル・マーメイド」「アラジン」でも監督を務めたジョン・マスカーとロン・クレメンツを起用していることでも話題になりましたが、本作はそれらの作品とはテイストが大きく異なります。それは時代ごとにどのようなストーリーが広く受け入れられるのかということを熟考しているディズニーならではの変化なのだと思います。では、どのように異なるのかをじっくり考えてみましょう。あらすじの部分に色をつけました。長くなってしまったので、本作を見たことのある人や、解説の部分だけを読みたい人は、色つきの部分は読み飛ばしてください。

※【ネタバレ注意】この先、「プリンセスと魔法のキス」だけでなく「アナと雪の女王」「塔の上のラプンツェル」の内容にも少し触れます。内容を知りたくない方はご注意を。
願うだけでは夢は叶わない

 作品の舞台は1900年代初頭のニューオーリンズで、主人公のティアナはアフリカ系アメリカ人の女の子です。ディズニー作品のプリンセスには、王様の娘であるパターンと王子様と結婚してプリンセスになるパターンがありますが、本作の主人公は後者です。レストランを開く夢を持つ父親に育てられ、美味しい料理を分かち合う喜びを幼い頃から知っていたティアナは、父親とともにレストランを開く夢を持ちます。父親は戦争にとられ、夢を叶えることなく亡くなってしまいますが、ティアナは幼い頃の夢を持ち続け、開店資金を貯めるためにウェイトレスの仕事を掛け持ちしています。ティアナが仕事に出かけるところでタイトルが表示され、本編が始まります。
 印象的だったのはプロローグでのティアナが幼かった頃の父親とのやり取りです。レストランを開く夢を持つティアナは、夜空の星に願いをかければ夢が叶うという童話を思い出し、両親の前で願い事をします。それを見た父親はティアナに「願い事は夢を叶える手伝いはするけれど、自分で一生懸命努力しなければ夢は叶わない。一番大切なことが何かってことを忘れてはいけないよ」と語りかけます。成長したティアナはこの言葉を胸に、一生懸命に働くのですが、この作品は序盤から泣かせにきますね。父親が登場する時間は短いのですが、そのなかで家族への愛に溢れた人物であることを明確に表現できるのは驚きです。かつて「ピノキオ」の挿入歌「星に願いを」が「映画史における偉大な歌100選」の第7位に入るといった功績を残すディズニーが、このようなメッセージを発することもまたすごい。そもそも、木の人形が人間になることを夢見たり、人魚姫が人間の王子との結婚を夢見たりすることに比べ、本作の「レストランを開く」という夢のなんと現実的なことでしょう。これは本当にディズニー映画か!?かつてのディズニー作品では夢や主人公そのものがファンタジックであり、ファンタジー性がストーリーのど真ん中に位置していましたが、最近の作品では主人公の成長などの人間ドラマに味付けを加える程度の役割になっているようです(本作ではヒロインと王子様がヴードゥーの呪いでカエルの姿に変えられ、動物たちと言葉を交わせるようになります)。そのあたりからも、多くの人に受け入れられるストーリーの質の変化がうかがえますね。
夢まであとすこし (プリンセスと魔法のキス) (YouTube 日本語版)
[MOV] Princess and the Frog - "Almost There" - Full Video (YouTube 英語版)
Almost There Lyrics — Anika Noni Rose (as Tiana) (英語版 歌詞)
14_632146872937586


努力だけでもダメ?
 本作の王子様ナヴィーンは、マルドニアという架空の国からやってきます。表向きは立派な王子なので、ニューオーリンズの人たちにも歓迎されるのですが、実態は金遣いが荒くだらしない女ったらしで、親からは勘当されています。金持ちの家の娘との結婚を目論んでいますが、結婚すれば遊び歩く自由がなくなるという葛藤を抱えているかなりしょーもない男です。自由に生きるために必要な金が欲しいという欲につけこまれ、ヴードゥーの術師(ドクター・ファシリエ)に呪いをかけられ、カエルにされてしまします。そして、仮装パーティーの会場で出会ったティアナをプリンセスと勘違いし、呪いを解くためにキスをするように頼みます。ためらうティアナに、自分は王家の裕福な人間で、キスをしてくれたらレストランの開業資金を援助すると言って取引を持ちかけます。ティアナは夢のために仕方なくキスをします。これは本当にディズニー映画か!?実際にはプリンセスではないティアナがキスをしても呪いは解けず、それどころかティアナまでカエルの姿に変わってしまいます。沼地に迷い込んだ2人はワニに食べられそうになるのですが、いち早く切り株の穴に逃げ込んだティアナはレストランを開くための資金を援助することを約束させ、ナヴィーンを助けます。ナヴィーンはシャーロット(ティアナの親友の大富豪の娘。王子様と結婚しプリンセスになることを夢見ている)と結婚し、開店資金を出させると約束します。その後2人は呪いを解くために、道中出会ったワニのルイスとホタルのレイとともに、沼地の奥に住むヴードゥーの術師ママ・オーディを訪ねます。ママ・オーディは人間に戻りたいという2人の願いを見抜き、「望むものはわかったが、本当に必要なものはなにか」と問いかけます。ナヴィーンは「望むものも必要なものも同じじゃないか」と訝しりますが、ママ・オーディははっきり違うと言います。ここでそのシーンで流れる挿入歌「もう一度考えて(原題:Dig a Little Deeper)」を聴いてみてください。
もう一度考えて (プリンセスと魔法のキス)
Dig a Little Deeper - Princess and the Frog
Dig A Little Deeper Jenifer Lewis (Mama Odie) Lyrics
「望むもの(what you want)」と「必要なもの(what you need)」とどう違うのか、様々な解釈が可能でしょう。ここでは、「自分の実現したいこととして意識的に理解しているもの」と「無意識のレベルにあり言語化できないもの」といったところでしょうか。もしくは「表面的な欲望」と「幸せに生きるために本質的に必要なもの」かもしれません。ナヴィーンの場合は非常にわかりやすいものです。「お金では幸せは買えない」というメッセージはいたるところで耳にしたことがあるでしょう。ティアナの夢についてはどうでしょうか。ママ・オーディも「あんたの方がやっかいだね」と言っていますが、確かに「表面的な欲望」と呼ぶには彼女の夢は立派すぎるように思います。ママ・オーディの歌を聴いたティアナは「必要なものがわかりました。夢を実現するためにもっと努力します」と言いますが、それを聞いたママ・オーディは肩を落とします。ティアナに必要なものは「努力」ではないようです。ディズニー映画で「努力をしなければ夢は叶わない」というメッセージを発しただけでも驚くべきことなのに、さらに一歩進んで「努力一辺倒の人生もダメ」とまで言ってしまうのですから、時代の変化を感じずにはいられません。
4492

あんたが誰だって関係ないんだよ
 ママ・オーディは、人間に戻るためにはナヴィーン王子がプリンセスとキスしなければならないと言います。そしてそのプリンセスとは、ティアナの幼い頃からの親友のシャーロットでした。シャーロットは王家の生まれではないのですが、街一番の大富豪の父親がマルディグラ(ニューオーリンズで行われる世界的に有名なカーニバル)のキングに選ばれたため、カーニバルの期間中は娘のシャーロットはプリンセスということのようです。方法がわかった一行はニューオーリンズを目指します。ティアナに惹かれていることに気づいたナヴィーンは、シャーロットと結婚するのをやめ、自分で働いてティアナの夢を叶えようと決意しますが、その気持ちを伝えることができませんでした。ニューオーリンズでは、ナヴィーンに化けさせた召使いとシャーロットを結婚させて大富豪の家に取り入り、シャーロットの父親を呪い殺し街を支配しようとするファシリエの計画も進行していました。ナヴィーンも捉えられてしまいます。このままでは2人が人間に戻れなくなってしまうため、ホタルのレイはナヴィーンを助け出し、呪術の道具を奪って逃げるのですが、ファシリエに捕まり踏み潰されてしまいます。レイから呪術の道具を受け取ったティアナも、ファシリエの呪術によってレストランを開く夢が叶った幻影を見せられます。道具と引き換えに夢を叶えてやると取引を持ちかけたのです。ファシリエは「今までの苦労を思い出せ。お前の夢を笑ったやつを見返してやれ」とティアナを誘惑します。そして「かわいそうな父親を思い出せ。お前が彼の夢を叶えてやれるんだ」と父親の幻影をティアナに見せます。そこでティアナは気づくのでした。「父さんの夢は叶わなかったけれど、父さんには愛があった。父さんは大切なものがわかっていた」。ティアナはファシリエの誘惑を振り切り、呪術の道具を叩きつけて壊します。ファシリエは呪術に飲み込まれ消えてしまいました。
 助け出されたナヴィーンはことの顛末をシャーロットに話しました。ナヴィーンは人間に戻ったらシャーロットと結婚することを約束し、ティアナに開業資金を出してあげるように頼みました。それを見たティアナは自分のために望まない結婚をしてほしくないと、ナヴィーンを止めます。2人の間に本当の愛があることに気づき、心を打たれたシャーロットはキスで呪いを解いてもナヴィーンとは結婚しないと言います。しかし、日付が変わりカーニバルが終わってしまったため、いくらキスをしても2人は人間に戻りませんでした。そして、2人はカエルの姿のまま一緒に生きていくことを決意します。
 瀕死の怪我を負ったレイは、そんな2人の姿を見届けて息を引き取ります。沼地でレイの葬儀を行う彼らは、夜空に輝く大きな星の隣に、新たな星が輝いていることに気がつきます。その星は、レイが世界で一番美しいホタルだと勘違いし、エヴァンジェリーンと呼び恋焦がれていた星でした。レイはついに最愛の相手と一緒になったのです。

 終盤でも泣かせに来るのですが、みなさんはこの展開をどう思いますか?ティアナとナヴィーンはカエルの姿で生きることを決意し、レイは星になって願いを叶えました。ここでママ・オーディの歌を思い出してみましょう。

見かけなんかは気にしちゃいけない 指輪いくつしてようと、どうでもいいさ!!
(Don't matter what you look like Don't matter what you wear
How many rings you got on your finger We don't care)

ここまではよくわかります。表面的なことにとらわれてはいけないというメッセージはよく耳にするものです。問題はこの次です。

あんたが誰だって関係ないんだよ
(Don't matter where you come from Don't even matter what you are)

これには驚きです。外見などの表面的な要素と対比され、これこそが大事だとされてきた”what you are”(あなた自身、ありのままのあなた)でさえ問題ではないと言うのです。これまで個性だとか、自分らしさだとか、アイデンティティだとか、自分が自分として生きることが大切だとされてきた時代に、このメッセージは驚きです
 では、大事なものとはいったいなんなのでしょう。それは、ママ・オーディの言う「必要なもの」、つまり「自分をよく見つめなければ見えてこない本質的な幸せ」ということでしょう。レイにとっては、エヴァンジェリーンと一緒になれたことが重要なのであって、彼らがホタルだとか星だとかは些細な問題なのです!ティアナの父親は働き詰めで、夢も叶えられませんでしたが、彼には愛する家族がいました。彼にとってはそれが幸せでした。ナヴィーンとカエルとして生きていくことを決意したティアナは、事実上人間としてレストランを開く夢を諦めました。ティアナはそれが自分にとって必要な選択だと気づき、自分の進む道を決めました。
 これまで私たちは、理性や意志によって困難を克服し、自分の望む生き方を実現することをよしとし、そういった自律的な生き方に価値をおいてきました。しかし、そのように意識的に自分の生き方をコントロールすることが、必ずしも幸福を約束しないという事実にも目を向けるようになってきたのでしょう。その背景には、リーマン・ショックなどの経済的な混乱や、安定的な経済成長が永続的なものではないという認識の広がりなどがあるのかもしれません。そういった困難を経験し、人が生きていくことの機微や複雑さに腰を据えて向き合おうという姿勢の必要性を、多くの人が徐々に感じるようになってきたのでしょう。そして、その傾向は”Let it go”(ほうっておこう)という精神を象徴する「アナと雪の女王」の大ヒットという形でも顕在化したのです。
Cb7eecf5s

 
 その後、ティアナとナヴィーンはママ・オーディのもとで結婚式を挙げます。2人がキスをすると呪いは解け、人間の姿に戻ります。王子と結婚したティアナはプリンセスとなり、プリンセスとナヴィーンがキスをしたことで呪いが解けたというわけです。なんとも一休さんみたいなトリッキーなオチですね。人間に戻った2人は目をつけていた物件を買い上げ、レストランを開きます。ティアナは夢を叶え、そして愛する人との幸せな生活も手に入れ、ハッピーエンドとなります。
201111201932552e8

ディズニーが描く「夢」の変遷とその背景
 さて、ここで改めてこの作品で描かれている「夢」が、これ以前のプリンセス・ストーリーのそれと異なった要因を考えてみたいと思います。本作の特徴は夢や主人公の存在にファンタジー性がないということですが、では夢にファンタジー性があった作品が公開された時代の状況はどのようなものだったのでしょう。1950年代には、「シンデレラ」(1950)、「不思議の国のアリス」(1951)、「ピーターパン」(1953)、「眠れる森の美女」(1959)と、ファンタジー性の豊かな作品が公開されました。経済史的には、この年代のアメリカは「20世紀でアメリカ経済が最も輝いた50年代」と呼ばれる均衡ある経済発展を遂げました。日本では2005年公開の「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画が、昭和33年(1958年)当時の日本社会の様子を忠実に表現したことで話題になりました。あの映画で描かれていたように、日毎に豊かになり、便利なものが手軽に手に入るようになっていった時代に、それらの映画は公開されました。アメリカン・ドリームという言葉に象徴される上昇志向や右肩上がりの成長に多くの人が期待を寄せていた時代です。その頃には、さらに豊かな未来の像を思い描くことができ、スケールの大きな夢を多くの人が抱くことができたのでしょう。そのような人たちの心に、50年代の夢にあふれるディズニー作品はマッチしたのです。
 では、本作が公開された2009年はどのような年だったのでしょう。まだ記憶に新しい方も多くいると思いますが、2008年には世界的金融危機のきっかけとなったリーマン・ショックが起こりました。その影響もあってか、2009年のアメリカのGDPは名目、実質ともにマイナス成長となっています(参照:アメリカのGDPの推移)。また、先ほどのアメリカン・ドリームに関しても2008年にアメリカの研究機関と英国BBCが行った調査では、アメリカ人の54%はアメリカン・ドリームは手に入らないと考えているという結果が出ました(参照:「アメリカ人が抱く夢と現実」)。つまり、それまでの成長物語を心から信じられるような状況ではなくなり、絵空事のような「夢」に共感する人は少なくなったのでしょう。だからこそ、本作の描く「夢」はディズニー作品にしては極めて現実的であり、慎ましいものとなりました。といっても、本作の結末で頭金を用意するので精一杯だった主人公がレストランの経営を軌道に乗せている様子を「映画だからね」と冷ややかに見ていた人もいるかもしれません。2010年以降のアメリカは緩やかな経済成長を再び始めるのですが、経済格差の拡大により、成長による豊かさを実感できる人は少ない状況が続いています。

夢が叶ったあとは
 そのような状況は、翌年公開の「塔の上のラプンツェル」の「夢が叶ったあとはどうすればいいの?」という問いにつながります。これまでの記事で指摘したように、豊かさを実感できないことの原因が需要の枯渇にあるとしたらどうでしょう。需要の枯渇には、経済成長の停滞と労働の負荷の上昇という負の側面と、便利なものの普及という正の側面があります。現代の私たちは、50年代の人たちが夢みたような便利な生活を享受しているのです。私たちが生きているのは、まさに夢が叶ったあとの世界です。それはさぞ幸せな世界だろうと思いきや、実感としては「確かに豊かで便利になったと思うけど、幸せかどうかと聞かれると…」といったところではないでしょうか。上記のような問いかけは、豊かだけれどどこか空疎な時代を生きる私たちの心情を鋭く表していると言えるでしょう。作中では上記のような主人公の問いかけに対し、王子様ポジションのキャラクターは「また新しい夢を見つければいい」と答えます。う~ん、わかるような…わからないような…新しい夢って具体的にどんなものでしょうね。そのヒントになるのがこの歌です。
誰にでも夢はある(塔の上のラプンツェル)
[HD]Tangled - I've Got A Dream
I've Got a Dream Brad Garrett, Jeffrey Tambor, Mandy Moore Lyrics
ピアニストやインテリアデザイナーなど、いかにも夢らしい夢も登場するのですが、お菓子作りや編み物やコレクションって、それは趣味と呼ぶべきものではないでしょうか。いえいえ、そんな大層なものじゃなくても、本人が夢と思うならそれも立派な夢です。こんな時代に夢中になれる趣味を存分に楽しんで生きることだって、夢のようなことじゃありませんか。だってアメリカン・ドリームのような大きな夢にはとても手が届きそうにありませんし…。「塔の上のラプンツェル」では、主人公の夢も「空を飛ぶ光を直接見たい」という非常に個人的なものでした。この作品からは、他人に誇れるようなものでなくても、あなた自身が満足する生き方ができればそれでいいというメッセージを感じ取ることができました。もちろんその背景には、レストランを開くという現実的な夢でさえ実現するのは困難なものであるというシビアな現実を多くの人が認識しているという状況があるのです。
 また、この映画のエンディングテーマ”Something That I Want”の歌詞”I want something that I want”って、まさにかのキャッチコピー「ほしいものが、ほしいわ」なんですよね。生まれた頃から便利なものに囲まれて生きてきた私たちにとって、何が欲しいのか自分でも明確にはわからない、それでも心のそこから手に入れたいと思うものや夢中になれるものを見つけたいという感覚は、多くの人に共通するものなのかもしれません。
_tangled_10

アナ雪=蟹工船?
それでは、今年公開され大ヒットを記録した「アナと雪の女王」はどうだったのでしょう。この作品は「夢」については一切触れていません。叶うとか叶わないとかのレベルではなく、言及さえしません。魔法が制御できなくなるという問題が生じ、それを解決してスタート地点に戻る物語です。マイナスをゼロに戻すだけであって、プラスの要素はほとんどありません。姉妹の絆は強まったかもしれませんが、アナとエルサは元々仲のいい姉妹でした。アナとクリストフはくっついたじゃないかと思う人もいるかもしれませんが、あの2人の関係が永続的なものであることを示す描写はありませんでした(参照:ポストモダンな『アナと雪の女王』の「その後」を予想してみた。)。そんな作品がなぜこれだけのヒットを記録したのでしょうか。それは「アナ雪」が、夢を追いかける余裕などなく、日々生じる問題をなんとか乗り越え、時には諦め、受け入れながら必死に生きる現代の私たちの姿を描き出した作品だからです。もしかすると、「アナ雪」の大ヒットは2008年の「蟹工船ブーム」と方向性を同じくするものなのかもしれません。
Ss


 さて、それでは50年代以降のディズニーの長編作品のメッセージ(?)を再度確認してみましょう。
50年代の作品「王子様の舞踏会だ~!誕生日じゃない日だ~!ネバーランドだ~!ヒャッハー!」
プリンセスと魔法のキス「願うだけでは夢は叶わないよ。努力が必要。でも夢が叶ったからといって幸せになれるとは限らないし、叶わなくても幸せになれるかもしれないよ。夢は幸せの1つの形でしかないんだ」
塔の上のラプンツェル「夢が叶ったあとはどうすればいいの?」「新しい夢を見つければいいんだよ」「例えばどんな?」「編み物とか、お菓子作りとか、そういうのだって立派な夢だよ。外食せずに家で鍋をつついて、100円レンタルのDVDを見て、ユニクロを着ていれば、十分に生きて行けるし、幸せでしょう?
アナと雪の女王「もうほっとこう」

いかがでしたでしょうか。眠れる森の美女に関する知識がないのがバレてしまいましたね。このように見ると、いかにも現代の社会には夢も希望もないような印象を抱いてしまいますが、必ずしもそれは事実ではありません。国の経済的な発展という大きなストーリーや、結婚という外部から与えられた枠組みが、個人の幸せを必ずしも保証するものではないという事実が明らかになり、一人一人が自身の生き方や人生の意味について腰を据えて考える必要性と向き合わなければならない時代を迎えたのです。その作業は、自分の中にしか存在しない答えを深く掘り下げるという、非常に面倒で先が見えず、また様々な欠点もあるありのままの自分と向き合わなければならないストレスフルなものです。しかし、そのプロセスを経ずに、本当に自分の満足のいく生き方を実現するのは不可能なことです。いうなれば、50年代の「成長の時代」は、経済的な豊かさによって、その面倒なプロセスを経なくても生きていけた時代だったのです。それが現代では、そのプロセスを経なければ生きていけない時代になったと言えるでしょう。それはもちろんピンチであり、同時に多くの人が自身の生き方や社会との関わり方について深く考え、一人一人が小さな行動に移し、結果として大きな社会変革を生み出す可能性を持つチャンスでもあります。今は世の中がそんな本当の豊かさに向かうきっかけが醸成されている「産みの苦しみ」の時期なのかもしれません。形式的な夢や希望、上昇志向にごまかされない自分にとっての本当の豊かさや幸せとは何なのか、それを実現するために社会とどのように関わっていけばいいのか、よく考えていきたいものです。

2014年7月 6日 (日)

「アナと雪の女王」の大ヒットに見る社会学的感染力の可能性 1人の問題はみんなの問題

 ディズニーの長編作品の53作目にあたる「アナと雪の女王」が大ヒットを記録しています。興行収入は、6月23日の時点で日本国内で約237億6337万円と歴代3位、世界では歴代5位を記録しています。7月16日発売のブルーレイとDVDも、予約受付開始から10日で40万件の予約を記録し、これはディズニー・スタジオ史上最高の記録だそうです。今回の記事では、本作がなぜこれほどの人気作品となったのかじっくり考えてみたいと思います。これまでこのブログでは働くことの困難さという問題を軸に、表面的な差異によって人々が分断されてしまうこと個人が社会に適応していく際に生じる問題(障害やセクシャルマイノリティ等)、それらの問題を解消するヒントとしての当事者研究について考えを述べてきました。バラバラに考えてきたこれらの話題が、「アナと雪の女王」の映画を見たことによって1つにまとまっていくような感覚を得ました。それは「アナ雪」のストーリー構成に、本当は同じような困難を抱えているのに表面的な差異によって分かり合えない問題を解消するヒントがあるように感じたからです。 

そのことに学問的な裏付けを付与してくれるかもしれない資料を入手しました。
『三田社会学』第19号 「当事者研究と社会学的感染力 ―当時者研究と社会学の出会いのさきに―」
この論文は同性愛者であり社会学者の小倉康嗣氏が、アスペルガー症候群当事者であり当事者研究会の実践者である綾屋紗月氏と、脳性まひの当事者であり当事者研究の研究を行ってきた熊谷晋一郎氏と出会い、当事者研究の存在を知り、その可能性について論じたものです。まず「当事者研究」とはなんなのでしょうか。こちらのページ(当事者研究とは-当事者研究の理念と構成-)に詳しい解説が載っていますので、よかったら参照してください。綾屋氏と熊谷氏は『つながりの作法 同じでも違うでもなく』の中で当事者研究について「専門家の描写や言説をいったん脇に置き、他者にわかるように自分の体験を内側から語る作業」と説明しています。小倉氏は「自分がいま苦労していることやそれに対する身の処し方を、専門家や既存の知に預けるのではなく、自らの研究テーマとして出して、仲間の力を借りながら、その苦労をいろんな方向から眺めて、自分を助ける知としていく。生きづらさや苦労の機制を知ることで、それをよりよい生の契機としていく」活動と定義しています。こういった活動が必要とされる背景として、病気や障害について専門家が外部から行う説明と当事者の実感にギャップが存在するという状況があります。具体的な例を『つながりの作法 同じでも違うでもなく』から綾屋氏の経験を引用します。

 私は「アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)」という診断名を得ている。その定義は自閉症の「①相互的社会関係能力の限界 ②コミュニケーション能力の限界 ③想像力の限界」という三つ組の特徴が見られることとされている。しかしこれはのちにも述べるが、あくまでも外側からの見立てに過ぎない。特徴とされるそれらの現象がなぜ生じるのかを、私の内側からの感覚で言えば、「どうも世界にあふれるたくさんの刺激や情報を潜在化させられず、細かく、大量に、等しく拾ってしまう傾向が根本にあるようだ」という表現になる。

確かに、医学的な定義と当事者の実感に基づく説明とでは、受ける印象に大きな違いがありますね(参照:「障害名ファースト」で語ることについて)。綾屋氏自身も他の精神疾患について、当事者の生の言葉に触れることで理解が深まった経験があるようです。

 かつて「自分のおかしさの原因探し」をしていた時に、綾屋は精神医学や心理学で語られる症状は一通り読んだ。経験している症状も多く、どれもだいたい実感としてわかると思ったが、唯一、そのなかで統合失調症だけがわからなかった。まるで手のつけようのない、怖くて破滅的な病気であるように描かれているばかりで、実感として伝わってこなかったのである。それが『べてるの家の「当事者研究」』を読んで初めて「あ、これなら内側からわかる気がする」と思えた。それは「自分のなかに生じるあの感覚の延長線上にあるのではないか」と自分に引き寄せてわかる感覚だった。

当事者研究のメリットとしては、
・当事者が自分の言葉で生きづらさを語ることで、周囲の人が先入観に惑わされずに当事者の生きづらさを理解し、必要な支援をしやすくなる
・当事者が自分自身と障害や病気とを切り離して考えられるようになり、ことさらに自分を責めることがなくなる
・苦労のパターンや構造が当時者自身にも明確になり、具体的な対応策を考えるヒントになる
ということが挙げられるようです。また、当時者研究には当時者同士の相互理解を深める効果もあるようです。例えば、自助支援グループなどでは、当事者が自身の苦労と他の当事者の苦労を比較して深刻さを競ってしまったり、収入や社会的ステータス、学歴、人間関係などの差異を強調して分断が生じてしまうこともあるそうです。同じ病気や障害を抱えていても、全く同じ苦労や背景を有しているわけではありません。そこで重要になるのが著書のタイトルにもなっている「同じでもなく違うでもなく」という感覚です。著書の中ではそれを「自分のなかにある信念を一段高いところから客観視することで、他者との「対立していない共有する部分」を見つけるという方法」と説明しています。具体例をべてるの家の実践から引用します。

べてるの家では、個人個人が体験している「主観的な事実」としての幻覚妄想を、「お客さん」「幻聴さん」「幻覚妄想状態」と呼び、明確にラベリングしている。これは「べてるの家全体にとっての現実」と、個人個人の「主観的な事実」との間に、ある程度の区別を置こうという振る舞いだと言えるだろう。
しかし特筆すべきは、メンバーのほとんどが、同じような幻覚妄想状態を体験したことがあり、その苦悩を熟知しているということだ。したがって、他者の幻覚妄想に対して、その内容を真に受けることはないものの、それに伴う感情の機微には深く共感するというスタンスがとられる。
これはちょうど、誰かが片思いで苦しんでいる時に、同じような片思いのつらさを過去に経験したことのある仲間たちが、相談に乗るときのポジションに似ている。妄想的苦悩の内容からは客観的に距離を置きながらも、苦悩そのものには深く共感してくれるのが、べてる流の包み込み方と言える。

一人一人が抱える幻聴、幻覚の具体的な内容は違いますが、「幻聴、幻覚にとらわれてしまう苦悩」という一段高いレイヤーに存在する視点から見た問題としては、みんな共通しているのです。片思いの例もありましたが、それは病気や障害に限らずあらゆるものに当てはまるでしょう。個々の会社の実情は違っても働くことの辛さは多くの労働者で共有できるでしょうし、何かしら思い通りにならないものを抱えながら生きているという点でもみんな共通しているのです。視点を一段高いレイヤーに持っていくことで共通点を見出す例として、こんな笑い話があります。

「うちの旦那と息子ったら食事の時間にも政治の議論ばっかりやってて、うるさくてしかたないの」
「似たもの同士の親子ね」
「全然違うわ。旦那は共和党、息子は民主党を支持していて、正反対よ」
「そうじゃなくて、団欒の時間にも熱くなっちゃうほど政治の議論が大好きってところは同じでしょ?」

小倉氏、綾屋氏、熊谷氏の三者も、同性愛、アスペルガー症候群、脳性まひと、抱えている生きづらさの種類は違いますが、自分の生まれ持った性質がありのまま社会に受け入れられず、その苦悩を「ないもの」としたり改善のための努力を強いられることの辛さを経験しているという点では同じなのです。「当事者研究と社会学的感染力」では、他者の「生の声」「生きた言葉」「生きられた経験」に触れることで得られる、表面的な差異を超えた共通の体験や感覚への気づきを「感染」と表現しています。「感染」という表現には、「対立していない共有する部分」の存在を言葉で理解するだけでなく、「自分だけではなかった!」という喜びやワクワク感、切実感が込められているのです。それは言葉の上での「理解」というより、「体感」に近いものなのでしょう。
 前置きがとても長くなりましたが、本当は同じような困難を抱えているのに表面的な差異によって分かり合えない問題を解消するヒントが少しずつ見えてきました。C・W・ミルズという社会学者は、個人とマクロな社会構造とのつながりを洞察する想像力を「社会学的想像力」と呼んで、その重要性を主張しました。つまりは、自分が抱えている問題は自分だけの個人的な問題ではなく、社会的な背景からの影響の存在に気づく力です。小倉氏は、そこから一歩踏み込んで、ワクワク感や切実感を伴って表面的な差異を超えた共通の体験や感覚への気づきを与える力を「社会学的感染力」として提唱しています。もう少し砕けた言葉で、ある社会問題に対して「これは自分の問題でもある」という気づきを「理解」を超えたインパクトを伴って与える力と言うこともできるでしょう。小倉氏は、「社会学的感染力」によって相互理解を深めるメッセージを発するためのアイディアをいくつか提案していますが、その中でも「文字による表現だけでは収まりきらない問題になってくるのかもしれない」という可能性を指摘しています。メッセージを発する媒体は学術的な調査や論文にとどまらず、芸術や芸能といった様々な形を取り得るでしょう。もちろんその中には、映画も含まれるはずです。

※【ネタバレ注意】この先、「アナと雪の女王」だけでなく「プリンセスと魔法のキス」「塔の上のラプンツェル」の内容にも少し触れます。内容を知りたくない方はご注意を。
 そういった観点からすると、「アナと雪の女王」は強い「社会学的感染力」を持つ作品であり、多くの人がこの作品の発するメッセージに感染したことが大ヒットという形に表れていると読み取ることができます。それでは、「アナと雪の女王」が持つ「社会学的感染力」の源泉をいくつか挙げてみましょう。

・「魔法」というデフォルメ、モデル化された問題と現実的な問題の絶妙なバランス
 ディズニー映画の魅力と言えば、何と言ってもそのファンタジー性でしょう。シンデレラを美しいプリンセスに変身させる魔法や、人間の王子に恋をする人魚。モンスターの世界があって人間と同じように働いていたら、オモチャが生きていて人間の見ていないところで冒険を繰り広げていたら、なんて考えたらワクワクが止まりません。しかし、「アナ雪」での魔法は、ネガティブな意味を持つものでした。「美女と野獣」の野獣にかけられた呪いのような位置づけになるでしょうか。このようなネガティブなファンタジー性は、わかりやすくデフォルメ、モデル化された問題として観る者に伝わります。誰しも「生まれつきあんな能力を自分の意志と関係なく持っていたら、そりゃあ生きづらいだろうな」と感じます。そして「アナ雪」の特徴は、モデル化された問題の他に極めて現実的な問題も描いていることです。具体的には、以前に書いたレビューでも述べたように、王位継承に関わることや、生まれてくる順番など、現実に存在する当人の意志ではどうにもできない問題のことです。それらの問題を1つの作品に同居させることで、現実的な問題も「魔法」と同等に生きづらさの要素となる深刻なものであるというメッセージが伝わるのです。公開以来、インターネット上の様々な媒体で多様な視点でのレビューが発信されていますが、「アナ雪」で描かれている「現実的な問題」の方に注目する人が多いのも興味深いところです。「これは自分のことかもしれない!」と感染した人が多く存在することの証でしょう。例を挙げてみましょう。

【ネタバレ注意】「アナと雪の女王」を見た長女が感じた長子の悲哀
「アナ雪に共感する長子たち」の嘆きになんかモヤモヤする次女のつぶやき

「長子は大人の期待に応えようと自分を抑えて「良い子」になろうとしまうんだよね」「道化を演じて明るく振舞うのも自分を抑えてるのと同じなんだよ。それを能天気だと思われてしまうのが末っ子の悲しいところ」といったところでしょうか。こういった反応があるのは、「アナ雪」が現実に存在する兄弟姉妹の抱く不満をリアルに描いていたからなのでしょう。そして、こちらのハンス王子に関するまとめも素晴らしい視点で書かれています。

アナライジングアナ雪

作中で、生まれた順番による最も大きな理不尽を被っているのがハンス王子です。彼は13番目に生まれたというだけで、統治者としての優れた才覚を発揮する機会を得られないのですから。自分の努力では変えられない生まれ持った要素によって苦しんでいるという点では、まさにエルサと同じなのです。国に連れ戻されたハンス王子はアレンデール王国での出来事を振り返り、エルサのことを思い出し「僕と同じじゃないか!」と再び口にしたに違いありません。
 クリストフに関しては、親の姿が見えないことやトナカイにしか心を開いていないことなど、彼も色々持っているのですが、当人がそれを気にしているようには描かれていません。「自分の力で解決できない問題があっても大丈夫」というメッセージを初めから体現しているキャラクターという位置づけなのでしょうか。
 本作のファンタジー性である魔法の扱いについても、大きな特徴があります。それは、愛の力によって魔法を制御できるようになったとしても魔法そのものはなくならないという結末であり、「美女と野獣」とは大きく異なるところです。問題を解消するのではなく、問題とうまく付き合いながら生きていくのです。これは「勝手に治すな自分の病気」という理念のもと、医療的に病気を治すことよりも病気を抱えながらも楽しく幸せに生きていく方法を探ろうというべてるの家の姿勢にも通じるものがあります。やっと世界がべてるに追いついてきたというところでしょうか
 ディズニーがファンタジー性のある作品の中に現実的な問題の要素を取り入れる傾向は、ピクサーとの提携以降に始まり、近年のプリンセス・ストーリーではその傾向がさらに強まっているように感じます。例えば、日本では2009年公開の「プリンセスと魔法のキス」では、自分のレストランを開きたいと願う主人公は資金が集められず壁にぶち当たります。この作品の「夢を叶えるには強く願うだけではなく、地に足のついた努力が必要(でも努力一辺倒でもだめ)」というメッセージは非常に大切なものですが、ディズニー作品のファンタジー性による高揚感を期待しているファンのニーズを的確に捉えているとは言えないかもしれません。その点を見ても、「アナ雪」は雪の魔法の華やかさを存分にアピールし、現実的な問題を暗喩しながらもディズニー作品としてのファンタジー性も大切にしていました。それも大ヒットの決め手の1つなのでしょう。
Normal

・普遍性の高いテーマ設定
 日本では2010年公開の「塔の上のラプンツェル」は、現実的な問題をテーマのド真ん中に設定していました。それは「支配的な親からの自立」です。この作品の悪役ゴーテルは、自分の若さを保つために魔法の力を持つ王女を誘拐し、自分の娘として育てます。その支配的な親子関係の描写が何ともリアルで生々しく、映画の華やかな色彩とは裏腹に恐ろしさも感じさせる作品でした。エンターテインメント性も高く魅力的な作品でしたが、観る人が自分の問題として受け止め共感するにはテーマが具体的なものに絞られていました(親子関係で苦労した人には深く突き刺さる作品だったでしょう)。一方「アナ雪」は、主要な問題が魔法というファンタジー性のあるもので、「自分の意思では解消できない問題とどう向き合うか」という普遍性の高いものでした。それは「お金がない」「親とうまくいかない」といった問題も内包する、レイヤーの高い位置にある問題です。共感を誘うターゲットが広いということが必ずしも作品として優れているということを意味するわけではありませんが、「アナ雪」に多くの人が「自分のことかもしれない」と共感する要素があり、それが大ヒットを呼び込む要因だったことは間違いないでしょう。
A2ssfrz

・登場人物が「感染」するストーリー展開
 本作は、エルサが城に連れ戻されてからの展開が急すぎて、アナが自分を犠牲にしてエルサを助ける行動をとった決め手がいまいちはっきりしないという印象もあります。「肉親だから」というのは理由としては単純すぎるかと思います。トロールの長老が「エルサが閉じこもったのは周りの人を魔法で危険な目に遭わせないようにするためで、君を拒絶していたわけではないんだよ」と教えてやってもよかったんじゃないかとも思いましたが、今ではそういった助けを借りずに自力で「気づき」を得たという流れでよかったと思っています。アナはハンス王子に裏切られ、自分の力ではどうすることもできない状況に陥ったことで、一段高いレイヤーで魔法の存在に苦しんできたエルサと同じ苦悩を味わいます。作中には具体的な描写はないのであくまで私の解釈ですが、アナがエルサの苦悩を体感的に理解した(感染した)ことがアナの自己犠牲の決め手になったと考えると非常にすっきりします。
 アナはエルサだけでなくハンス王子にも感染しました。会ったその日に結婚を決めてしまうのはさすがにとんでもないことですが、アナがハンス王子に強く惹かれたのは自然な流れであるように思います。それは2人に共通点があるからです。ハンス王子が見せた愛情は偽りのものでしたが、彼が13番目の子供だったことで家族のなかで軽んじられており、居場所を感じられずに生きてきたという彼の言葉は真実だったのでしょう。だからこそ、両親を亡くし姉とも分かり合えずに寂しく生きてきたアナは彼の言葉に感染し、惹かれていったのでしょう。そこにつけこむハンス王子の卑劣さが一層際立つのですが、彼の生い立ちを思うと同情の念も禁じ得ません。
6488398f0e9ce64b0a1aeaf5d0266a44

・時代設定
 「アナ雪」は王子も王女も登場する伝統的なプリンセス・ストーリーの設定を踏襲しています。そんな作品が、これだけ変化の急速な現代においても大ヒットを記録したのはどういう要因があるからなのでしょうか。私たちが生きている現代にはもう身分制度はありませんから、王族も平民もありません。どんな出自であってもそれによって将来が決定されることはない自由な社会ということになっていますが、実感としてはどうでしょうか。都市部と地方との格差や、家庭ごとの経済的な格差など、当人の努力ではどうにもできないけれど人生に大きく影響を与える要素は現代にも多く残っています。王様が政治的な実権を握る中世の社会を背景としながらも現代にも残る問題をリアルに描くことで、時代や社会制度という差異にとらわれず、自分の意志で変えられないものとどう向き合うかという普遍的な問題に焦点を当てる構造になっているのです。
 特異能力を持つ人の社会への適応という問題を扱った作品として「X-MEN」も有名です。こちらの作品の舞台は現代のアメリカです。この作品には特異能力を持つ子供たちが能力の正しい使い方を学ぶ「恵まれし子らの学園」という学校が登場します。「X-MEN」には目から破壊光線を出す能力や天候を操る能力など、様々な能力を持つ人物が登場するのですが、同じ能力を持つ人物が複数存在しないという点が特徴的です。個々の能力の特殊性は違っても、大多数の人と違うことで社会に適応できないのではないかという不安を抱えている点で、能力を持つ子供たちはつながっているのです。それはべてるの家のメンバー同士のつながりにも通じるものがあります。
 「アナ雪」はファンによって多くのパロディー動画が作られていますが、私はこれが大好きです。
How Frozen Should Have Ended - Reissued
“The answer is love!!”とオチを言ってしまうところなんか最高に面白いです。「アナ雪」のレビューの中にも「両親の育て方がまずかった。魔法を隠すのではなく正しい使い方を教えるべきだった」という意見は多く目にするのですが、様々なマイノリティーの存在が可視化されていない時代では、隠すという選択肢しか思いつかないのも無理はありません。抑えていたものを解放するカタルシスをストーリーに盛り込むために、プリンセス・ストーリーとして不自然ではない時代背景という制約条件を非常にうまく活用した作品だと言えるでしょう。
7094

・楽曲の素晴らしさ
 「アナ雪」の大ヒットを支える要素に楽曲の素晴らしさがあるのは言うまでもありません。中でも「Let It Go」は第86回アカデミー賞の歌曲賞を受賞しています。この楽曲の25ヵ国バージョンが動画サイトのディズニーの公式アカウントにより映画に先駆けて公開されており、映画の公開以前から話題を呼んでいました。今回は「Let It Go」の訳詞について考えてみたいと思います。ここで訳詞家の三浦真弓氏のツイートをいくつか引用したいと思います。

https://twitter.com/mayumiura/status/471145338368049152
それでは歌詞の "Let it go" は何て歌えばいいんですか、と代案をぜひお聞きしてみたいものです。 / “"Let it go"と「ありのまま」の違い(小野昌弘) - 個人 - Yahoo!ニュース” http://htn.to/7neyQuxp
https://twitter.com/mayumiura/status/471162624810299392
エンターテイメント翻訳は、情報文書の翻訳とは性質が違うんですよね。同じ意味の伝達、ではなく、同じ効果の喚起、を目指してるんです。RT @katsudobenshi: 様々な設定の変更を伴って『ドラえもん』がアメリカで放送されることに拒絶感を示す人が日本側に多いのも、
https://twitter.com/mayumiura/status/471165205037068288
こんなふうにも言えるかな。台本翻訳(対訳も字幕も)は「頭でわかる」ように訳すことが必要だけど、訳詞は「胸でわかる」ものでないとだめなんです、というか。
https://twitter.com/mayumiura/status/471165802628915200
だから、たとえば洋楽CDなど、歌詞対訳を読みながら、原語のままで歌を聴く、というのは、読んで「頭でわかった」内容を、聴きながら「胸でわかり直してる」という作業なんですね。すごく面倒な作業なんだけど、いい音楽には、そこまでの手間をかけさせるほどの魅力がある。

私も日本語の歌詞をじっくり読んだ時には、原語とのニュアンスの違いに目が向きました。具体的には、日本語の歌詞は英語に比べて「わかりやすく前向きなイメージだな」という印象を抱きました。しかし、上記のツイートの「同じ意味の伝達、ではなく、同じ効果の喚起、を目指してるんです。」という一節が考えをすっと整理してくれました。英語と日本語とでは同じ数の音節に込められる意味の量に大きな差がありますから、そもそも訳詞の場合逐語的な翻訳による正確な意味の伝達は不可能です。そんな制約条件がある中で、メッセージの大筋を変えず、原語の母音の響きを活かした日本語版の歌詞は、考えうる限り最良の訳詞と言えるのではないでしょうか。また、現代の日本人により受け入れられるようにとわかりやすく前向きなテイストを意識的に入れたのだとしたら、訳詞者の力量は相当なものでしょう。
 また、「胸でわかる」という感覚は、先の「感染」に通じるものがありそうです。歌詞に直接的に表される言葉の意味を超えた情感を伝えるという点に関して、歌というものの持つ可能性は大きなものがあるでしょう。その点では、情感の伝達に大きく貢献しているのは日本語版を歌う松たか子氏の表現力なのではないでしょうか。私の主観ではありますが、松たか子氏の歌う「Let It Go」は前向きさより悲愴さや切実さを感じさせる表現であるように感じます(特に「何も怖くない」というフレーズの歌詞の力強さと歌声のまるで泣きそうな切実感とのギャップは、エルサの葛藤を非常によく表現していると思います)。それは松たか子氏が歌詞の意味だけにとらわれず、この曲やストーリーに込められたメッセージ、演じるキャラクターの心情を「胸でわか」っていたからではないでしょうか。その証拠に、日本語の意味を十分には理解できない海外のファンの日本語版への評価も非常に高いのです(海外「日本語の響きって最高」 日本語版 『Let It Go』 の人気が止まらない)。何かを表現する際には、演じる人自身が作品に込められた真意を「胸でわかる」ための感受性の素となる知識や経験をいかに積んでいるかということが、演じる技法以前に大切なのではないでしょうか。
 アニメーション映画ならではの魅力は楽曲以外にもいろいろあります。CGアニメーションの精巧さはかなり高いクオリティーで、特にキャラクターの表情の豊かさは驚くべきものがあります。あれほどデフォルメされているデザインにも関わらず、観る者の感情を揺さぶる表現ができるのは本当に不思議です。中でも、戴冠式のパーティーでアナと口論になり、必死で怒りを抑えようとするエルサの表情は胸に迫るものがあります。歌や台詞での表現と同様に、映画の作成に関わるあらゆるスタッフがそれぞれのポジションの違いを超えて作品に込める真意を共有し、個々の要素が1つの映画に調和して結集することで、観る者の心を揺さぶる強い「感染力」を持つ映画として完成したのです。
Frozen02400x225_2

 今回の記事では「アナと雪の女王」という作品を通して「社会学的感染力」という表面的な差異による分断を解消する力の可能性について考えてみました。映画という題材に関しては、そういう影響力を持つ作品は他にもたくさんあるという意見もあるでしょう。確かに、現実の社会問題をよりストレートに扱った作品や、人の情感に訴え掛ける力を持つ作品は他にも多くあるでしょう。しかし、今回注目したいのは、ディズニーというメジャー路線、一般ウケの代名詞とも言える製作会社のエンターテインメント性の高い作品にそういった要素があり、その作品が世界的な大ヒットを記録したという点です。「個性」「自分らしさ」という言葉が一人歩きし、表面的なレイヤーで他者と違うことに価値を見出そうとしがちな現代において、それでも人と人が互いに分かり合い「同じでも違うでもなく」という適度な距離感でつながりを保つことの必要性を多くの人が感じているのかもしれません。それを実現するために「内側からわかる」「自分に引き寄せてわかる」「胸でわかる」といった感覚を大切にし、それらを呼び起こす「感染力」を持つ表現の価値を評価していくことが求められているのでしょう。

2014年6月 1日 (日)

お金持ちにもほどがある

 七五調のリズムはとても心地いいものですね。さあ、みなさんも声に出して読んでみましょう。「お金持ちにもほどがある」。今回も所得の適切な分配について考えてみました。割とトンデモ度の高い内容ですが、個人的には悪くないアイディアだと思います。よかったらコメントでご意見ください。

お金持ちと聞いて思い浮かぶ人物は誰でしょうか。私は世界の富豪の人々にはあまり興味がないので「ビル・ゲイツが世界一のお金持ちなんでしょ?」くらいの認識ですが、こちらの記事によると順位の入れ替わりはままあることのようです。

ビル・ゲイツ氏、世界一の富豪に返り咲き 世界長者番付 日本トップは孫正義氏

この記事によるとビル・ゲイツ氏の資産は3月3日の時点で760億ドル(7兆7100億円)ということらしいのですが、数字が大きすぎてわけがわかりませんね。2013年の名目GDPランキング66位のアゼルバイジャンの名目GDPが735,4億ドルですから、人口約931万人のアゼルバイジャン国民が一年間に生み出す価値より大きな資産を保有していることになります。ちなみに、昨年一年間で上位300人の富豪の純資産総額は5240億ドル(約55兆円)増えたそうです(世界の富豪、昨年は資産55兆円増やす-14年も富の集中継続か)。

 そのビル・ゲイツ氏なのですが、最近では自身で立ち上げた慈善基金団体の運営に力を入れているそうです。その財団Bill & Melinda Gates Foundation年次報告によると、2012年には約317万ドルを途上国開発やグローバルヘルスプログラム、国内の教育機関への支援などに充てています。財団の基本財産は約363億ドルで、世界一の規模の慈善基金団体となっています。財団の設立と言えば、ロックフェラー財団を始め、ビル・ゲイル氏の他にも行っている富豪はいますし、様々な慈善活動への資金援助を行う富豪も存在します。それらの行いに対して私は「なんて心の清い素晴らしい人達なんだろう」と思う一方、「こんだけ金持ってんだからこれくらい当然じゃね?」と思う気持ちも抱きます。富豪が慈善活動に資金提供する動機については、税金対策だとか富を独占することへの批判を回避するためだとか、様々な意見が飛び交います。そもそもなぜ多くの資産を保有することに批判が起こるかと言えば、世の中の資源が限られているなか、食うや食わずの人がいる一方で一生かかっても使いきれないほどの資産を持つことを「悪いこと」とみなすことは不自然ではありません。富を独占することへの外部からの批判はもちろん、自身の感じる罪悪感も無視できないのではないかと思います。だからこそ、資産の一部を手放すにしても散財ではなく慈善活動への資金提供という方法を採るのではないでしょうか。というところまで考えて、私はこう思いました。個人が保有する資産や一定期間稼ぐ金額に上限を設けてしまえばいいのではないか。それを超える分は税金として徴収する。累進課税の超強化版といったところでしょうか。個人が富を独占することは問題であると公的に認め、1人の人間が一生のうちに稼いで自由に使える額をあらかじめ決めてしまおうという発想です。資産家の寄付などに関しては、対象となる分野が限定されたり、人の善意に寄りかかって運営していくことの問題点が指摘されていますが、政府が責任を持って必要なところへ再分配する仕組みを作ってみることでその問題も解消できます。しかし、これでは富豪たちへのメリットが全く無いように思いますが、それはもう価値観の転換を図るしかありません。以前に書いた記事で「幸福度=可処分所得×可処分時間」という豊かさの指標を提案しましたが、上限を大幅に超えて稼ぐような人はその分の仕事を他の人に振って、自分は多くの可処分時間を得て幸福を満喫してもらえればと思います。もともとお金をたくさん稼ぐ人は僅かな時間でもお金を生み出すことに費やしたいという考えの強い人も多いでしょうし、価値観の転換は簡単にできるものではないでしょう。しかし、所得の再分配が健全な社会の維持に必要なように、この市場の飽和した現代においてはその制度の改善も必要に迫られているのではないでしょうか。

 続いて、そうして増えた税収をどのように分配するべきなのか、そもそも上限をどのように定めるのかというのをざっくり考えてみたいと思います。結論から言えば、税収はベーシック・インカムの財源とし、その財源を満たすのに必要な額を徴収できるように上限を定めるのです。ベーシック・インカムに関しては実現可能性などに関して疑問は残りますが、最大のネックであった「財源をどうするのか」という問題に関しては、このような確保の仕方もありえるのではないでしょうか。ベーシック・インカムの導入は、以前に他の記事に書いた「市場が飽和し、労働に掛ける労力あたりのリターンが低減してしまう問題」や「衣食住を賄うのに十分な富があるのに働かないと生きていけない仕組みを維持することの非合理」などを解消する優れたシステムだと思います。それにより、極端なお金持ちも極端な貧乏人も存在しない社会が実現するのです。ベーシック・インカムであれば働いた分だけ収入が増え、「福祉の罠」の問題も生じません。人類はこれまで、技術の発達により様々な便利さを享受し、欲望を満たしてきました。そろそろ、社会の健全な維持や人権を毀損してしまうほどの要望の実現を諦める方向に、私たちは努力の方向を転換させなければならないのではないでしょうか。

 今回私の提案したアイディアでは、例えば「民間の宇宙旅行サービスの購入など、高額な資産を保有することで夢を実現させることができなくなってしまう」などの問題も生じます。また、実行可能性の面でツッコミどころもあるかと思いますので、コメントに意見をドシドシ寄せていただければ嬉しいです。

2014年5月25日 (日)

「努力が報われる社会」とは言うけれど

 以前「なぜブラック企業は生まれるのか2 産業構造は具体的にどう変わったのか」という記事で、ブラック企業の問題を考えるうえで経済をマクロな視点で見る必要があること、市場が飽和している状況では高度成長期とは働くことの意味合いが異なることを指摘しました。今回は、市場飽和という特殊な状況下で、どのように富を配分するのが適切なのかということを考えてみたいと思います。

 記事のタイトルの「努力が報われる社会」ですが、このフレーズを耳にするのはいわゆる弱者に対するバッシングという文脈であることが多いように思います。具体的には、生活保護をはじめとする社会保障を受けている人を対象に、財源となる税金を納めている労働者が「頑張って働いている者が搾取され、楽をしている者にばらまかれている」という不満を持ってしまうのです。そういった状況が生じてしまう問題に関しては「分断支配の乗り越え方 うまくいっている側の問題を明らかにしよう」という記事でも扱いましたが、この国の社会保障の問題は一度それを必要とするような状況に陥ってしまうと、なかなか労力あたりのリターンの低い待遇から抜け出せない点にあるのだと思います。

 「努力が報われる」とは努力量に応じた報酬が得られる状態を指すのでしょうが、需要が潤沢に存在した高度成長期にはある程度それが実現できていたのではないでしょうか。作って売り出せばその分だけ売れるのであれば、投入した労力や時間に応じた報酬を与える制度を作ることも難しくないように思います。それが現代のように作っても売れるとは限らない状況では、努力をしても結果が伴わないことも珍しくありません。成果主義の給与システムを採用する企業も増えているようですが、これは結果として生じた成果に給与を対応させているのであって、投入した労力の量を基準にしているわけではありません。そもそも努力の量を数値化して比較するなどとても困難なことですから、目に見えやすいアウトプットで評価するというのはまっとうな方法であると思います。理想としては頑張っている人の方が多くを得られる仕組みがあるに越したことはありませんが、「頑張っている」というのはどうしても主観的な評価になってしまいます。この記事でもアウトプットの相対的な比較と、それに応じた報酬の分配について考えてみたいと思います。

 先日、このようなツイートを見かけました。

https://twitter.com/Katsuhito000/status/468963990048362497
「うまくいってる」の定義が「富の総量が増える」か「富の所有の偏差が小さい」か次第でどうとでもなるけど、いわゆる新自由主義は後者を無視しすぎ。
https://twitter.com/Katsuhito000/status/468965415658733568
昔何かで読んだが、頑張りとか結果次第で、順位とか所得が実感が伴う程度の少量変動する社会が、最も活力があるらしい。
https://twitter.com/Katsuhito000/status/468965651496071168
別の言い方をすると、ある時点で負けてる奴が「まだまだこれから」と思える程度の差しかつかないのがいいらしい。
https://twitter.com/Katsuhito000/status/468965933474930690
負けてる奴からの突き上げがあるという状態が勝ってる奴のサボりを抑止するので、全体として頑張る奴が多数になるという構図。
https://twitter.com/Katsuhito000/status/468966942167273472
レースゲームで順位が下の車ほどブーストボーナスが付いて、ゲームとして楽しくなり成立するってのがあって、現実社会でもそういうほうが活性化するのかもと思った。
https://twitter.com/Katsuhito000/status/468968275888832512
やはり適度な再分配によって過激にならない競争が持続するようにしておくのがいいのだろう。新自由主義は経過も結果も過激であるし、敗北後の再挑戦がほぼ不可能なのもいただけない。

どのような富の分配を「適切」「良い」とするのかは、考え方次第でいろんな基準を挙げることができるでしょう。その中でFX Katsuhito氏は、みんなが「もっと頑張ろう」という気持ちになれるという基準で適切な富の分配を考えています。重要なのは「頑張りとか結果次第で、順位とか所得が実感が伴う程度の少量変動する」という点でしょうか。単純化したモデルを用いて比較してみましょう。
 ある国には10人の国民がいて、全員が何かしらの形態で働いています。国民所得は100で、所得の分配は以下のとおりです。順位は労働による生産性の大きさの相対的な順位です。

1位 20
2位 16
3位 13
4位 11
5位 10
6位 8
7位 7
8位 6
9位 5
10位 4

 また別のある国でも10人の国民が働いています。国民所得が100という条件も同じですが、所得の分布が大きく異なります。

1位 20
2位 15
3位 15
4位 15
5位 10
6位 5
7位 5
8位 5
9位 5
10位 5

どちらの国も国民所得は同じですし、アウトプットの順位と所得が逆転するという非合理もありませんが、働く人のやる気には差が生じてしまいそうです。後者の方では、3位や8位の人は多少順位が変わっても所得は変わらないので、あまり「もっと頑張ろう」という気持ちにはならないでしょう。新自由主義的な経済活動により資本の拡大再生産が進めば、所得の分配は二極化していくと言われています。働く人のやる気をどう盛り立てるかという観点からしても、過度に二極化した所得の分配は望ましくないと言えるでしょう。

 実際には人間のやる気は報酬のみに影響を受けるわけではありませんし、そもそもこれだけ市場が成熟した状況でみんながやる気を出して頑張る必要があるのかという疑問も残ります。また、所得の分配に関してどの社会にも当てはまる唯一の最良な方法など存在しませんし、仮にそれがあったとしてもどのようにそれを実現すればいいのでしょうか。本来は労使間の交渉で決めるのが筋ですから、法律で民間企業の従業員の給与を決めるというのは現実的ではありません。日本ではもっと政労使の対等な議論が必要なのだと思います。所得の分配についても、ちゃんと合意を作る過程を経るのが望ましいあり方なのです。

 市場が成熟した状況ではこれまでと同じ資本主義のルールを維持するのに無理が生じるという指摘を以前しましたが、次の記事ではその点を踏まえて適切な所得の分配のルールを1つ考えてみたいと思います。

2014年4月21日 (月)

映画評「アナと雪の女王」 変えられないものと共に生きる

 ひさびさの更新でひさびさの映画評です。映画評といっても過去に「ヘアスプレー」の記事を書いただけで、特にシリーズ化しているわけではありません。今回取り上げるのはディズニーの最新作「アナと雪の女王」です。ひさびさに記事を書きたくなるほどグッとくる映画に出会いました。
E382a2e3838ae381a8e99baae381aee5a_6

 この映画のすごさって何だろうと考えてみたのですが、なかなか1つに絞ることができませんでした。それはこの映画にはいくつものテーマやメッセージが多層的に盛り込まれているからであり、それこそがこの映画の魅力なのです。映画に限った話ではありませんが、優れた作品であるほど「この作品のテーマは○○です」と簡単に説明できないものです。この作品についてもすでにたくさんの人がレビューを書いています。それぞれのレビューには独自の視点があり、読むたびに新しい発見が得られます。この作品のすごいところは、いくつもの視点から汲み取れるメッセージやテーマ性が矛盾なく1つのストーリーやキャラクターに同居していることです。例えばそれは、素材の持ち味が複雑に絡み合いながら、互いにぶつかり合うことなく調和している上質な料理のようです。

 この映画の魅力はテーマやメッセージの多層性であると冒頭で述べました。それは具体的にどういうことなのでしょう。こちらのブログでもテーマの多層性をこの映画の魅力として取り上げています。

【映画】『アナと雪の女王/Frozen』レビュー ※後半にネタバレあり

とても分かりやすい解説なので、ぜひお読みください。私の記事では、エルサが生まれながらに背負っているものの多層性や作品全体のテーマの多層性に焦点を当てていきたいと思います。

ハンデを抱えていること
まず、これらの記事をお読みください。

アナと雪の女王を同性愛映画だと見られる8つの理由
第38回 ディズニー最新作「アナと雪の女王」は同性愛プロパガンダか?

劇中には魔法の力を持つエルサが同性愛者であることを明示するセリフなどは一切登場しません。よって魔法の力が同性愛の暗示であると断定はできないのですが、暗示と呼ぶにはあまりにもわかりやすい表現が随所に散りばめられています。「わかりやすい」とは言うものの、何の情報収集も行わずにこの映画を見た私は、この暗示に全く気が付きませんでした。あとで上記のレビューを見たとき「うわ~~~!!!そうだったのか!!!」と目から鱗が落ちる思いでした。2つ目の記事でも説明されていますが、エルサの持つ「魔法の力」は「社会的に受け入れられない性的指向」の比喩だと解釈することができます。例えば、「他人に知られてはいけない秘密」として扱っている共通点もありますし、何より重要なのは当人の行動や環境の影響から後天的に獲得したものではなく、先天的に備わっている性質だということです。どうしてそのような性質が備わっているのか自分でも分からずに戸惑い苦悩するエルサの姿は、自身の性的指向を自覚したばかりのセクシャルマイノリティの姿と重なります。聡明なエルサは自身の魔法の力を「隠さなければならないもの」と幼いながらも理解し、両親が亡くなったあとも城の扉を閉ざし続けます。これは、セクシャルマイノリティが自身の性的指向を周囲の人に明らかに(カミングアウト)していない状態を「クローゼット」と呼ぶことに通じるものがあります。そんなエルサにも人前に姿を現さなければならない日が訪れます。王の娘として生まれた彼女は、21才になった年に戴冠式を行い、王位を継ぎます。気づかれるのではないか、うまくやらなければならない、と不安に震えながら戴冠の儀式に向かう姿には、涙を誘うものがありました。
346540view003_3

王位継承者であること
 エルサは雪の女王である前にアレンデール王国の王女でした。つまり、生まれた瞬間から将来的に女王の座に即位することが宿命づけられているのです。それは、大きな富と権力を約束されることであり、ある人から見れば大変羨ましいことです。しかし、職業選択や配偶者の決定などの自由には大きな制限がかかります。また、国の命運を左右する非常に責任の重い立場でもあり、真面目なエルサにとっては喜びよりもプレッシャーの方が大きいのではないでしょうか。身体的な問題である性的指向とは違い、社会制度によって生じている宿命ではありますが、それでも当人の意志によって拒否できるようなものではないという点は共通しています。「ローマの休日」のように、王家の人間としての制限から自由になりたいという願いを題材にした作品は過去にも存在します。一方で、王位が欲しくてたまらない存在としてハンス王子というキャラクターが登場するのは、キャラクターの対比としてとても面白い点です。
7094

長女であること
 姉のエルサと妹のアナの対比もこの作品の重要な要素です。しっかりものの姉とおてんばな妹という設定は、ステレオタイプと言えるかもしれません。それでもそういった兄弟姉妹の関係性に身に覚えのある人も多くいるのではないでしょうか。周囲の人は無意識のうちに長男や長女にその立場に相応しい振る舞いを期待してしまうものです。子供はそういう期待を感じとり、少しずつ「役割」として期待される振る舞いを身に付けていきます。そして当然のことではありますが、自分が何番目の子供として生まれてくるかなどは当人の意思で決められることではありません。あくまで一般的な傾向ではありますが、この映画では「長女はしっかり育つもの」という傾向をかなり強調して表現しています。「Do You Want To Build A Snowman」のシーンで、両親に対してさえ恭しい態度で接するエルサの姿が印象的でした。エルサに対し、妹のアナは明るく前向きな人物として描かれています。姉の戴冠式の日には久しぶりに城を開放するということにテンションは最高潮です。「少しはお姉さんの苦悩を気にかけてやれよ」とも思いますが、アナも思春期を閉ざされた城で寂しく過ごしてきたということを考えると、あのはしゃぎようも当然のことと思えます。
2014031511412271b

 

誰の人生も多層的である
 重要なのはこれらの役割をエルサという1人の人間が背負っているということです。考えてみれば、私たちは年を重ねるごとに様々な役割を背負っていくものです。こちらはNHK Eテレの人気番組「ピタゴラスイッチ」で紹介される「ぼくのおとうさん」という歌です。

ピタゴラスイッチ 「ぼくのおとうさん」 高音質

この歌で歌われているように、人は様々な役割を多層的に持つことで形成されている存在なのです。その中には自ら選び取ったものもあれば、自分では変えることのできないものもあります。例えば、家業を継ぐことを期待されている人や、優秀な親に期待をかけられプレッシャーを感じている人もいるでしょう。また、長女、長男であることで我慢することを求められた経験を持つ人も少なくないでしょう。どんな人も大小様々な役割を期待されながら生きています。そして、変えることのできない役割との向き合い方に葛藤するエルサの姿に、多くの人は共感を覚えるのです。
 それにしても、エルサの抱えている役割の組み合わせは何とも過酷なものです。王位は初めに生まれた子供に継承させるものであり、適性や当人の希望より優先されます。また、王位を継ぐとなれば、当然さらなる世継ぎを産み育てることも期待されます。エルサが同性愛者だとすれば、いずれその問題とも向き合わなければならなくなるのです。
Tumblr_mx5xtvxmkp1qhiczbo1_500

 

「Let It Go」 失敗から開ける道
 エルサはなんとか無事に戴冠式を乗り越えますが、舞踏会で突然婚約をしたと告げるアナと口論になり、感情を抑えられず魔法を暴発させてしまいます。ついに魔法の存在が人々に知られてしまうのです。危険人物とみなされたエルサは王国から逃げ出し、ノースマウンテンへとたどり着きます。そして、この映画の大きな見せ場であるエルサが「Let It Go」を歌いながら氷の城を建て、独りで生きていくことを決意するシーンを迎えるのです。魔法の存在を知られてしまったのは、エルサにとって人生を揺るがす大きな失敗でした。しかし、その失敗があったからこそ、エルサは自分の生き方を自分の意志で選び取ることができたのです。失敗を前に進むための契機にするという姿勢は、主題歌のタイトルが「Let It Go」であることにも表れています。歌詞も日本語では「もう悩むのはやめよう。ありのまま生きよう」と非常に前向きな印象を受ける訳になっていますが、原語では「知られてはいけない秘密を知られてしまった。でもそれも仕方がない」という、ある種の「諦め」のような印象を受ける表現になっています。「Let It Go」という言葉だけを見ても「自分の生き方をどうこうしよう」という意味はなく、「状況の流れに任せよう」「放っておこう」という意味の表現です。これは古典的なディズニー映画の、例えば「ヘラクレス」のように諦めずに進み続けることを主題とする作品のムードとは大きく異なるものです。アメリカンドリームという言葉に象徴されるような上昇志向が支持されてきたアメリカ社会において、ある意味仏教的な「諦め」をテーマとした映画がこれだけ大きな支持を得たという現象からは、アメリカ社会における人生観の変化を窺い知ることができます。
 そして、同じ曲の中に「Let It Go(放っておこう)」という諦めと「Here I’ll stay(私はここで生きよう)」という決意が同居しているという点も非常に大きな特徴です。自分の意志ではどうにもならないものとの向き合い方を決め、自分の生き方を主体的に選び取るきっかけとなったのが自分の意に反して起きてしまった失敗だったという展開は、まさに「諦め=明らめ」という仏教的な考えを象徴しています。自分の意志ではどうにもならないものは何なのか、それらとどう向き合っていくのかを明らかにすることで、次に進むべき道が見えてくるのです。そこには、努力によって困難を克服し思い通りの生き方を実現しようという人生観とはまた異なる豊かさがあるのだと思います。
20140316_745945

 

誰にとっての「良い子」?
 王国から逃げ出すまでのエルサの人物像を一言で表すなら、「良い子」ほどぴったりくる表現はないでしょう。「Be the good girl you always have to be(いつも良い子でいなくちゃ)」というフレーズは主題歌の「Let It Go」だけでなく、戴冠式を控えた朝に流れる挿入歌「For The First Time In Forever」にも登場します。「良い子」という評価は大人が子供に向けるものです。子供は仲の良い友達や人気者の同級生を「良い子」とは呼びません。周囲の大人の期待に応えるのが「良い子」です。エルサの両親は魔法を隠すことを望み、国民は立派な女王としての振る舞いをエルサに期待しました。エルサは期待に応えようと努力していましたが、それは自分が望んだことではありませんでした。「Don't let them in」以降の歌詞が命令文の連続であったり、「Be the good girl you always have to be」というフレーズの関係代名詞の主語が「you」であることからも、「良い子」であることは他者から求められていたことであり、エルサはその期待を内面化して自分に言い聞かせてきたのだとわかります。
 もし舞踏会での事件が起こらず魔法の存在が人々に知られなかったとしても、エルサは即位後も魔法の存在を隠し続け、人々の期待に応え続けたでしょう。この点が、この映画を単に「同性愛者に勇気を与える物語だ」と評価することがもったいないと感じるところです。エルサは人々に魔法のことをわかってもらおうと主体的に考えていたわけではありませんし、カミングアウトしようとも考えていませんでした。そして「Let It Go」の歌詞に「Turn away and slam the door(顔を背けて扉を閉めよう)」とあるように、自ら再び閉じこもる生き方を選びました。もしこの映画が同性愛だけを主題としたものだったら、自分の城に閉じこもって独りで生きることを決意したシーンでエルサが晴れやかに変身することの説明がつきません。このシーンの主題は「周囲の期待からの精神的な自立」にあるのでしょう。「親からの自立」は英米の児童文学ではよくテーマとして取り上げられます。『真夜中のパーティー』『クローディアの秘密』『弟の戦争』などの作品で描かれる、偶発的にしろ意識的にしろ周囲の大人の期待から逸脱し精神的に自立していく子供たちの姿と自分の生き方を自分で決めたエルサの姿が重なります。閉じこもって独りで過ごすという点ではそれまでと同じでも、自分で建てた城に自分で作った服を着て自分の意志で閉じこもるということには大きな意味があるのです。表面的には「逃げる」「自分の世界に閉じこもる」と他者の目には映るかもしれませんが、初めて自分の意志を持って一歩踏み出したことそのものに意味があるのです。また、これはエルサが21才という人生の序盤での出来事ですから、ここがゴールというわけではありません。「Let It Go」の中でエルサが女王としての役割の象徴であるティアラを放り投げ、きちんと整えた髪をほどくシーンは鳥肌が立つほどカッコいいのですが、それはエルサが周囲の期待を振り払って自分の生きたいように生きることを決意した瞬間だからなのです。
Bde78bdbd25d70fe99d512172b1f8c88_2

 

誰もが完璧じゃない それでいいのさ!
 これまではエルサにばかり焦点を当ててきましたが、他のキャラクターのことも考えてみましょう。もう1人の主人公アナは明るく前向きな人物として描かれています。その反面、ハンス王子と会ったその日に婚約してしまう破天荒ぶりを見せたり、クリストフに強引に道案内させたり、氷の城を見て感動するクリストフに「好きなだけ感動して」と突き放したりと、結構はちゃめちゃな面も持ち合わせています。エルサを山に探しに行こうとする動機も、エルサの安否を気遣うというより、国の混乱を収めようとする正義感から来ているようでした。クリストフは勇敢で優しいのだけれど、人付き合いが苦手な一面もあるキャラクターです。あといつも少し臭いらしいです。そういう負の側面が垣間見られる度、私は「人間味があっていいな」と思いました。いいところもダメなところも1人の中に複雑に混在させているのが人間という存在です。
 心に魔法を受けてしまったアナを助けるために、クリストフはトロールの住処にアナを連れて行きます。すると、トロールたちは孤独に生きているクリストフを気遣ってか、2人を結婚させようとします。そこで歌われるのが「Fixer Upper」という歌です。初めはアナに対し「クリストフは完璧じゃないけど、良い男だよ」と結婚を勧めるのですが、後半には「Everyone’s a bit of a fixer-upper(みんな手直しが少しは必要だ)」つまり「完璧な人なんていない」というメッセージになっているのです。「完璧じゃなくていいというメッセージはアナとクリストフではなくエルサに歌ってやるべきだ」というレビューも見かけました。しかし、エルサは「Let It Go」の中で「That perfect girl is gone(あの完璧な女の子は何処かへ行ってしまった)」と歌い、「完璧じゃなくていい」という答えには自力でたどり着いているのです。エルサの抱えていた問題はとても大きなものだったので、「それとどう向き合うべきか」という問いに至るプロセスもある意味わかりやすいのですが、問題は誰しも抱えているものです。妹には妹の苦悩があり、一人っ子には一人っ子の問題があるのです。観客である私たちも、誰しもが何らかの役割を期待され、大小様々な問題を抱えて生きています。エルサが「Let It Go」を歌うことで「良い子」から脱却する手本を示した後で、「Fixer Upper」によって「次はあなたたちの番ですよ」と脚本家から背中を押されているような印象を受けました。「Let It Go」のインパクトがあまりに大きくて「Fixer Upper」はあまり注目されていませんが、エルサが抱えている恐怖や不安に多くの人が共感するのは、この曲が発するメッセージの役割が大きいのです。
Frozenscreencapsfrozen3603592012795

 

受ける愛から与える愛へ
 トロールはアナが心に受けた魔法を解くには「真実の愛」が必要だと言いました。そこで、クリストフはアナをハンス王子の元へ届けようと奔走します。そこで私は「ここで古典的なディズニー映画っぽい展開に?」と思いましたが、その予想は見事に裏切られました。アナがエルサを身を挺して守ることでアナにかかった魔法が解けるという展開を、いったい誰が予想できたでしょう。しかしこの展開こそがこの映画の評価を大きく高めていることは間違いありません。自己犠牲という表現は少し硬いですが、「真実の愛」が「与えるもの」と定義され、愛を与えた側が救われるという展開は、これまでのディズニー映画には見られなかったものではないでしょうか。また、愛と言ってもいわゆる男女の愛ではない愛もいろいろあるんだというメッセージも、時代を反映していると言えるでしょう。「王子様とキスをしなさい」とは誰も言っていないのです。
Annas_fate

 

後日談が気になる
 アナの愛を受け、エルサは魔法を制御できるようになります。これまでエルサを悩ませてきた魔法は、制御はできるようになっても、消えてなくなったりはしないのです。ただ、危険なものではないと人々に受け入れられます。これも魔法の力=同性愛の暗示だと考えられるのですが、その後エルサはどんな人生を歩み、アレンデール王国はどうなっていくのでしょう。一度国を捨てて独りで生きることを決意したエルサは女王として即位し続けるのでしょうか。世継ぎなどの問題はどうなるのでしょうか。それはアナとクリストフに任せようという解決策もあるのかもしれませんが、実際のところどうなるのでしょう。ストーリーとしては一応大団円を迎えるのですが、解決できない問題も残しつつのエンディングでした。それは「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」という大雑把な締めくくりに比べればだいぶ良い終わり方だと個人的には思います。
Frozen_02

 

 さて、物語の進行に沿ってレビューを書いてきました。「自己犠牲の精神が美しい」「真実の愛は素晴らしい」「同性愛者に勇気を与えた」どれも的を射た感想なのですが、この映画の素晴らしさはそれらの魅力が1つのストーリーに調和して盛り込まれていることです。そして私が特に強調したいのは、アメリカを拠点とするディズニーの作品で「努力で変えられないものといかに向き合って生きるか」というテーマを設定し、「それは特別な問題を抱えた人だけの問題ではなく、みなさん全員が向き合うべき問いですよ」というメッセージを発したということのインパクトの大きさです。いくら社会が自由になったとは言っても、例えば生まれた国、生まれた家の経済状況、人種、性別、容姿など、自分の意志で自由に変えられないものは決してなくならず、誰もがそれらと向き合いながら生きているのです。そして、そのようなメッセージ性を持つ映画が世界中でこれほどの大ヒットを記録したという事実も、変えられるものと変えられないものとを見極め、自分の人生と真剣に向き合うことの大切さを多くの人が認識していることの現れだと肯定的に受け止めたいと思います。
Gallery_05_2


追記 5/6
 すんばらしいレビューを見つけました。私も気になっている「その後」についてとても深い考察をしています。ディズニーのプリンセス・ストーリーの歴史に触れながら、「アナと雪の女王」の「その後」を予想しています。やはりこういった作品は時代を写す鏡のようです。いや~、こんなレビューが書けるようになりたい。
ポストモダンな『アナと雪の女王』の「その後」を予想してみた。

2014年2月12日 (水)

需要が枯渇した市場の中で消費することの意味 あなたの欲しいものは何ですか?

 前回の記事では、需要が枯渇することによって個人が頑張って働くことの意味がどのように変わるのかを考えてみました。今回は、技術の発達によって必要なものが安価に手に入るようになっていく過程で、需要の質がどのように変化していったのかを考えてみたいと思います。

 この記事を書くきっかけとなった1冊の本との出会いがありました。それがこちら。

中村うさぎ著
欲望の仕掛け人

自らを「資本主義の奴隷」「優秀な消費者(いいカモ、という意味で)」と称する作家の中村うさぎ氏が、様々な業界のビジネスパーソンたちにインタビューを仕掛けたものをまとめた1冊です。インタビューの対象がバラエティーに富んでいて、とても面白い著書でした。10年近く前に出版されたものですが、ここ最近の関心事が「需要が枯渇していく社会のなかでどう働いて生きていけばいいだろう」という問いだった私に見事にマッチするインタビューがありました。それがあの有名オシャレ雑貨店Francfrancを展開する株式会社バルスの代表取締役、髙島郁夫氏のインタビューです。早速該当の箇所を引用してみましょう。

中村 結局、一人ひとりの居場所っていうものがテーマになっていくわけですよね。
髙島 うん。それと、時間。同じお茶を飲むのでも、お茶を飲んでいるこの時間がいつもより豊かに感じる、っていうことじゃないかな。そういうものしか売れないような気がしますね。
 今のお客さんに何が欲しいですかって尋ねたとして、「リンゴが欲しいかな」って言われたからといって、リンゴを渡しても、「いらない」と言われるんですよ。
中村 どうしてですか?
髙島 欲しかったのはリンゴじゃないんですよ。本当はアップルパイかもしれないし、リンゴジュースかもしれない。
中村 じゃ、客がその「リンゴ」にどんな意味を込めたかということを読み取らないといけないわけですね。
髙島 そうそう、その先にあるものをね。頃合なんですよ。
中村 彼女の言うところのリンゴらしさというものは何か、ということなんですね。
髙島 そうですそうです。
中村 それは付加価値だったり、プラスアルファだったりするんですよね。つまり彼女が思うリンゴの中で一番オシャレだったり、気が利いていたり、思いもよらなかったりするようなものがつくと、「そう、これよ、よくわかったわね。それを考えていたのよ」ってなる。
髙島 そう、「欲しかったのは、これなのよ」って。
中村 それが欲しかったわけじゃないんだけども、提案されると、それのような気がしちゃうというわけか。ふんふん、なるほど。
髙島 それが今の商売で一番大事なところかなと思うんです。
中村 そうそう、フランフランにセット商品はないですよね。カップでも全部ニュアンスが違うとか、柄が違ったり。
髙島 あんまりお仕着せしたくないんですね。「どうだ、このセットを買え」みたいになるのは、勘弁してよという。「よかったら買って」ぐらいなスタンスなんですよ。
中村 なるほどね。同じフランフランに行く人でも、部屋の状態はかなり違う感じがしますよね。
髙島 違いますよ。ただ、家の中はひどいと思います、みんな。
中村 そうなのかなあ。みんな可愛い部屋に住んでいるのかと思ってた。
髙島 いや、物を買ううえで、「この物を買う自分って素敵でしょう」になるんですよ。
中村 家に帰っちゃたら、それを維持できないんですか?
髙島 まあ、物を置いたところだけは素敵かもしれないけど、こっち見たら洗濯物はいっぱいあるし。生活って、そういう感じですよね。でも、フランフランで何か買えば素敵な自分の部屋になるんじゃないかな、というところで買っていただいているんでしょうね。
中村 わかった。じゃあ、フランフランは「素敵な自分」を売っているわけですね。
髙島 そうそう。モノじゃないんですよ。その人が、フランフランに行くこととか、そこで時間を過ごすこととか、そこで買ったものと一緒に部屋で過ごすことが、素敵なんだということだと思います。
中村 それでプライベート感が出てくるわけですね。
髙島 わかってあげなきゃいけないんです。お客さんは気持ちよく騙されたいんですよ。
中村 ホストでしたね、今(笑)。
髙島 フェイクなんですよ、商売というのは。特に女性向けの商売はやっぱりホスト的な部分が必要です。そうじゃなかったら買いませんって。
中村 そうですね。私も結局、シャネルマークが象徴する何物かを買っているわけで、バッグが問題なわけじゃなくて、買った瞬間の自分なんですよね。だから、そうやっていい夢を見させてあげて。
髙島 これからの小売は、付加価値がついてないと伸びていかないような気がしますね。だから数字とか式とかで語れるものじゃなくて、感覚的にマーケティングできることが大事。
中村 昔は、生活に必要なものが欲しかった時代ってありますよね。
髙島 高度成長期はね。ものがないわけですから。
中村 冷蔵庫が欲しいとか、カラーテレビが欲しいとか。あれはほんとに生活必需品だったけど、もうすべてが満たされて、生活必需品なんてものは当たり前になってしまったら、人が最後に欲しがるのは何かというと、結局は自分自身という答えになるわけですね。
髙島 自己実現したいんですね、最後は。

社長、そこまでぶっちゃけちゃっていいんですか!?って感じですね。以前「マーケティングは押し売りのやり方を高度化したものだ」というような趣旨の記事を書きましたが、それを小売業でどのように実践しているのかを具体的に示す非常に良質な資料です。

 特に「リンゴ」のくだりは示唆に富んでいます。「リンゴが欲しい」と言われたからといって、リンゴをそのまま渡しても「いらない」という。これはなにもお客さんが天邪鬼というわけではないようです。もしかすると、お客さん自身、自分が何を欲しがっているのかはっきりとは分かっていないのかもしれません。ここで1つ、あるキャッチコピーを思い出しました。1988年に西武百貨店の広告コピーとして糸井重里氏が発表したものです。それは

「ほしいものが、ほしいわ」

消費の中心が「必要なもの」から「欲しいもの」に移り変わっていく時代の消費者の心理をこれほど如実に表現するとは、見事としか言い様がありません。インタビューの終盤でも語られているように、「必要なもの」はわかりやすいものです。喉が乾けば飲み物を、寒さをしのぎたければ暖かい衣服や暖房器具を私たちは迷わず買うでしょう。しかし、「欲しいもの」はそうはいかないようです。マーケティングについて学んでいると「ニーズとウォンツをはっきり区別しなくてはならない」と指摘されることがあります。ニーズとは、消費者の購買行動の原動力となる欲求や欠乏感のことであり、ウォンツとは欲求を満たす具体的な手段を求める感情です。「喉が渇いたから何か飲みたい」という欲求がニーズであり、「お茶が飲みたい」「スポーツドリンクが飲みたい」というのがウォンツです。参考:ニーズ。生活必需品が容易に揃うようになると、ニーズは複雑化してきます。「オシャレに生活したい」「面白いことがしたい」という欲求をぼんやりとは抱えているのですが、それを満たすために具体的にどんな財やサービスを購入すればいいのか、消費者自身にもわからないのです。そうして「ほしいものが、ほしいわ」という心理状態に陥るのですが、正確には「ほしいものをはっきりさせたいわ」といったところでしょうか。

 そもそも、Francfrancのようなオシャレ雑貨の店に足を運ぶとき、「○○を買いに行こう」と明確な目的ではなく、「何かオシャレなものが見つかるかも」という期待が動機になっていることも多いでしょう。お店では、「あなたの欲しいものはこれではありませんか?」とお客さんのウォンツを先回りして商品が揃えられています。そこで「そうそう、これが欲しかったの」と、先回りがお客さんのハートを射止めればめでたく購入ということになります。しかし、それは本当にめでたいことなのかという疑念も残ります。それは、そこで得られる満足感が一過性のものである可能性が高いからです。お店で見つけた「欲しいもの」はあくまで他人に見つけてもらったものであり、お客さん自身が自分の複雑な欲求と向き合い、吟味して見つけたものではないのです。例えば、1回使っただけの化粧品、読まずに積まれた本、クローゼットの場所をとるだけの服など、「なんでこんなの買ったんだっけ?」という買い物の経験が誰しもあるのではないでしょうか。買った瞬間は確かに納得していたはずなのに、月日が経ち、冷静になると本当は「欲しいもの」ではなかったと気づくのです。これが「気持ちよく騙された」ということでしょう。技術の発達により便利なものが多くの人の手に行き渡るようになりました。それを「豊か」だというのかもしれませんが、その先にあるものが一時的な満足を繰り返すことが中心の人生だとしたら、それは果たして幸せなことだと言えるでしょうか

 それならそれでいいというのも1つの選択でしょう。しかし、それでは嫌だという人はどうすればいいのでしょうか。その答えは、「欲しいもの」を見つける面倒な作業を他人に任せず、自分で行うことです。当たり前のことですが、同じ商品でもそれを買うことで得られる満足感は人によって違います。当たり前にもかかわらず、髙島社長が言うように商売の中心がお客さんのニーズを先回りして提案することになるほど、「欲しいもの」を見つけることを小売店に任せる消費者は多いのです。それは、自分の「欲しいもの」を見つけることがそれほど面倒で難しいことなのでしょう。欲求というのはそもそも合理的ではなく、容易に言語化して自覚的に扱えるようなものではないのかもしれません。それでも、複雑怪奇な自分の欲求を分析し、自分の心のそこから欲しいと思うものを見つけ、それを手に入れるために必要な努力をすることができたら、それほど幸せなことはないのかもしれません。「欲しいもの」を見つけることは、突き詰めればどんな人生を生きたいのかを自分に問うことにほかなりません。それこそが、この「豊か」な社会で幸福に生きるために必要な営みなのではないでしょうか。

 『欲望の仕掛け人』のインタビュー記事では、中村うさぎ氏のセリフは可愛いうさぎのアイコンで示してあるのですが、うちのパソコンにはうさぎの記号は出ませんでした。髙島社長と字数を合わせるために苗字での表記にしましたが…

2014年1月 5日 (日)

需要が枯渇した市場の中で頑張ることの意味 ニートは現代の衆生を救う修行僧か?

 前回の記事では、現代の日本国内の市場は需要が不足しており、資本主義経済の前提条件が揺らいでいるという点を指摘しました。今回は、需要が枯渇することによって個人が頑張って働くことの意味がどのように変わるのかということを考えてみたいと思います。

 そのためには、資本主義経済の仕組みを知らなくてはなりません。私の付け焼刃の知識でどこまで説得力のある考察ができるかわかりませんが、何事も挑戦が大事です。私が思う資本主義の最大の特徴は、人間の持つ欲求を健全な社会の形成にうまくつなげている点にあります。「たくさんお金を稼いでいい暮らしがしたい、有能な人間として認められたいという欲を満たしたいなら、それだけの価値のある仕事をしなさい」というルールが資本主義の根底にあるのです。
 これはじつにうまい仕組みです。人間には誰しも、程度の差はあれ、「他の人よりいい暮らしがしたい」「他の人より優秀だと認められたい」という欲求があります。仏教的には煩悩と呼ぶべきものでしょうか。そういういかんともしがたい欲求が、社会の必要を満たすための活動に結びつくように設計された仕組みが資本主義経済です。もともとの動機は「他の人より抜きん出たい」というどうしようもない欲求だったとしても、それが社会を形成する大義に結びついているのですから、働く側としてもじつに気分がいいものです。

 しかし、これはあくまで資本主義経済の前提である需要が十分に存在するという条件があっての話です。需要がなくなれば、社会の必要を満たし健全な社会を形成するという大義はその分薄れます。そして、「他人より抜きん出たい」という卑しい欲求が占める割合が大きくなります。私が「もともとビジネスってソーシャルなものなんじゃないか? 職業に貴賤はあるか」という記事で職業の貴賎はそのビジネスが社会の必要を満たすものかどうかで決まると主張したのはそういう理由からです。就職面接で志望動機を答える際の常套句として「御社の○○という事業を通して社会に貢献したい」という回答が挙げられますが、本当にその事業が人々の必要を満たし、社会の形成に重要な役割を果たしているかどうかはよく考えてみる必要がありそうです。

 さて、需要が枯渇している社会では個人が頑張って働くことの意味が様々な方面で変化します。「労働時間規制は必要だ 個人の努力にも規制は必要か?」という記事で単純化したモデルを用いて説明しましたが、個人が努力によって稼ぎを増やすことは、飽和した市場においては他者の取り分を減らさずには実現しません。社会全体の富の総量は変わらず、取り分の配分が変わるだけです。つまり「他の人より抜きん出たい」というどうしようもない欲求を満たす以上の意味を持たなくなります。たまに「たくさん稼いでいる人はその分たくさん税金を収めているのだから偉い」という趣旨の意見を耳にすることがありますが、結局他の誰かが収めるはずだった税金がその人に移っただけなので、税金の総額は増えません。「たくさん稼いでいるから偉いわけではない」というのは、もはや綺麗事ではなく、数字に現れる客観的な事実と言って差し支えないでしょう。たくさん稼ぐことが「偉い」という評価につながるのは、稼ぐことが社会の必要を満たすことにつながる構造が前提条件として必要なのです

 「労働時間規制は必要だ 個人の努力にも規制は必要か?」という記事でも説明したように、需要が枯渇した市場で頑張って働くことは、労力あたりの利益を引き下げる作用をもたらします。需要の枯渇は同じ水準の給料を維持するために必要な労力を引き上げます。すると、最低賃金を超える付加価値をもたらす労働を提供することの難しさが増し、結果としてニートが増えるというのは前回の記事で説明した通りです。もしみんながみんな、自分だけはレールから外れまいと、少しでも自分の取り分を増やそうと頑張ってしまえば、働いてお金を稼ぐことの難しさは無尽蔵に上がり続けます。そんな中、バイタリティの低い者から「こんな大変な条件では働けない」とドロップアウトしていきます。ある人は、そんな人たちを努力が足りない、根性がないと責め立てます。しかし、需要が枯渇しているという環境の変化を考えれば、働くことの大変さについていけない人が現れるのは当然のことなのです。それどころか、そういう人たちの存在は、働くことの大変さを可視化し、さらに働くことのハードルを上げる過当競争に歯止めをかける役割を果たしているのです。それはまるで、経済的な成功によっていい暮らしや他人からの評価を得たいという世俗的な煩悩から解き放たれた修行僧のようではありませんか。もちろん、ニートと呼ばれる人の多くは止むにやまれずそうなったというのが実態であり、主体的にその道を選んだ人などほとんどいないでしょう。ただ、日本に仏教が広まっていく時代においても、止むにやまれぬ事情から出家して仏門に入ったという人もいるという説もあります。歴史に詳しい方がこの記事を読んでくれたら、そのあたりの解説をお願いしたいものです。

 修行僧のくだりは半分冗談であるとして、この記事を通して言いたかったことは「働いてこそ立派な社会人」のような考え方の根拠がなくなりつつあるぞということです。立派な社会人とやらの肩書きを得るための競争が全く不毛なものに姿を変えつつあります。社会保障の負担を増やすお荷物のような存在として扱われるニートですが、職にあぶれるということはそもそも構造的に働く必要がない(働くことによって満たされる需要がない)ということになります。それがお荷物になってしまうような制度設計の問題であり、個人を責める前に「過労死するほど仕事があり、自殺するほど仕事がない」という状況をなんとかするべきでしょう。正月休みが終わり、明日から仕事始めという方も多くいるでしょう。みなさんはこの飽和した市場の中で何を目指して働きますか?

2013年12月28日 (土)

なぜブラック企業は生まれるのか2 産業構造は具体的にどう変わったのか

  ブラック企業や働き過ぎの問題をぐだぐだ考えているうちに年を越しそうなQ崎です。過労死などの問題は以前からあったにしても、ここまで社会問題として注目を集めるほど深刻に蔓延してしまったのはどうしてなのでしょう。12月に入ってから就職活動も解禁となりましたが、就活生たちは穏やかな気持ちでは新年を迎えられないのではないでしょうか。親の世代の人たちは、就活なんかしなくても誰でも企業の方から声がかかったと言いますが、そのころと今とでは何が違うのでしょうか。初めのうちは単純に法律を守らない企業への怒りが中心にありましたが、どうにも問題の根本的な解決を図るには企業が法律を破らなければやっていけないような構造をマクロな視点で見ていく過程が必要だと気がつきました。かなり前に「なぜブラック企業は生まれるのか やむなしブラック企業を救え」という記事を書きましたが、これはまさにそういう趣旨で書いたものでした。

  その記事では人材コンサルタントとして名を馳せる城繁幸氏の著書を引用し、高度成長期を終えた日本の産業構造の変化とそのなかでの企業の姿を分析しました。その箇所をここで再び引用しましょう。

かつて高度成長期には、少人数の社員(もちろん男性中 心だ)をフル回転で働かせることが、もっとも効率的な経 営とされていた。大量生産の時代だから、頭より体で覚えるほうが重要で、そうやって熟練した労働者をこき使ったほうが効率的だったのだ。日本の専売特許である「残業文化」「有休返上」といったカルチャーは、ここに根っこがある。ただし、経済が成熟すると、主導権は消費者の側に移る。大量生産ではなく、消費者の多様なニーズを汲み取ることが重要となったのだ。つまり、今度は体ではなく、頭で勝負する時代だと言える。男社会を基本とする年功序列は、既にその存在意義を半ば失っているのだ。

高度成長期を経ることで日本経済に生じた最も重要な変化は「経済が成熟した」の一言に尽きるでしょう。マーケティングに関する著書を読んでみても、マーケティングの高度化が求められてきた背景として「市場が成熟した」「消費者のニーズが多様化した」と、表現は様々ですが大体同じことを要因として挙げています。

  では、「経済が成熟する」とは具体的にどういうことを指し、どのような影響を私たちの生活におよぼすのでしょう。わかりやすくまとめている記事がありましたので、引用してみましょう。

連載「暮らしから見る身近な“経済”」第1回 「成熟期」を迎えた日本経済
成熟の意味
経済の成熟による具体的な変化としては、生産力の拡充にともなう経済的な「豊かさ」の実現と、経済成長のペースの鈍化の二つが軸になります。経済が成熟するプロセスでは、さまざまな産業が発展することで、商品やサービスの生産が増加して経済が成長し、人々の生活が豊かになるという望ましい変化が生じます。ですが、そうした変化が進むにつれて、経済が成長するペースは次第に鈍化していきます。人が大人になると、背が伸びなくなるのと同じです。かつて、人々が貧しかった時代には、衣・食・住をはじめとするさまざまな分野で、「これがないと生きていけない」というような切実なニーズや、そこまでではないにしても、「ぜひ欲しい」とか「すごく欲しい」といった明確な欲求の対象が存在していました。そういうニーズや欲求に対応する商品は、作れば売れる状況だったため、経済全体としても、ハイペースで成長していくことが可能でした。そして、経済成長の結果、人々は豊かになり、欲しかったものを次々と獲得し、欲求を満たしていったのです。ですが、切実な欲求が満たされてしまったことで、それに追加して何かを手に入れようという気持ちは、次第に切実さを失っていきました。「あった方がいい」とか「ちょっと欲しいかも」といった具合です。そのため、企業の側では、多くの人々が欲しがる新しい商品やサービスを開発しようという努力を続けているのですが、それがなかなか実を結ばなくなってきています。その結果、経済全体の成長ペースが低下していくわけです。経済の成熟によって、人々の暮らしは豊かになりましたが、成長ペースが鈍化したことで、企業にとっては厳しい状況が生じてきているのです。言ってみれば、「暮らしは豊かになったけれども、仕事はたいへん」という構図です。

「暮らしは豊かになったけれども、仕事はたいへん」まさにこの一言に尽きるでしょう。経済の成熟がもたらす影響をまとめた表現としてこれほど的確なものはないでしょう。しかし、ここで疑問が生まれます。便利なものが出回るようになるのだから生活が豊かになるのはわかります。なぜ「仕事はたいへん」になるのでしょうか。「切実な欲求が満たされてしまったことで、それに追加して何かを手に入れよう という気持ちは、次第に切実さを失っていきました。」という一節にそのヒントがあるように感じます。

 もう1つ経済の成熟について、面白いYahoo知恵袋の回答がありましたので、ベストアンサーをお読みください。
http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1154726001
さて、市場が成熟すれば消費者のニーズは多様化し、企業は生産する商品やサービスのバリエーションを増やさなければなりません。確かにそれは「仕事はたいへん」になる要素の1つですが、あくまで副次的なものです。本質は、知恵袋の回答で指摘されているとおり「市場飽和」にあります。「需要不足」と言ってもいいでしょう。便利なものが安価で手に入るようになれば、わざわざお金を払ってでも手に入れたいと思える商品やサービスの質はどんどん上がります。すると、同じ利益を上げるために企業が製品開発にかける労力は増えていきます。それは労働者が同じ水準の給与を稼ぐのに必要な労力も上がるということを意味します。これが、経済の成熟が「仕事はたいへん」に繋がる構図です。「成熟」「多様化」という表現は非常に前向きな印象を与えますが、「市場飽和」「需要不足」といった方が実態をより正確に表しているといえるでしょう。

 「やむなしブラック企業」が生まれてしまう背景を市場飽和という観点から考えてみました。市場飽和がもたらす影響は企業のブラック化から派生してどのような結果をもたらすのか、さらに考えてみましょう。
・非婚化、少子化の進行
  一家を養っていくのに十分な給与を稼ぐのに必要な労力の水準が上がっています。自身の生活を支えるのがやっとな労働者が増えます。
・ニートが増える
  労働者が最低賃金以上の付加価値を提供するために必要な労力が上がっています。どこにも働く場がないという人が増えるのも当然です。
これらの問題に対して「最近の若いものは…」と嘆く人の声もよく耳にします。しかし、同じ金額を稼ぐために必要な労力が今と高度成長期とではまるで違うという前提を無視して特定の世代や個人の資質に原因を求めるのは無理があるというものです。

  この国は勤勉な国民性のもと、資本主義経済を一気に推し進め、経済大国へと発展しました。頑張って頑張って推し進めた結果、資本主義経済を成り立たせるために絶対的に必要な要素である需要を枯渇させてしまいました。なんという皮肉でしょうか。これまでの前提が崩れつつあるなかで、私たちはいったいこの国の経済の在り方をどのような方向に持っていくべきなのでしょう。それは次回以降の宿題にしたいと思います。

2013年12月 3日 (火)

マーケティングに学ぶオクテ男子の恋愛成功術

 以前「もともとビジネスってソーシャルなものなんじゃないか? 職業に貴賤はあるか」という記事を書きました。過度に成熟し需要が枯渇している現在の経済市場では、本来必要ないものを様々なマーケティングの技法を駆使して欲しがらせて売ることが経済活動の中心にあり、資源の効率的な分配という本来の経済活動の意義からかけ離れてしまっているという趣旨の記事でした。この記事を通じて私が伝えたかったのは、マーケティングなどの売り方の技法ではなく、真に必要とされる商品やサービスを作り出すことに力を注ぐべきだということです。よく「マーケティングとは押し売りの反対に位置する活動だ」という説明を耳にしますが、必要とされていないものを売る手段であるという点では同じでものあり、マーケティングは押し売りのやり方を高度化したものだと言っても間違いではないでしょう。経済活動の肝は必要と去れているものを提供し、その対価を得ることにあるはずです。

 話は変わって、アルテイシアという人物をご存じでしょうか。キャリアウーマンである自身とオタク格闘家である現在の夫との馴れ初めを書いたエッセイ『59番目のプロポーズ』で作家デビュー、現在では恋愛Hカウンセラーという謎の肩書を持つ女性、それがアルテイシア氏です。学生時代にデビュー作を読んで以来、私は彼女の大ファンになりました。アルテイシア氏は当時オクテ男子でてんでモテなかった私に大きな希望を与えてくれた人物です。現在では、ニコ動のブロマガで恋愛に関するコラムを書いているようで、先日こんな記事を見つけました。

恋愛本のモテテクに騙されるな!<オクテ 男子の成功のヒケツ>
彼女いない歴=年齢の男子が彼女を作るためには?<恋愛本に騙されない>

これらの記事の要点をまとめると、奥手な男性が恋愛本のテクニックを実践しても逆効果だから、余計なことをしないで基本を大切にしようということです。昔から恋愛を成功に導くためのテクニックの情報は巷に溢れており、男性の間ではそこそこ需要があるようなのですが、女性から言わせると「そんなことされても全然嬉しくない」というテクも多いのだとか。人間手っ取り早く始められるものにひかれてしまいがちですので、効果が本当にあるのか疑わしいものでも手軽にできるものはついやってしまうことがありますね。

 では、この手の恋愛本の著者は皆嘘つきなのかというと、そうではなさそうです。彼らの成功の決め手をアルテイシア氏はこのように分析しています。

ナンパ師がもっているのは奥義ではなく、素質です。
ナンパを心から楽しめる素質。そうじゃなきゃ、十万人をナンパなんてクソ面倒なことできませんよね?
彼らは女をナンパして口説くのが、腹の底から楽しい。じつはセックスよりもそっちが目的だったりする。 だから、女を落とせるのです。人は楽しそうな人といると、自分も楽しくなれる気がするから。
<感情は相手にうつる。あなたが落ちつかないと相手も落ちつかないし、あなたが楽しいと相手も楽しくなる>
<あなたが余裕をもって楽しむことで、相手もくつろいで楽しめる。「この人といると楽しいな」と感じると、女性は好意を抱く>

これが恋愛の基本中の基本。 だからブサメンで低収入のナンパ師でも、女を落とせる。

つまり、ナンパ師のキャラクター、人物像、人となりと女性へのアプローチの手法が一致しているということなのです。このことからは、奥手な男性が恋愛本のテクニックを真似してもうまくいかないのは人となりとアプローチの手法が一致していないからだという仮説が導き出せます。

 ここで話をマーケティングに戻します。 マーケティングの実践段階では、個々のマーケティング政策をバランスと整合性が取れるように組み合わせます。それを「マーケティング・ミックス」といいます。そして、マーケティング・ミックスは4つのマーケティング戦略から構成されていると考えるのが一般的です。それは、製品(Product)、価格(Price)、流通チャネル(Place)、プロモーション (Promotion)のそれぞれの頭文字をとって「マーケティングの4P」と呼ばれています。繰り返しますが、重要なのはこれら4つの戦略の整合性がとれていることです。これを「ミックス・フィット」といいます。先程の例で言えば、女性を口説くことが大好きなナンパ師がやたら誉めたりさりげなくボディタッチをするというのは整合性のとれたアプローチですが、モテない男性がそれを真似しても整合性はとれないということです。製品の性質が違うのだから、効果的なプロモーションの手法も違って当たり前なのです。マーケティングを考えるうえでもう1つ重要なのが、マーケティング・ミックスと標的顧客の整合性です。これを「ターゲット・フィット」と言います。自分と同じように真剣に付き合いたいと考えている女性が上っ面のテクニックに引っ掛かるのかということも恋愛本を手に取る前によく考えた方がいいでしょう。

 私は冒頭でマーケティング主導の現在の経済活動に対して「マーケティングばかりに力を注ぐのではなく必要とされる商品やサービスの開発を重視するべきだ」と主張しました。商品やサービスの中身ではなくプロモーションの上手いものだけが競争で有利になれば、本当に必要とされる財やサービスが市場に行き渡らなくなるという弊害が起こります。この主張をそのまま恋愛に当てはめようとは思いません。テクニックに頼る恋愛が価値の低いものだと考えるかどうかは個人の価値観に委ねるべき問題です。大切なのは、自分が望んでいる恋愛がどんなものなのかしっかり見つめ、それを実現するのに相応しい方法で努力することです。

 では、真剣に付き合いたいという人がとるべき努力の方向性はどのようなものなのでしょうか。それは、テクニックに走らず自分の人間としての魅力を高めることです。商売で例えるなら、商品が魅力的なら誇大広告など打たなくても売れるということです。もちろん、そういう魅力的な商品が存在するということを伝えるためのプロモーションや、それを必要とする人へ届けるための流通チャネルは必要になります。そのあたりの方法論はアルテイシア氏の記事にも参考になりそうな記述がありますし、現在では様々なマッチングサービスも普及しています(それが真剣に恋愛したい人同士を結ぶ機能を十分に果たしているかどうかは検証の余地がありそうですが)。商売にしろ恋愛にしろ確実にうまくいく方法なんて存在しませんが、自分のキャラクターや求めている結果に沿う努力の方法を探るというのは成功の確率を高める重要なプロセスだと言えるでしょう。それにしても、肝心なところが有料だなんて、チクショウ。④だよな!?④でいいんだよな!?

 加えて、プロモーションを受けている側の責任や影響力についても触れておく必要があるでしょう。企業は経済合理性に基づいて活動していますから、商品やサービスの質の向上よりプロモーションの工夫によって購買する消費者が多ければ、ますます経営資源を製品開発ではなくプロモーションに注ぎ込むでしょう。もしあなたが消費者として魅力的な商品が増えることを望んでいるなら、製品のイメージに左右されず、品質をよく吟味して買い物するようにしてください。もしあなたが現在アプローチを受けていて、その相手と真剣に付き合うことを望んでいるなら、表面的なアプローチに流されず相手の人間性をよく観察してみてください。(とは言え、他者からの評価を気にせず、確固たる理念や矜持を持つ企業や個人も確かに存在します。本当にカッコいいですね)

 というわけで、オクテ男子が恋愛で成功を収めるために有効な方法は、表面的なテクニックに頼るのではなく、自分自身の人間としての魅力を磨くことなのです。誰かとたがいの人となりをよく理解し合うのは時間も根気も必要なことですが、そこにかける労力をケチっては他者と深い関係を築くことはできないでしょう。そのヤキモキするプロセスを楽しむくらいの余裕を持って臨みたいものです。それでは最後に、本当に価値のある経済活動や幸せな恋愛が広まることを願って一言。

テクにはしるな!己を磨け!

追記:12/4
 製品にどういう機能を持たせるかというのはマーケティングの4Pの製品(Product)であり、広義のマーケティングの範疇に入ることです。そうなると「マーケティングは押し売りが高度化したもの」という表現は正しくないものだとなります。狭義と広義をごちゃ混ぜにマーケティングという用語を使ったために読みにくい文章になってしまいました。狭義のマーケティングは「過剰なプロモーション」と読み替えると分かりやすくなりそうです。

2013年11月24日 (日)

理不尽に直面した時の正しい対処法はなんだろう

 世の中には様々な理不尽なことがあります。無理が通れば道理が引っ込むと言いますように、正論が通じない場面もたくさんあります。何が理不尽に当たるかということも突き詰めて考えればなかなか難しい問題ではありますが、先人たちは様々な気づきと主体的な行動で現在の民主的な社会を築いてきました。それでも、理不尽だと感じる社会問題はまだ数多く残されています。そんな問題に対して、社会を形成する個々人はどのように向き合えばいいのでしょうか。
 「社会には理不尽なことがたくさんあるのだから、若いうちに苦労を経験して免疫をつけておいたほうがいい」という意見をよく耳にします。現実に理不尽なことが存在し、一朝一夕でそれらを解消できない以上、この意見には非常にリアリティーがありますし、時には愛情を持って発せられる言葉でもあります。しかし、労働問題を発端に書き続けているこのブログで私が一貫して伝えたいのは、そもそも社会の理不尽がなくなれば理不尽に耐える練習など全く必要ないのだから、個人が理不尽に耐える能力を身につけるのではなく理不尽をなくす方向で努力をするべきだということです。

 先日、こんなツイートを目にしました。

yuka.m
「昔は強制飲み会や長時間怒号会議拘束なんて当たり前だったけど、ここ10年で本当に無くなった。若い奴が辞めちゃうからな」って先輩達が言ってたから、苦痛に耐えるのではなく逃げたり辞めたりしてきて下さった先人達の試みはちゃんと社会を変革してきた

私はこのツイートを目にしたとき、非常に強く賛同し、光の速さでお気に入り登録とリツイートをすませました。「逃げる」「辞める」といった一見するとネガティブな印象を持つ行いが「ちゃんと」したことであるというのは、一体どういう根拠があってのことなのでしょうか。

 では、ここで私たちが理不尽な事態に直面した際にとりうる選択を4つに分類してみましょう。

① 問題の解消のために主体的に行動する
最も理想的な選択肢です。問題そのものをなくすために行動するという非常に生産性のある選択です。しかし、この選択には犠牲が伴います。問題が大きく複雑なものであれば1人では対処しきれないでしょうし、また理不尽に直面した環境にい続けなければなりません。この選択肢を選べる人はかなり少数でしょう。それでも、現在の民主的な社会が形成される過程に、この選択を行った勇気ある名も無き先人たちが存在したということを忘れてはならないでしょう。

② 逃げる
件のツイートではこの選択を賞賛しています。逃げたとしても直接的にその問題を解決することにはなりませんが、少なくともそこに問題があるという認識を多くの人に気づかせることになります。その点においては下記の③④の選択肢よりはるかにマシだと言えるでしょう。

③ 耐える
問題の解決に直接的には寄与しないという点では②と同じですが、問題の存在を覆い隠してしまうという点において問題の解決にはマイナスに作用します。理不尽な問題を含んでいる前提で仕組みが固定化してしまう原因を作ります。

④ 非難する
①②の選択をした人を非難します。耐えるということに大きな価値を見出し、それ以外の選択を認めません。問題の解決に寄与する行動を抑制してしまう最悪の選択肢。自分を苦しめている理不尽を解決するために動いている人を攻撃するという倒錯した状況です。

さて、あなたはこれまで理不尽な場面に遭遇したとき、どの選択肢を選んできたでしょうか。そして、これからどんな選択肢を選んでいきますか。私の場合は②を選びました。「前略、退職を決めました」という記事にその時のことは詳しく書いてありますが、①の選択肢を選ぶ余裕は当時の私にはとてもありませんでした。しかし、様々な労働問題に対処していく中で、いずれ教育現場の労働問題にも直接的にアプローチすることを目標に、今後も邁進していきたいと思います。

追記
①や②の選択肢を選ぶには、それを許す状況があるかどうかという問題も大きく影響します。そのあたりのことにご意見などある方は、気軽にコメントを残していっていただけると嬉しいです。

«現時点で考えられるブラック企業問題の解決策の最適解は何なのか

2015年4月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

最近のトラックバック