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日記・コラム・つぶやき

2013年10月 1日 (火)

経済学講座「逆選択とブラック企業」

 今回の記事は経済学など専門外のQ崎が付け焼刃の知識で経済学のトピックを紹介するものです。今回のテーマは「逆選択」です。

 逆選択とは、売り手と買い手との間に情報の格差があると、結果として質の低い商品しか市場に残らなくなる現象のことです。どうしてそのような結果になってしまうのか、よく例として取り上げられる中古車市場をここでも例にして説明しましょう。
 中古車市場には、質の高い商品を扱う業者も質の低い商品を扱う業者も存在します。情報が十分でないために買い手が中古車の品質を判断できない場合、質の低い中古車も質の高い中古車と同じ値段でつかまされてしまうことになります。売り上げが同じ金額になってしまうと、買い取り価格や整備にかかる費用の分だけ、質の高い商品を扱う業者が経営上不利になります。すると、質の高い商品を扱う業者はその市場から撤退し、その地域には質の低い商品を扱う業者しか残らないことになります。これが逆選択です。

 これを労働市場に当てはめて考えると、ブラック企業が蔓延している日本社会の状況がとてもよくわかります。ここでは、企業を「職場環境」を提供する売り手、労働者を「職場環境」を選択する買い手と考えましょう。ブラック企業の問題で求職者を悩ませている最大の要因は、入社してみるまでその職場がブラックかどうかを判断することが非常に難しいところにあります。クリーンな職場環境か否かを判断するための情報が、求職者には届いていないのです。そのため、ブラック企業かどうかは求職者が職場を選ぶ際の基準にはなりません。ブラック企業であることが人材確保における他社との競争で不利になる要素にはならないのです。その結果、労働法規を守り従業員を大切にする企業は競争上不利になり、市場から撤退するかブラック企業に化けてしまい、市場にはブラック企業しか残らなくなってしまうのです。

 逆選択を解消するには、その原因となっている情報の非対称性をなくすことが効果的です。消費者が商品の質を適切に判断できるようになれば、質の悪いものを提供することが競争上不利になる構造ができ、適切に選択・淘汰が行われるようになります。ブラック企業にかんしては、求職者がそれぞれの企業の働きやすさを知ることができ、職場を選択する際の判断材料とすることで、労働環境の向上に寄与することができるのです。
 であれば、求職者にそういった情報を提供するサービスがあったらいいなと思いませんか!そんな発想で生まれたのがホワイトアクション事例集なのです。構想ができてから一年以上の時間が過ぎているのですが、現在のところ組織的な活動はありません。というのも、企業経営についてなんの知識も技術もない状況で動き出してもうまくいかないことが目に見えているので、目下のところは勉強に励む計画でいます。気を長くお待ちいただければと思います。

 そんな現状報告も兼ねてお送りした経済学講座でしたが、いかがでしたでしょうか。シリーズ化するほどネタはないので、おそらく今回限りの記事となります。

2013年6月25日 (火)

労働時間規制は必要だ 個人の努力にも規制は必要か?

まず、こちらの記事をお読みください。

脱社畜ブログ
業務効率化だけでは残業はなくならない

あわせて、重要なところを引用しておきましょう。

例えば、あなたの部門が、業務効率化を推し進めて今まで一日12時間かかって50生産していたものを、8時間で50生産できるようになったとしよう。素直に考えると、これで残業は無くなってみんな定時に帰れるということになりそうだけど、本当にそんなにうまくいくだろうか。仮に、この業務効率化によって削減された4時間を、さらに生産に当てると今まで1日50しか生産できなかったのが、75生産できるように変わる。そして経営者は、往々にしてこのような意思決定をしたがる。

そもそも企業というのは、基本的には業績を伸ばそうと成長を志向していくものだから、このような判断がなされるのはある意味当然だ。投資家は会社の業績がよくなって株価が上がることを期待するし、ライバル企業との競争などに常に晒されている以上、「もうこのへんで成長はやめます」という判断ができる企業はほとんどない。圧倒的な一人勝ちでもしない限り、業務効率化によって生み出された余剰時間は、さらなる業務拡大に投資されてしまう。構造的に、業務効率化が残業を当然のように減らすようにはなっていない。

まったくもってその通りです。そのため、電脳くらげさんの指摘する通り、残業を減らすためには業務効率化とは関係なく労働時間規制を設ける必要があるのです。

 さて、この記事を読んでからふと考えたことがあります。それは、労働時間規制と同じように、個人の努力にも規制を設けるべきではないかということです。「これ以上頑張ってはいけません」という制限を設けるべきではないかということです。これだけを聞くとかなりトンデモな感じになってしまいますので、その論拠を説明したいと思います。

 わかりやすくするため、労働時間規制を例に説明します。さらにわかりやすくするため、残業の割り増し賃金がなく、企業が残業を減らすインセンティブがない(長時間働かせるほど経営上有利になる)社会を想定しましょう。かつ輸出入もないものとして考えましょう。市場が高度に成熟し、市場飽和状態であるという条件もプラスしましょう。3つ目の条件は現代の日本社会とかなり近いものだと言えます。
 その国には財を生産する企業がA、B、C、Dと4社存在します。市場飽和状態においては、企業の経営努力は経済成長ではなくシェアの拡大という形で企業に利益をもたらします。ある企業が経営努力によってシェアを拡大すれば、他の企業のシェアが単純にその分減ります。A社がシェアを拡大するために、労働時間を8時間から10時間に延ばしたとしましょう。すると、他社はシェアを取り戻すために、さらに拡大するために、労働時間をさらに長くするでしょう。それを繰り返すとどうなるでしょうか。

   労働時間(時間)  シェア(%)  売上高(億円)
A社    8          40       400
B社    6          30       300
C社    4          20       200
D社    2          10       100
こうだったものが…

    労働時間(時間)  シェア(%)  売上高(億円)
A社    16          40       400
B社    12          30       300
C社    8           20       200
D社    4           10       100
こうなります。

どうでしょう。経済成長がないので、国民の可処分所得の総額は一定です。すると、労働時間の延長は、単に労働時間当たりの売上高が下がるという結果を引き起こします。働く時間は伸びても、給料には変化を生じさせようがありません。つまり、市場飽和状態では、経営努力は完全に相対的な順位を変える機能しか持たず、歯止めを掛けなければただ従業員のQOLが下がるという恐ろしい事態に陥ります。これが労働時間規制の必要性の根拠であり、市場飽和の度合いが高まれば高まるほどその必要性は増すのです。

 これは、個人の努力にもそのまま当てはまるのではないでしょうか。努力によって自分の所得を増やしたとしても、それは誰かの所得を減らすことで生じた増加分ででしかありません。そういった状況で、みんなが自分の所得を増やすために頑張れば頑張るほど、努力量当たりの所得は減少します。10の努力で500万円稼げる社会が、100の努力で500万円やっと稼げる社会に変わります。ある個人の努力は、500万円稼ぐのに必要となる努力量を引き上げます。そういった状況では、必要最低限以上の努力をすることは「悪」とさえ言えるかもしれません。恐ろしいですね。ですので、市場飽和状態の社会では、お金を稼ぐための努力はそこそこにし、限られた所得のなかでいかに幸福を最大化させるかということに知恵を注ぐ方が賢明なのです。

 ここまで読んで「努力に制限を設けてしまったら社会が衰退するじゃないか」と思った人も多くいることと思います。その通りですね。ですので、私が制限を設けるべきだと考えているのは、お金を稼ぐための努力に限ります。たとえば、スポーツや芸術、芸能、学術的な研究などの分野については、大いに努力し競争し続けるべきだと思います。

 いくら市場が飽和しているといっても、現実にはまだ需要を掘り起こす余地はありますし、海外の新興国を中心に新たな市場開拓によって経済成長を実現することは、これからの日本経済を立て直す上で必須のプロセスと言えるでしょう。しかし、かなり長いスパンで見れば、開拓した市場もいつか飽和します。この世界全体が飽和状態となり、新たに市場を開拓することが難しくなります。グローバル化と言っても、それまで国内という枠のなかだけだった相対的な競争が世界というフィールドに広がるだけで、相対的な順位を競うだけの競争であることには変わりはないのです。だからこそ、やはりお金を稼ぐための努力には制限を設けるべきなのです。

 また「努力量当たりの所得が低下するなら、割に合わないと感じて、自ずとお金によらない幸福を得ようとする人が増えていくのではないか」という意見もあるでしょう。その通りだとは思うのですが、日本社会の現状はどうでしょう。私の個人的な感覚としては、努力量当たりの所得はとっくにめちゃくちゃ低い水準に落ちていると思います。過労死のある恥ずかしい国、日本ですよ。となると「とにかく稼がなくては」という思いに囚われている状態を脱するには、何らかの外的な要因が必要となるのではないでしょうか。それが、具体的には労働時間規制という形で必要となるのでしょう。

 自分で読み返してみても若干のトンデモ感は拭えませんし、経済学などをちゃんと勉強した人から見ればツッコミどころはいろいろあるかと思いますので、遠慮なくコメントを残していただければと思います。

2013年6月14日 (金)

第8回ジレンマ×ジレンマに出演します!

 今回は事後報告ではなく宣伝です。「ジレンマ×ジレンマ」とは、大学生を中心とした若者たちが勝手に企画したネット配信の討論番組です。詳しくはUSTREAMの番組紹介欄を見てください。第8回のテーマは「学校」。みなさんも学校とは何らかの関わりをもって生きてきたわけですし、誰しも学校というものに対して一言二言あるのではないでしょうか。もし関心がありましたら、ぜひご視聴ください。

放送日時
6/15(土)open17:00 start17:30 @ギークカフェ水道橋 ¥1000(include 1drink)
USTREAM配信で中継があるので、会場に来られない方はそちらでご観覧ください。

 さて、今回一登壇者でしかない私が宣伝のような記事を書いているかというと、先日行った事前打ち合わせが非常に刺激的で、本番も素晴らしい議論が展開されるのではないかと期待に胸を躍らせているからです。そもそも、こうした専門家でない人たちによる議論に、どのような意義があるのでしょうか。ここで1つ、そのヒントになるようなエッセイを紹介します。

ほぼ日刊イトイ新聞 おとなの小論文教室。感じる・考える・伝わる!
Lesson 299  立脚点

誰かに何かを伝えたいとき、「誰が」「なぜ」「どんな想いで」伝えようとしているのかが非常に大きな意味を持ち、それは肩書や小手先のテクニックより大切なことなのです。今回のテーマは「学校」です。学校教育については、多くの専門家が豊富なデータや一貫性のある理論をもとに、様々な研究や提言がなされています。そこから学び取れることは多くあります。しかし、このような専門家ではない人たちが話し合うことからは、その人の経験にもとづく血の通った声が聞こえます。その人の抱える切実さやままならなさがダイレクトに伝わります。以前「いつ幸せになるか? 今でしょ!」という記事で、「幸福の実現が人生における最も高次の目標であり、生きる上で行うあらゆる活動はその手段である」という価値観について触れました。人間が国家や社会を形成するのは、1人1人がバラバラに生きるより得られる幸福が多いからです。政府などが行う福祉的な政策が本当に個人の幸福という最終目標を達成できているかは、統計データなどのマクロな情報だけでは把握できません。むしろ数少ない対象を深く深く掘り下げて得られる血の通った情報からこそ、そういったことに対する判断が可能になるのです。今回の登壇者も5~6人ですが、しかし経歴や現在の肩書は様々です。この少人数の話し合いの中から、様々な有益な情報が飛び出すのではないかと期待しています。
 私が事前打ち合わせを素晴らしいものだと感じたのは、登壇者、番組スタッフを含め、あの場に集まった人たちがそういった価値観を共有していたからです。もちろん、ジレンマ×ジレンマは今回で第8回になりますから、どのような趣旨の番組かということを皆さんよくわかっていたこともあるでしょう。それにしても、互いに初対面の人同士が大半だったにもかかわらず、かなりのぶっちゃけトークというか、「私はこう考えています」というのをストレートに伝え合うことができたのです。その人のパーソナリティに深く関わるような話題も多くありました。本来なら、ある程度以上の信頼関係が築けていてこそ可能なことのように思えますが、あの打ち合わせでは「ここでならぶっちゃけても大丈夫だ」というような「場」に対する信頼のようなものがあったのだと、今振り返ると思います。
 また、この番組では登壇者のセクシュアリティも明らかにするという慣習があるようで、そのことについても打ち合わせで確認しました。「○○さんはヘテロですか?」「ヘテロです」「私はトランスです」みたいな会話が行われたのですが、こういう話題が「普通」に会話できる場が存在するということに、私は驚きと喜びを感じました。20年前にはとても考えられないような光景だと思います。そういう場ですので、明日は私も安心してぶっちゃけようと思います。

 こういった企画に対して、「目立ちたいだけだ」とか「自分の知識をひけらかしたいだけだ」といった冷めた反応もあるかと思います。しかし、私はそれでいいと思っています。「目立ちたい」とか「賢いと思われたい」というのはごくありふれた感情だと思いますし、そういった感情も下手に取り繕おうとせずにオープンにすることで、議論はより豊かなものになるでしょう。私にもそういう気持ちがないわけではないですからね。

 ジレンマ×ジレンマは「会いに行ける番組」というキャッチコピーを掲げているように、観る人との距離の近さが魅力の1つでもあります。明日の放送を観て「私も出てみたい」とか「こういうのやってみたい」とか思ってもらえたら非常に嬉しいです。なにしろ、この手の企画でいちばん良いインプットを得て得をするのは登壇者でしょうから、何事もやりたいと思ったらためらわずやってみることかなと思います。それでは、明日はギークカフェで僕と握手。

2013年5月24日 (金)

いつ幸せになるか? 今でしょ!

 まずこちらの動画をご覧ください。

青木純「走れ!」 <足立区文化産業・芸術新都心構想>編 

これはサラリーマンNEOというNHKのコント番組のオープニングとして使われていたアニメーションで作品です。番組内のコントに漂うサラリーマンの悲哀とマッチした面白い作品だと当初は思っていました。しかし、今になって作品を見てみると、いろいろ突っ込みどころが目につくようになりました。この作品の主人公、赤ちゃんの頃から死ぬ直前まで吊り上った目をして、脇目も振らず走り続けるじゃないですか。そうじゃないのは酒に酔ってるときだけです。それから、突然現れた女性と結婚して、一瞬ベッドをくぐって子どもが生まれるようですが、その女性と子どもはその場に置いてきぼりで、その後もずっと一人で走り続けます。何ともこの国の男性の生き方を的確に風刺した作品ですね。主人公の男性は年老いて杖を突きながらも走り続け、ばったり倒れて亡くなった時にやっと満面の笑みでゴールテープを切ります。一体彼はいつ安らぐのでしょうか。そして、一体彼は何のために生まれ、何のために生きたのでしょうか。この作品を手放しで笑い飛ばすことができないのは、ここで風刺されているような生き方がこの国では珍しいものではなく、むしろメジャーなものとして受け入れられているように感じるからではないでしょうか。

 「現在の手段化」という言葉をご存じでしょうか。ざっくり説明すると、「今の時間」を「将来」をよりよくするために費やすこと、となります。一見すると素晴らしいことのように思えますが、今本当にしなければならないことは何かという人生の本質的な問いから逃げる行為であって、避けるべき行為とされています。避けるべき行為とは言うものの、私たちの日常の感覚からすると、にわかには賛成しにくい説明のように感じます。というのも、私たちが生きるこの社会はこの「現在の手段化」を基調として成り立っているとも言えるからです。というのは、「理想的な生き方かも」という記事でも書いたように、現在の社会は学び・成長の期間、仕事という形で能力を発揮する期間、余生として支えられながら生きる期間と、役割がはっきり分かれているように人生の時間がデザインされています。いわゆる学校教育を受けている期間はあくまで将来発揮するべき能力を身に付ける準備期間であって、あくまで将来の幸福のために備える活動を主に行う期間になります。いわば将来の幸福の総量を増やす競争であるかのように、私たちは勉強や部活動に励みます。では、学生時代を一心不乱に駆け抜けた彼は、めでたく幸せに満ちた壮年期を迎えることができたのでしょうか。

・・・

残念ながらNOですね。相変わらず彼は眼を吊り上げて一心不乱に走っています。準備期間が終われば、ついに培ってきた能力を発揮する期間です。バリバリ働きます。学校を卒業したからといって、競争は終わりません。むしろ本当の競争が始まります。せっかく能力を身に付けても、それを発揮し成果を出さなければ意味がありません。成果を出せば評価が上がって給料も上がるかもしれません。出世もできるでしょう。でも、出世したらしたで競争は続きます。彼には子供もいますから、学費も稼がなければなりません。老後への備えもあった方が安心です。どちらもいわば将来への投資ということになるでしょう。子供と自分の将来のため、お金をたくさん稼ぐために必死で働きます。だから彼は仕事を始めてからもずっと走り続けます。酒を飲んで酔っ払っている間は一見すると幸せそうですが、お酒を飲めば誰でも大体あんな感じになります。彼が学生時代も仕事を始めてからも頑張って走り続けてきたからこそ得られたものというわけではなさそうです。

 電柱でリバースしたところで、彼の服装はスーツからステテコに変わります。仕事を引退して老後の生活に入ったのでしょう。これでやっと競争の煩わしさから解放されるかと思いきや、相変わらず走り続けています。老後の過ごし方については人によって千差万別で一概には言えませんが、特に男性はそれまでバリバリ働いてきた人ほど老後に生きがいを見出しにくく、時間を無為に過ごしてしまうことが多いと聞きます。動画の主人公は死ぬまで走り続け、亡くなると同時に満面の笑みを浮かべます。

「人生の目的とは何か」などと大きな問いを立ててしまうと、ブログの記事なんかで到底答えにはたどり着けそうにありません。ここでは、もっとシンプルに「何のために勉強するのか」「何のために働くのか」ということについて考えたいと思います。もちろん勉強も仕事もとても大切なことですが、これらの問いを置いてけぼりにした勉強や労働に意味はあるでしょうか。上記のような人生の流れを考えると、勉強は将来の仕事において発揮する能力を身に付ける活動であり、仕事は子供や自身の将来に備える活動と言えます。どちらも将来のためにあると考えてしまうと、私たちの人生の価値は、老後においてどれだけの幸福を得られるかという非常に限定された範囲で決まってしまいます。それに異を唱える人は多くいることでしょう。私もそれは間違いだと思います。そのため、「将来のために」というもっともらしい動機で「勉強さえしていれば間違いない」「仕事が何よりも大事だ」と言い切ってしまうのは、間違いだと言えるでしょう。これが「現在の手段化」が避けるべきものだとされる根拠です。

 自己啓発についての記事も書きましたが、そもそもなぜ自分を成長させる必要があり、また成長によって得られた成果をなぜ発揮する必要があるのでしょうか。神戸大学で障害共生支援やインクルージョンを研究している津田英二氏の『物語としての発達/文化を介した教育』に、以下のような一節があります。

 まず、障がい児の発達に至上の価値を見いだそうとすると、昨日より今日のほうが「できるようになった」「よくなった」といった価値の序列、AさんよりもBさんのほうが「よくできる」といった価値の序列が、どうしても起こってしまう。昨日より今日のほうが「できるようになった」といった発達に関心を持ちすぎると、その子どもの幸福の実現という高次の目的が見失われてしまい、他者との比較へと容易に誘われてしまうのだという。
発達への着目は、価値の序列と必然的に深く関わってしまう。しかし、〝障害児者の幸福を存在論的に考えるならば、究極的には、「人間存在」の無条件的価値の把握が必要″であり、そのためには価値の序列を乗り越える「価値意識の変革」が要求される。その「価値意識の変革」とは、〝「障害者観」、「人間観」のなかから、「発達に価値をおく意識」を完全に分離することではないだろうか。″つまり、〝「発達の保障」と「幸福の保障」とをはっきりと分離し、そのうえで、前者がどのように後者に貢献するかを、厳しく吟味する必要″が求められているのだと述べる。

この記事を書き始めた時には、単純に人生における幸福を得るタイミングのみに焦点を絞って書くつもりでした。しかし、書いていくうちに、現在の日本社会において「幸福の実現が人生における最も高次の目標であり、生きる上で行うあらゆる活動はその手段である」という前提さえ共有されていないという実感にとらわれてしまいました。例えば、過酷な労働環境にただ適応することに労力を使い、人間的な意思や良心を放棄している人を「社畜」と揶揄するネットスラングがあります。健康の維持や私的な時間の充実という人間的な幸福より、本来その実現の手段であるはずの仕事を優先してしまうような人が珍しくない状況では、「幸福の実現が最も高次の目的である」という前提が共有されているとは言えないでしょう。よく日本人は勤勉であると他国から評価されることがありますが、私はそれに賛同しません。よく比較されるヨーロッパの、特にラテン系の国家では、労働時間が日本より総じて短くなっています。それは彼らが怠惰だからではなく、働くことがあくまで幸福のための手段であるということの意味を真剣に考えているからでしょう。また、働くことが幸福の最大化に効率的につながるように働き方を工夫し、その結果、国民一人あたりのGDPは日本とそこまで大きな差がありません。また、時間的な捉え方にしても、日本社会においては、人生の期間ごとの役割をはっきり区別することは、ある意味時期ごとの価値や重要性に違いを見いだしているとも言えるでしょう。具体的には、準備期間よりもそれを発揮する時期のほうが重要だと、一般的には考えているのではないでしょうか。私が「理想的な生き方かも」という記事でそのような人生時間の時期による区別を曖昧にしたいと書いたのは、人生において重要でない時期などなく、その価値に順位をつけるような考え方はおかしいと思うからです。かの有名な芸術家、岡本太郎もこのような言葉を残しています。

 「誰かが」ではなく、「自分が」であり、また「いまは駄目だけれども、いつかきっとそうなる」「徐々に」という一見誠実そうなのも、ゴマカシです。この瞬間に徹底する。『自分が、現在、すでにそうである』と言わなければならないのです。(現在にないものは永久にない)、というのが私の哲学です。逆に言えば、将来あるものならばかならず現在ある。だからこそ私は将来のことでも、現在全責任をもつのです。

 以上のことから考えてわかるのは、日本国民の多くが勉強や仕事でよく努力しているにもかかわらず、その努力によっていつ、どのように幸せになるかという方向性を持たずに生きているということです。そして、その答えを置き去りにしたまま、発達のための発達、成長のための成長、努力のための努力とも言えるものに邁進していくのです。私がブラック企業の問題に関心を持ったのも、その発端は日本社会のこういった状況にありました。

 とは言うものの、努力や成長が重要ではないと言っているのではありません。また、どのような社会においても、将来に備える活動もどうしても必要になります。そのすべてがいけないことだと言いたいのではありません。大切なのは、それらの活動と現時点における幸福の実現とのバランスをどのようにとるかということです。もちろん、「目標の大学に合格するために今はすべてを勉強にかける」「独立のためにすべての労力をかける」という時期が人生においてあっても全然問題ありません。重要なのは、それが自分の主体的な計画によるものだということです。では、現実的には多くの人が実行している将来のための投資と現時点での幸福との両立の図り方について考えてみましょう。

 まず、時間的に区別をする方法があります。例えば、「毎日1時間は勉強する」というように、将来への投資にかける時間を習慣的に決めておく人もいるでしょう。反対に「テレビは一日1時間まで」というように、娯楽にかける時間に制限を設けるストイックな人もいるでしょう。しかし、私が重要だと考えているのは、このように将来への投資と現時点での幸福の実現を明確に区別するのではなく、将来への投資をいかに幸福に行うかということです。「仕事居場所論」という記事でも書きましたが、働くというのは何も賃金を得るということだけを目的とした行為ではありません。そこで得られる精神的な満足感というのも仕事を選ぶうえでの重要な要素になっています。また、最近ではゲーミフィケーションといった仕事の過程自体を楽しくしようという工夫も見られるようになりました。大変すばらしいことだと思います(ただ、ゲーミフィケーションに関しては、働く人のQOLに焦点を当てたものではなく、あくまで経営者の目線で作業効率の向上という観点から注目が集まっているようです)。

 しかし、このようなことを言うと「仕事というのは成果がすべてなのだから、その過程の楽しさや辛さなんて関係ない」と鼻で笑う人もいます。その通りです。仕事は成果が最も大切なのであって、過程が楽しいかどうかは成果に直接影響を与えるものではありません。だったら、成果が同じならどんなに楽しく仕事をこなしたって問題ないわけです。関係ないからこそ、成果を出すまでの過程にもとことん拘ろうという考え方もアリなのです。結果も成果も両方大事にしたいと私は考えています。

 「幸せの国」として知られるブータンはGNH(国民総幸福量)という概念を作り出し、国民の幸福を数量で表すことに挑戦しました。やはりそれも、経済発展はあくまで幸福の実現の手段であるという前提に沿ったものだと考えられます。さて、林修先生の例のヤツはもう若干旬を過ぎているとは思いますが、その汎用性の高さにあやかっていってみましょう。

いつ幸せになるか? 今でしょ!

2013年4月16日 (火)

理想的な生き方かも

 まず、こちらの記事をご覧ください。「人生の時間軸を横に倒せ」。このブログの著者である大石哲之氏は、経営コンサルタント、著述家という肩書を持ちながら、kyt projectという有料サロンを主宰しています。サロンでは、新しい働き方としてちょっと前から話題のノマドワークや海外移住生活、マイクロビジネスの起業などを実験的に行っています。働き方や企業経営に関して経営コンサルタントの視点から鋭い考察を行っており、私も以前からブログをよく読んで勉強させてもらっています。

 件の記事ですが、ずいぶん前に読んだものにも関わらず、彼のブログのなかでかなり印象に残っているものです。というのは、私の人生の時間軸に対する考え方が、大石氏のそれと重なる部分が多くあったからです。私は大石氏のように、早く引退して経済的に自由な生活を得ようと考えていたわけではありません。ただ、人生のある時期は準備期間であり、ある時期が本番、ここからは余生と、そういったはっきりとした時間的な区切りが存在するかのような生き方に不自然さを感じていました。例えば、エリクソンの説く心理学的な発達段階で規定されるような、それぞれの段階で役割が明確に決められているような人生観がそれに当たります。この国に生まれた人は、ほとんどの場合6歳くらいから学校に通い始め、15~22歳あたりで働き始め、60~65歳くらいで第一線を退き隠居生活をするものとされてきました。こうして、学び・成長の期間、能力を発揮する期間、余生として支えられながら生きる期間と、役割がはっきり分かれているように人生の時間がデザインされています。私は特にこの学びの期間が限定されていることに疑問を感じています。もちろん、広い意味では賃労働を通して学びを得ることもあるでしょうし、いわゆる学校教育だけを学びとして考えているわけではありません。具体的にはリカレント教育と表されるような生涯にわたる教育・学習を実践できるのが理想的であると考えています。それを実践するには、現行の制度に沿って行うのであれば、大学の社会人コースを履修したり大学院に入ったりするのが最も一般的でしょう。しかし日本の場合、わざわざ休職して大学に入りなおしても経済的なリターンにつながりにくく、特に壮年期の男性がそういった道を選ぶことはまれだそうです。ただ、生涯学習というものに取り組むモチベーションは、何も経済的なリターンに限定されているわけではないでしょう。

 さて、なぜこの記事を書こうかと思ったかというと、この4月から週に一度だけ大学に通うことになったからです。というのは、大学時代にお世話になった先生がゼミを開くにあたって、参加しないかと声をかけてくれたのです。退職して時間の自由が利くので、これ幸いと参加を決めました。ただ、その時間のためだけに長い通学時間を費やすのはもったいないと思い、今後役に立ちそうな講義に潜り込むことにしました。主に経済や企業経営に関係する講義を選びました。「ホワイトアクション事例集」では法律を守り従業員や顧客を大切にする企業を応援するわけですが、企業を応援したり人に「ここで働くといいですよ」と勧めたりするのにあたって、そういった知識の裏付けは重要だと思うからです。そういう関係の資格も取ろうと計画しています。
 するとこれからの私の生活は、資格試験の勉強や「ホワイトアクション事例集」立ち上げのための準備、当面の生活資金を得るためのアルバイト、大学での学習をミックスして行うことになるわけです。つまり「働く」と「学ぶ」を同時期に経験できるのです。そうするとどんなメリットがあるのでしょうか。私が最も期待しているのは、仕事と学びの相乗効果です。私が仕事で得た経験がゼミなどで共有され、そこでの学びを深いものにし、そこで得た学びが仕事に生かされ、その質を向上させる。そんな相互作用を期待しているのです。もともと教員という職業を選んだのも、そういった学びと仕事の両面を持つ職務内容に魅かれてのことでしたが、長時間職場に縛られ外部との接触が極端に制限されて主体的な学びの活動が大きく制限されてしまうという壁にぶつかりました。それも退職を決める要因の1つでした。

 退職したことで図らずも理想的な生き方に近づいたわけですが、問題はそれが永続的にできるものではないことです。アルバイトをするとは言え、いずれ貯えは底を突きます。なにより、退職の目的は「ホワイトアクション事例集」の設立なのですから、もちろん永続させるつもりはありません。例えば、「ホワイトアクション事例集」の経営が軌道に乗り、私が常に関わっていなくても回るようになれば、家庭を持つことを視野に入れることもできるかもしれません。そうすれば、「学び」と「仕事」の他に「家庭」のなかでの役割を得ることになり、その相乗効果もさらに豊かになるでしょう。もちろん、軌道に乗せるまでには仕事に専念しなければならない時期もあるでしょうし、時間軸を縦に見る人生観から完全に自由になるわけではありません。しかし、人生で経験する様々な事柄をごちゃ混ぜに同時に味わうことで得られるものは、きっと多くあるはずです。私はそんな雑多でとっちらかった豊かさを、学びや仕事を通して得たいと思っています。

 以前NHKの特報首都圏という番組で、女性の起業家にスポットを当てた特集を放送していました(特報首都圏「新ウーマンパワー~輝く女性が日本を変える~」)。様々な形式や業種の起業が紹介されていましたが、私が注目したのは起業の動機でした。取材されていた女性起業家の多くは、「家庭以外にも役割のある居場所を持ちたい」「家事や育児と両立して働きたいが、それが叶う職場が見つからない。だから自分でそういう職場を作りたいと思った」というものでした。複数の居場所や役割を持つ豊かな人生を送りたいという彼女らの姿は、頼もしい先人として私の目に映りました。

2013年4月 1日 (月)

前略、退職を決めました

 今回の記事のタイトルは「俺は教員をやめるぞ!ジョジョーッ!!」にしようかと思っていたんですが、「ジョジョ」に当てはまる上手いフレーズがなかったので、あえなく却下。私の愛してやまない『よりみちパン!セ』シリーズからアイディアを拝借しました。ちなみに『ジョジョ』では第一部が一番好きです。人間賛歌は勇気の讃歌!

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 退職の理由を挙げようと思えばいくらでも挙げられるのですが、ここでは大まかなものだけをお伝えしたいと思います。もちろんその中には、辛い仕事から逃げたいというネガティブな動機も含まれます。どんな職種であれ、やはり仕事により健康を害し、生きる上での家庭や地域の中での役割が著しく制限されるようなことがあってはならないと思いますし、私自身がその構造を再生産することに加担するのをこれ以上続けたくなかったのです。また、こんな気持ちを抱えながらも、課せられた仕事をクリアしなければその影響は生徒にダイレクトに向かいます。そんな板挟みの状況に耐えられなかったのです。

 もちろん、今回の退職は私にとって前進でもあります。それは、安心して働ける職場を増やし、ルールを守って経営している真面目な企業を応援する「ホワイトアクション事例集」作成の本格始動を意味するからです。これをソーシャルビジネスとして成立させるという目標を実現するために、退職というのは必要なプロセスでした。本業の片手間に0からの立ち上げができるほどソーシャルビジネスは甘いものではないですし、教員という仕事もまた何か外部の活動と併行してできるほど甘いものではありません。どちらかを選ばなければならないという状況に直面した時、私はソーシャルビジネスを選びました。大体仕事について3~5年目というのは壁にぶち当たるものだそうで、その時に壁から逃げるか、何とか乗り切ろうと踏ん張るかは、職場に乗り越えた後の姿、つまり自分のロールモデルとなる先輩がいるかどうかにかかっていると言います。私の場合、学校にそういったロールモデルが存在しなかったわけではありません。それよりも、職場の外にもっと魅力的でイカしたロールモデルを見つけたのです。大学で過ごした4年間は、ほぼ教員になることしか考えていませんでしたし、これからまったく畑の異なる世界に踏み出そうというのは、無謀なことのようにも思います。それでも、本当に心から挑戦したいと思うものを見つけられたのは、幸運というほかないと私は思います。私はネガティブな気持ちを抱えながらも、爽やかで前向きなモチベーションを持って3年で辞める道を選んだのです。かの偉大な芸術家、岡本太郎もこう言っていました。

「いいかい、怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだ。」
「危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ。」
「僕はかつて、出る釘になれと発言したことがある。誰でもが、あえて出る釘になる決意をしなければ、時代は開かれない。僕自身はそれを貫いて生きてきた。確かにつらい。が、その痛みこそが生きがいなのだ。この現代社会、システムに押さえ込まれてしまった状況の中で、生きる人間の誇りを取り戻すには、打ち砕かれることを恐れず、ひたすら自分を純粋に突きだすほかはないのである。」


教員採用試験の勉強を始めた時、一般企業への就活を一切せずに、教職一本に絞ることを決意しました。その時に、今初めて自分の人生が始まったと感じました。その時はまさか自分が3年で辞めることになるなんて想像もしませんでした。そして、退職してホワイトアクション事例集を実現しようと心に決めた時、やはりあの時と同じ気持ちになりました。生きる場所や方法は変わりますが、自分の満足する生き方をしたいという気持ちを変えないために必要な選択だったのです。

 さて、退職するにあたって、私は1つ常識に合わないことをしています。それは、退職した現時点において、次の職場が決まっていないのです。つまり、空白期間を作ってしまいました。これは再就職の道を選ばなければならなくなった際に大きなマイナスとなるでしょう。しかし、これにも理由があるのです。人によってはただの言い訳にしか聞こえないかもしれません。それでも、これから述べることは私が退職を決意してから今日までの日々を過ごす上での重要な決意だったのです。前述したように、教員の仕事というのは他の活動と併行できるような余裕のある仕事ではありません。そもそもそんな余裕があれば辞めようなんて思いません。辞めるその日までは自分のできることをちゃんとやりたかったのです。
先日ツイッターでこんなツイートを見かけました。

https://twitter.com/pinokio_brother/status/312726021105401858
ブラック企業に就職したことがわかったら、真面目に働かないことだ。常に逃げる機会を伺いながら仕事はそっちのけで、疲れたら休み、だるくなったらサボリってくらいの意識で丁度いいだろう。仲間を連れて一斉に辞めてしまうのもいいだろう。ブラック企業もじわじわと打撃を受けていくに違いない。

私はこれに激しく同意し、即RTしました。自分の就職先がブラック企業だとわかったら、仕事そっちのけで転職活動にエネルギーを注いで、ちゃんと次の職場を確保したうえで辞めていくのが良いでしょう。ブラック企業はそのように淘汰されていくべきものですし、それが経済合理性に基づいた行動というものでしょう。もちろん義理を感じる職場であれば相応の辞め方というものがあるのでしょうが、元来労使関係というのはこういうドライなものでしょう。
 ただ、今回私はこういう手段を取りませんでした。修了式の日まで勤務するのはもちろん、その後29日まで出勤し、次年度の準備もきっちりやって退職しました。それは教育が公的な事業であるため、経済合理性とは異なる動因が働くからです。職員が手を抜いたところで雇っている側は全く痛手を被ることはなく、しわ寄せはすべて生徒に向かいます。次年度、私の校務分掌を引き継ぐ人が少しでも学級開きに多くの労力を注げるように、私は最後の日まで勤務しました。有給休暇も10日以上残していますが、それが自分としては納得のいく終わらせ方だったのです。学校にいる間は、苦しくても学校のルールや価値観に従おうと決めていました。

 とは言え、まったく転職活動をしなかったわけではありません。しかし、仕事の片手間では思うような結果も出せず、また中途半端な力の注ぎ方では相手先の企業や団体にも失礼だと感じ、そういった活動はきっちり本職を終えるまで極力抑えようと決めました。それが正しい選択なのかはわかりませんが、やはり生き方に正解などないということなのでしょう。やってみないとわからないことは多いものです。

 そんなこんなで、私の生活はこの4月からガラッと変わり、新しい道へと進み始めます。教職を辞めなければ出会えたであろう素晴らしい生徒や同僚との時間を犠牲にして選んだ道を、後悔のないように進んでいきたいと思います。これから本格的に始まるQ崎の活動を、温かく見守って頂ければ幸いです。

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