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経済・政治・国際

2014年6月 1日 (日)

お金持ちにもほどがある

 七五調のリズムはとても心地いいものですね。さあ、みなさんも声に出して読んでみましょう。「お金持ちにもほどがある」。今回も所得の適切な分配について考えてみました。割とトンデモ度の高い内容ですが、個人的には悪くないアイディアだと思います。よかったらコメントでご意見ください。

お金持ちと聞いて思い浮かぶ人物は誰でしょうか。私は世界の富豪の人々にはあまり興味がないので「ビル・ゲイツが世界一のお金持ちなんでしょ?」くらいの認識ですが、こちらの記事によると順位の入れ替わりはままあることのようです。

ビル・ゲイツ氏、世界一の富豪に返り咲き 世界長者番付 日本トップは孫正義氏

この記事によるとビル・ゲイツ氏の資産は3月3日の時点で760億ドル(7兆7100億円)ということらしいのですが、数字が大きすぎてわけがわかりませんね。2013年の名目GDPランキング66位のアゼルバイジャンの名目GDPが735,4億ドルですから、人口約931万人のアゼルバイジャン国民が一年間に生み出す価値より大きな資産を保有していることになります。ちなみに、昨年一年間で上位300人の富豪の純資産総額は5240億ドル(約55兆円)増えたそうです(世界の富豪、昨年は資産55兆円増やす-14年も富の集中継続か)。

 そのビル・ゲイツ氏なのですが、最近では自身で立ち上げた慈善基金団体の運営に力を入れているそうです。その財団Bill & Melinda Gates Foundation年次報告によると、2012年には約317万ドルを途上国開発やグローバルヘルスプログラム、国内の教育機関への支援などに充てています。財団の基本財産は約363億ドルで、世界一の規模の慈善基金団体となっています。財団の設立と言えば、ロックフェラー財団を始め、ビル・ゲイル氏の他にも行っている富豪はいますし、様々な慈善活動への資金援助を行う富豪も存在します。それらの行いに対して私は「なんて心の清い素晴らしい人達なんだろう」と思う一方、「こんだけ金持ってんだからこれくらい当然じゃね?」と思う気持ちも抱きます。富豪が慈善活動に資金提供する動機については、税金対策だとか富を独占することへの批判を回避するためだとか、様々な意見が飛び交います。そもそもなぜ多くの資産を保有することに批判が起こるかと言えば、世の中の資源が限られているなか、食うや食わずの人がいる一方で一生かかっても使いきれないほどの資産を持つことを「悪いこと」とみなすことは不自然ではありません。富を独占することへの外部からの批判はもちろん、自身の感じる罪悪感も無視できないのではないかと思います。だからこそ、資産の一部を手放すにしても散財ではなく慈善活動への資金提供という方法を採るのではないでしょうか。というところまで考えて、私はこう思いました。個人が保有する資産や一定期間稼ぐ金額に上限を設けてしまえばいいのではないか。それを超える分は税金として徴収する。累進課税の超強化版といったところでしょうか。個人が富を独占することは問題であると公的に認め、1人の人間が一生のうちに稼いで自由に使える額をあらかじめ決めてしまおうという発想です。資産家の寄付などに関しては、対象となる分野が限定されたり、人の善意に寄りかかって運営していくことの問題点が指摘されていますが、政府が責任を持って必要なところへ再分配する仕組みを作ってみることでその問題も解消できます。しかし、これでは富豪たちへのメリットが全く無いように思いますが、それはもう価値観の転換を図るしかありません。以前に書いた記事で「幸福度=可処分所得×可処分時間」という豊かさの指標を提案しましたが、上限を大幅に超えて稼ぐような人はその分の仕事を他の人に振って、自分は多くの可処分時間を得て幸福を満喫してもらえればと思います。もともとお金をたくさん稼ぐ人は僅かな時間でもお金を生み出すことに費やしたいという考えの強い人も多いでしょうし、価値観の転換は簡単にできるものではないでしょう。しかし、所得の再分配が健全な社会の維持に必要なように、この市場の飽和した現代においてはその制度の改善も必要に迫られているのではないでしょうか。

 続いて、そうして増えた税収をどのように分配するべきなのか、そもそも上限をどのように定めるのかというのをざっくり考えてみたいと思います。結論から言えば、税収はベーシック・インカムの財源とし、その財源を満たすのに必要な額を徴収できるように上限を定めるのです。ベーシック・インカムに関しては実現可能性などに関して疑問は残りますが、最大のネックであった「財源をどうするのか」という問題に関しては、このような確保の仕方もありえるのではないでしょうか。ベーシック・インカムの導入は、以前に他の記事に書いた「市場が飽和し、労働に掛ける労力あたりのリターンが低減してしまう問題」や「衣食住を賄うのに十分な富があるのに働かないと生きていけない仕組みを維持することの非合理」などを解消する優れたシステムだと思います。それにより、極端なお金持ちも極端な貧乏人も存在しない社会が実現するのです。ベーシック・インカムであれば働いた分だけ収入が増え、「福祉の罠」の問題も生じません。人類はこれまで、技術の発達により様々な便利さを享受し、欲望を満たしてきました。そろそろ、社会の健全な維持や人権を毀損してしまうほどの要望の実現を諦める方向に、私たちは努力の方向を転換させなければならないのではないでしょうか。

 今回私の提案したアイディアでは、例えば「民間の宇宙旅行サービスの購入など、高額な資産を保有することで夢を実現させることができなくなってしまう」などの問題も生じます。また、実行可能性の面でツッコミどころもあるかと思いますので、コメントに意見をドシドシ寄せていただければ嬉しいです。

2014年5月25日 (日)

「努力が報われる社会」とは言うけれど

 以前「なぜブラック企業は生まれるのか2 産業構造は具体的にどう変わったのか」という記事で、ブラック企業の問題を考えるうえで経済をマクロな視点で見る必要があること、市場が飽和している状況では高度成長期とは働くことの意味合いが異なることを指摘しました。今回は、市場飽和という特殊な状況下で、どのように富を配分するのが適切なのかということを考えてみたいと思います。

 記事のタイトルの「努力が報われる社会」ですが、このフレーズを耳にするのはいわゆる弱者に対するバッシングという文脈であることが多いように思います。具体的には、生活保護をはじめとする社会保障を受けている人を対象に、財源となる税金を納めている労働者が「頑張って働いている者が搾取され、楽をしている者にばらまかれている」という不満を持ってしまうのです。そういった状況が生じてしまう問題に関しては「分断支配の乗り越え方 うまくいっている側の問題を明らかにしよう」という記事でも扱いましたが、この国の社会保障の問題は一度それを必要とするような状況に陥ってしまうと、なかなか労力あたりのリターンの低い待遇から抜け出せない点にあるのだと思います。

 「努力が報われる」とは努力量に応じた報酬が得られる状態を指すのでしょうが、需要が潤沢に存在した高度成長期にはある程度それが実現できていたのではないでしょうか。作って売り出せばその分だけ売れるのであれば、投入した労力や時間に応じた報酬を与える制度を作ることも難しくないように思います。それが現代のように作っても売れるとは限らない状況では、努力をしても結果が伴わないことも珍しくありません。成果主義の給与システムを採用する企業も増えているようですが、これは結果として生じた成果に給与を対応させているのであって、投入した労力の量を基準にしているわけではありません。そもそも努力の量を数値化して比較するなどとても困難なことですから、目に見えやすいアウトプットで評価するというのはまっとうな方法であると思います。理想としては頑張っている人の方が多くを得られる仕組みがあるに越したことはありませんが、「頑張っている」というのはどうしても主観的な評価になってしまいます。この記事でもアウトプットの相対的な比較と、それに応じた報酬の分配について考えてみたいと思います。

 先日、このようなツイートを見かけました。

https://twitter.com/Katsuhito000/status/468963990048362497
「うまくいってる」の定義が「富の総量が増える」か「富の所有の偏差が小さい」か次第でどうとでもなるけど、いわゆる新自由主義は後者を無視しすぎ。
https://twitter.com/Katsuhito000/status/468965415658733568
昔何かで読んだが、頑張りとか結果次第で、順位とか所得が実感が伴う程度の少量変動する社会が、最も活力があるらしい。
https://twitter.com/Katsuhito000/status/468965651496071168
別の言い方をすると、ある時点で負けてる奴が「まだまだこれから」と思える程度の差しかつかないのがいいらしい。
https://twitter.com/Katsuhito000/status/468965933474930690
負けてる奴からの突き上げがあるという状態が勝ってる奴のサボりを抑止するので、全体として頑張る奴が多数になるという構図。
https://twitter.com/Katsuhito000/status/468966942167273472
レースゲームで順位が下の車ほどブーストボーナスが付いて、ゲームとして楽しくなり成立するってのがあって、現実社会でもそういうほうが活性化するのかもと思った。
https://twitter.com/Katsuhito000/status/468968275888832512
やはり適度な再分配によって過激にならない競争が持続するようにしておくのがいいのだろう。新自由主義は経過も結果も過激であるし、敗北後の再挑戦がほぼ不可能なのもいただけない。

どのような富の分配を「適切」「良い」とするのかは、考え方次第でいろんな基準を挙げることができるでしょう。その中でFX Katsuhito氏は、みんなが「もっと頑張ろう」という気持ちになれるという基準で適切な富の分配を考えています。重要なのは「頑張りとか結果次第で、順位とか所得が実感が伴う程度の少量変動する」という点でしょうか。単純化したモデルを用いて比較してみましょう。
 ある国には10人の国民がいて、全員が何かしらの形態で働いています。国民所得は100で、所得の分配は以下のとおりです。順位は労働による生産性の大きさの相対的な順位です。

1位 20
2位 16
3位 13
4位 11
5位 10
6位 8
7位 7
8位 6
9位 5
10位 4

 また別のある国でも10人の国民が働いています。国民所得が100という条件も同じですが、所得の分布が大きく異なります。

1位 20
2位 15
3位 15
4位 15
5位 10
6位 5
7位 5
8位 5
9位 5
10位 5

どちらの国も国民所得は同じですし、アウトプットの順位と所得が逆転するという非合理もありませんが、働く人のやる気には差が生じてしまいそうです。後者の方では、3位や8位の人は多少順位が変わっても所得は変わらないので、あまり「もっと頑張ろう」という気持ちにはならないでしょう。新自由主義的な経済活動により資本の拡大再生産が進めば、所得の分配は二極化していくと言われています。働く人のやる気をどう盛り立てるかという観点からしても、過度に二極化した所得の分配は望ましくないと言えるでしょう。

 実際には人間のやる気は報酬のみに影響を受けるわけではありませんし、そもそもこれだけ市場が成熟した状況でみんながやる気を出して頑張る必要があるのかという疑問も残ります。また、所得の分配に関してどの社会にも当てはまる唯一の最良な方法など存在しませんし、仮にそれがあったとしてもどのようにそれを実現すればいいのでしょうか。本来は労使間の交渉で決めるのが筋ですから、法律で民間企業の従業員の給与を決めるというのは現実的ではありません。日本ではもっと政労使の対等な議論が必要なのだと思います。所得の分配についても、ちゃんと合意を作る過程を経るのが望ましいあり方なのです。

 市場が成熟した状況ではこれまでと同じ資本主義のルールを維持するのに無理が生じるという指摘を以前しましたが、次の記事ではその点を踏まえて適切な所得の分配のルールを1つ考えてみたいと思います。

2014年2月12日 (水)

需要が枯渇した市場の中で消費することの意味 あなたの欲しいものは何ですか?

 前回の記事では、需要が枯渇することによって個人が頑張って働くことの意味がどのように変わるのかを考えてみました。今回は、技術の発達によって必要なものが安価に手に入るようになっていく過程で、需要の質がどのように変化していったのかを考えてみたいと思います。

 この記事を書くきっかけとなった1冊の本との出会いがありました。それがこちら。

中村うさぎ著
欲望の仕掛け人

自らを「資本主義の奴隷」「優秀な消費者(いいカモ、という意味で)」と称する作家の中村うさぎ氏が、様々な業界のビジネスパーソンたちにインタビューを仕掛けたものをまとめた1冊です。インタビューの対象がバラエティーに富んでいて、とても面白い著書でした。10年近く前に出版されたものですが、ここ最近の関心事が「需要が枯渇していく社会のなかでどう働いて生きていけばいいだろう」という問いだった私に見事にマッチするインタビューがありました。それがあの有名オシャレ雑貨店Francfrancを展開する株式会社バルスの代表取締役、髙島郁夫氏のインタビューです。早速該当の箇所を引用してみましょう。

中村 結局、一人ひとりの居場所っていうものがテーマになっていくわけですよね。
髙島 うん。それと、時間。同じお茶を飲むのでも、お茶を飲んでいるこの時間がいつもより豊かに感じる、っていうことじゃないかな。そういうものしか売れないような気がしますね。
 今のお客さんに何が欲しいですかって尋ねたとして、「リンゴが欲しいかな」って言われたからといって、リンゴを渡しても、「いらない」と言われるんですよ。
中村 どうしてですか?
髙島 欲しかったのはリンゴじゃないんですよ。本当はアップルパイかもしれないし、リンゴジュースかもしれない。
中村 じゃ、客がその「リンゴ」にどんな意味を込めたかということを読み取らないといけないわけですね。
髙島 そうそう、その先にあるものをね。頃合なんですよ。
中村 彼女の言うところのリンゴらしさというものは何か、ということなんですね。
髙島 そうですそうです。
中村 それは付加価値だったり、プラスアルファだったりするんですよね。つまり彼女が思うリンゴの中で一番オシャレだったり、気が利いていたり、思いもよらなかったりするようなものがつくと、「そう、これよ、よくわかったわね。それを考えていたのよ」ってなる。
髙島 そう、「欲しかったのは、これなのよ」って。
中村 それが欲しかったわけじゃないんだけども、提案されると、それのような気がしちゃうというわけか。ふんふん、なるほど。
髙島 それが今の商売で一番大事なところかなと思うんです。
中村 そうそう、フランフランにセット商品はないですよね。カップでも全部ニュアンスが違うとか、柄が違ったり。
髙島 あんまりお仕着せしたくないんですね。「どうだ、このセットを買え」みたいになるのは、勘弁してよという。「よかったら買って」ぐらいなスタンスなんですよ。
中村 なるほどね。同じフランフランに行く人でも、部屋の状態はかなり違う感じがしますよね。
髙島 違いますよ。ただ、家の中はひどいと思います、みんな。
中村 そうなのかなあ。みんな可愛い部屋に住んでいるのかと思ってた。
髙島 いや、物を買ううえで、「この物を買う自分って素敵でしょう」になるんですよ。
中村 家に帰っちゃたら、それを維持できないんですか?
髙島 まあ、物を置いたところだけは素敵かもしれないけど、こっち見たら洗濯物はいっぱいあるし。生活って、そういう感じですよね。でも、フランフランで何か買えば素敵な自分の部屋になるんじゃないかな、というところで買っていただいているんでしょうね。
中村 わかった。じゃあ、フランフランは「素敵な自分」を売っているわけですね。
髙島 そうそう。モノじゃないんですよ。その人が、フランフランに行くこととか、そこで時間を過ごすこととか、そこで買ったものと一緒に部屋で過ごすことが、素敵なんだということだと思います。
中村 それでプライベート感が出てくるわけですね。
髙島 わかってあげなきゃいけないんです。お客さんは気持ちよく騙されたいんですよ。
中村 ホストでしたね、今(笑)。
髙島 フェイクなんですよ、商売というのは。特に女性向けの商売はやっぱりホスト的な部分が必要です。そうじゃなかったら買いませんって。
中村 そうですね。私も結局、シャネルマークが象徴する何物かを買っているわけで、バッグが問題なわけじゃなくて、買った瞬間の自分なんですよね。だから、そうやっていい夢を見させてあげて。
髙島 これからの小売は、付加価値がついてないと伸びていかないような気がしますね。だから数字とか式とかで語れるものじゃなくて、感覚的にマーケティングできることが大事。
中村 昔は、生活に必要なものが欲しかった時代ってありますよね。
髙島 高度成長期はね。ものがないわけですから。
中村 冷蔵庫が欲しいとか、カラーテレビが欲しいとか。あれはほんとに生活必需品だったけど、もうすべてが満たされて、生活必需品なんてものは当たり前になってしまったら、人が最後に欲しがるのは何かというと、結局は自分自身という答えになるわけですね。
髙島 自己実現したいんですね、最後は。

社長、そこまでぶっちゃけちゃっていいんですか!?って感じですね。以前「マーケティングは押し売りのやり方を高度化したものだ」というような趣旨の記事を書きましたが、それを小売業でどのように実践しているのかを具体的に示す非常に良質な資料です。

 特に「リンゴ」のくだりは示唆に富んでいます。「リンゴが欲しい」と言われたからといって、リンゴをそのまま渡しても「いらない」という。これはなにもお客さんが天邪鬼というわけではないようです。もしかすると、お客さん自身、自分が何を欲しがっているのかはっきりとは分かっていないのかもしれません。ここで1つ、あるキャッチコピーを思い出しました。1988年に西武百貨店の広告コピーとして糸井重里氏が発表したものです。それは

「ほしいものが、ほしいわ」

消費の中心が「必要なもの」から「欲しいもの」に移り変わっていく時代の消費者の心理をこれほど如実に表現するとは、見事としか言い様がありません。インタビューの終盤でも語られているように、「必要なもの」はわかりやすいものです。喉が乾けば飲み物を、寒さをしのぎたければ暖かい衣服や暖房器具を私たちは迷わず買うでしょう。しかし、「欲しいもの」はそうはいかないようです。マーケティングについて学んでいると「ニーズとウォンツをはっきり区別しなくてはならない」と指摘されることがあります。ニーズとは、消費者の購買行動の原動力となる欲求や欠乏感のことであり、ウォンツとは欲求を満たす具体的な手段を求める感情です。「喉が渇いたから何か飲みたい」という欲求がニーズであり、「お茶が飲みたい」「スポーツドリンクが飲みたい」というのがウォンツです。参考:ニーズ。生活必需品が容易に揃うようになると、ニーズは複雑化してきます。「オシャレに生活したい」「面白いことがしたい」という欲求をぼんやりとは抱えているのですが、それを満たすために具体的にどんな財やサービスを購入すればいいのか、消費者自身にもわからないのです。そうして「ほしいものが、ほしいわ」という心理状態に陥るのですが、正確には「ほしいものをはっきりさせたいわ」といったところでしょうか。

 そもそも、Francfrancのようなオシャレ雑貨の店に足を運ぶとき、「○○を買いに行こう」と明確な目的ではなく、「何かオシャレなものが見つかるかも」という期待が動機になっていることも多いでしょう。お店では、「あなたの欲しいものはこれではありませんか?」とお客さんのウォンツを先回りして商品が揃えられています。そこで「そうそう、これが欲しかったの」と、先回りがお客さんのハートを射止めればめでたく購入ということになります。しかし、それは本当にめでたいことなのかという疑念も残ります。それは、そこで得られる満足感が一過性のものである可能性が高いからです。お店で見つけた「欲しいもの」はあくまで他人に見つけてもらったものであり、お客さん自身が自分の複雑な欲求と向き合い、吟味して見つけたものではないのです。例えば、1回使っただけの化粧品、読まずに積まれた本、クローゼットの場所をとるだけの服など、「なんでこんなの買ったんだっけ?」という買い物の経験が誰しもあるのではないでしょうか。買った瞬間は確かに納得していたはずなのに、月日が経ち、冷静になると本当は「欲しいもの」ではなかったと気づくのです。これが「気持ちよく騙された」ということでしょう。技術の発達により便利なものが多くの人の手に行き渡るようになりました。それを「豊か」だというのかもしれませんが、その先にあるものが一時的な満足を繰り返すことが中心の人生だとしたら、それは果たして幸せなことだと言えるでしょうか

 それならそれでいいというのも1つの選択でしょう。しかし、それでは嫌だという人はどうすればいいのでしょうか。その答えは、「欲しいもの」を見つける面倒な作業を他人に任せず、自分で行うことです。当たり前のことですが、同じ商品でもそれを買うことで得られる満足感は人によって違います。当たり前にもかかわらず、髙島社長が言うように商売の中心がお客さんのニーズを先回りして提案することになるほど、「欲しいもの」を見つけることを小売店に任せる消費者は多いのです。それは、自分の「欲しいもの」を見つけることがそれほど面倒で難しいことなのでしょう。欲求というのはそもそも合理的ではなく、容易に言語化して自覚的に扱えるようなものではないのかもしれません。それでも、複雑怪奇な自分の欲求を分析し、自分の心のそこから欲しいと思うものを見つけ、それを手に入れるために必要な努力をすることができたら、それほど幸せなことはないのかもしれません。「欲しいもの」を見つけることは、突き詰めればどんな人生を生きたいのかを自分に問うことにほかなりません。それこそが、この「豊か」な社会で幸福に生きるために必要な営みなのではないでしょうか。

 『欲望の仕掛け人』のインタビュー記事では、中村うさぎ氏のセリフは可愛いうさぎのアイコンで示してあるのですが、うちのパソコンにはうさぎの記号は出ませんでした。髙島社長と字数を合わせるために苗字での表記にしましたが…

2014年1月 5日 (日)

需要が枯渇した市場の中で頑張ることの意味 ニートは現代の衆生を救う修行僧か?

 前回の記事では、現代の日本国内の市場は需要が不足しており、資本主義経済の前提条件が揺らいでいるという点を指摘しました。今回は、需要が枯渇することによって個人が頑張って働くことの意味がどのように変わるのかということを考えてみたいと思います。

 そのためには、資本主義経済の仕組みを知らなくてはなりません。私の付け焼刃の知識でどこまで説得力のある考察ができるかわかりませんが、何事も挑戦が大事です。私が思う資本主義の最大の特徴は、人間の持つ欲求を健全な社会の形成にうまくつなげている点にあります。「たくさんお金を稼いでいい暮らしがしたい、有能な人間として認められたいという欲を満たしたいなら、それだけの価値のある仕事をしなさい」というルールが資本主義の根底にあるのです。
 これはじつにうまい仕組みです。人間には誰しも、程度の差はあれ、「他の人よりいい暮らしがしたい」「他の人より優秀だと認められたい」という欲求があります。仏教的には煩悩と呼ぶべきものでしょうか。そういういかんともしがたい欲求が、社会の必要を満たすための活動に結びつくように設計された仕組みが資本主義経済です。もともとの動機は「他の人より抜きん出たい」というどうしようもない欲求だったとしても、それが社会を形成する大義に結びついているのですから、働く側としてもじつに気分がいいものです。

 しかし、これはあくまで資本主義経済の前提である需要が十分に存在するという条件があっての話です。需要がなくなれば、社会の必要を満たし健全な社会を形成するという大義はその分薄れます。そして、「他人より抜きん出たい」という卑しい欲求が占める割合が大きくなります。私が「もともとビジネスってソーシャルなものなんじゃないか? 職業に貴賤はあるか」という記事で職業の貴賎はそのビジネスが社会の必要を満たすものかどうかで決まると主張したのはそういう理由からです。就職面接で志望動機を答える際の常套句として「御社の○○という事業を通して社会に貢献したい」という回答が挙げられますが、本当にその事業が人々の必要を満たし、社会の形成に重要な役割を果たしているかどうかはよく考えてみる必要がありそうです。

 さて、需要が枯渇している社会では個人が頑張って働くことの意味が様々な方面で変化します。「労働時間規制は必要だ 個人の努力にも規制は必要か?」という記事で単純化したモデルを用いて説明しましたが、個人が努力によって稼ぎを増やすことは、飽和した市場においては他者の取り分を減らさずには実現しません。社会全体の富の総量は変わらず、取り分の配分が変わるだけです。つまり「他の人より抜きん出たい」というどうしようもない欲求を満たす以上の意味を持たなくなります。たまに「たくさん稼いでいる人はその分たくさん税金を収めているのだから偉い」という趣旨の意見を耳にすることがありますが、結局他の誰かが収めるはずだった税金がその人に移っただけなので、税金の総額は増えません。「たくさん稼いでいるから偉いわけではない」というのは、もはや綺麗事ではなく、数字に現れる客観的な事実と言って差し支えないでしょう。たくさん稼ぐことが「偉い」という評価につながるのは、稼ぐことが社会の必要を満たすことにつながる構造が前提条件として必要なのです

 「労働時間規制は必要だ 個人の努力にも規制は必要か?」という記事でも説明したように、需要が枯渇した市場で頑張って働くことは、労力あたりの利益を引き下げる作用をもたらします。需要の枯渇は同じ水準の給料を維持するために必要な労力を引き上げます。すると、最低賃金を超える付加価値をもたらす労働を提供することの難しさが増し、結果としてニートが増えるというのは前回の記事で説明した通りです。もしみんながみんな、自分だけはレールから外れまいと、少しでも自分の取り分を増やそうと頑張ってしまえば、働いてお金を稼ぐことの難しさは無尽蔵に上がり続けます。そんな中、バイタリティの低い者から「こんな大変な条件では働けない」とドロップアウトしていきます。ある人は、そんな人たちを努力が足りない、根性がないと責め立てます。しかし、需要が枯渇しているという環境の変化を考えれば、働くことの大変さについていけない人が現れるのは当然のことなのです。それどころか、そういう人たちの存在は、働くことの大変さを可視化し、さらに働くことのハードルを上げる過当競争に歯止めをかける役割を果たしているのです。それはまるで、経済的な成功によっていい暮らしや他人からの評価を得たいという世俗的な煩悩から解き放たれた修行僧のようではありませんか。もちろん、ニートと呼ばれる人の多くは止むにやまれずそうなったというのが実態であり、主体的にその道を選んだ人などほとんどいないでしょう。ただ、日本に仏教が広まっていく時代においても、止むにやまれぬ事情から出家して仏門に入ったという人もいるという説もあります。歴史に詳しい方がこの記事を読んでくれたら、そのあたりの解説をお願いしたいものです。

 修行僧のくだりは半分冗談であるとして、この記事を通して言いたかったことは「働いてこそ立派な社会人」のような考え方の根拠がなくなりつつあるぞということです。立派な社会人とやらの肩書きを得るための競争が全く不毛なものに姿を変えつつあります。社会保障の負担を増やすお荷物のような存在として扱われるニートですが、職にあぶれるということはそもそも構造的に働く必要がない(働くことによって満たされる需要がない)ということになります。それがお荷物になってしまうような制度設計の問題であり、個人を責める前に「過労死するほど仕事があり、自殺するほど仕事がない」という状況をなんとかするべきでしょう。正月休みが終わり、明日から仕事始めという方も多くいるでしょう。みなさんはこの飽和した市場の中で何を目指して働きますか?

2013年12月28日 (土)

なぜブラック企業は生まれるのか2 産業構造は具体的にどう変わったのか

  ブラック企業や働き過ぎの問題をぐだぐだ考えているうちに年を越しそうなQ崎です。過労死などの問題は以前からあったにしても、ここまで社会問題として注目を集めるほど深刻に蔓延してしまったのはどうしてなのでしょう。12月に入ってから就職活動も解禁となりましたが、就活生たちは穏やかな気持ちでは新年を迎えられないのではないでしょうか。親の世代の人たちは、就活なんかしなくても誰でも企業の方から声がかかったと言いますが、そのころと今とでは何が違うのでしょうか。初めのうちは単純に法律を守らない企業への怒りが中心にありましたが、どうにも問題の根本的な解決を図るには企業が法律を破らなければやっていけないような構造をマクロな視点で見ていく過程が必要だと気がつきました。かなり前に「なぜブラック企業は生まれるのか やむなしブラック企業を救え」という記事を書きましたが、これはまさにそういう趣旨で書いたものでした。

  その記事では人材コンサルタントとして名を馳せる城繁幸氏の著書を引用し、高度成長期を終えた日本の産業構造の変化とそのなかでの企業の姿を分析しました。その箇所をここで再び引用しましょう。

かつて高度成長期には、少人数の社員(もちろん男性中 心だ)をフル回転で働かせることが、もっとも効率的な経 営とされていた。大量生産の時代だから、頭より体で覚えるほうが重要で、そうやって熟練した労働者をこき使ったほうが効率的だったのだ。日本の専売特許である「残業文化」「有休返上」といったカルチャーは、ここに根っこがある。ただし、経済が成熟すると、主導権は消費者の側に移る。大量生産ではなく、消費者の多様なニーズを汲み取ることが重要となったのだ。つまり、今度は体ではなく、頭で勝負する時代だと言える。男社会を基本とする年功序列は、既にその存在意義を半ば失っているのだ。

高度成長期を経ることで日本経済に生じた最も重要な変化は「経済が成熟した」の一言に尽きるでしょう。マーケティングに関する著書を読んでみても、マーケティングの高度化が求められてきた背景として「市場が成熟した」「消費者のニーズが多様化した」と、表現は様々ですが大体同じことを要因として挙げています。

  では、「経済が成熟する」とは具体的にどういうことを指し、どのような影響を私たちの生活におよぼすのでしょう。わかりやすくまとめている記事がありましたので、引用してみましょう。

連載「暮らしから見る身近な“経済”」第1回 「成熟期」を迎えた日本経済
成熟の意味
経済の成熟による具体的な変化としては、生産力の拡充にともなう経済的な「豊かさ」の実現と、経済成長のペースの鈍化の二つが軸になります。経済が成熟するプロセスでは、さまざまな産業が発展することで、商品やサービスの生産が増加して経済が成長し、人々の生活が豊かになるという望ましい変化が生じます。ですが、そうした変化が進むにつれて、経済が成長するペースは次第に鈍化していきます。人が大人になると、背が伸びなくなるのと同じです。かつて、人々が貧しかった時代には、衣・食・住をはじめとするさまざまな分野で、「これがないと生きていけない」というような切実なニーズや、そこまでではないにしても、「ぜひ欲しい」とか「すごく欲しい」といった明確な欲求の対象が存在していました。そういうニーズや欲求に対応する商品は、作れば売れる状況だったため、経済全体としても、ハイペースで成長していくことが可能でした。そして、経済成長の結果、人々は豊かになり、欲しかったものを次々と獲得し、欲求を満たしていったのです。ですが、切実な欲求が満たされてしまったことで、それに追加して何かを手に入れようという気持ちは、次第に切実さを失っていきました。「あった方がいい」とか「ちょっと欲しいかも」といった具合です。そのため、企業の側では、多くの人々が欲しがる新しい商品やサービスを開発しようという努力を続けているのですが、それがなかなか実を結ばなくなってきています。その結果、経済全体の成長ペースが低下していくわけです。経済の成熟によって、人々の暮らしは豊かになりましたが、成長ペースが鈍化したことで、企業にとっては厳しい状況が生じてきているのです。言ってみれば、「暮らしは豊かになったけれども、仕事はたいへん」という構図です。

「暮らしは豊かになったけれども、仕事はたいへん」まさにこの一言に尽きるでしょう。経済の成熟がもたらす影響をまとめた表現としてこれほど的確なものはないでしょう。しかし、ここで疑問が生まれます。便利なものが出回るようになるのだから生活が豊かになるのはわかります。なぜ「仕事はたいへん」になるのでしょうか。「切実な欲求が満たされてしまったことで、それに追加して何かを手に入れよう という気持ちは、次第に切実さを失っていきました。」という一節にそのヒントがあるように感じます。

 もう1つ経済の成熟について、面白いYahoo知恵袋の回答がありましたので、ベストアンサーをお読みください。
http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1154726001
さて、市場が成熟すれば消費者のニーズは多様化し、企業は生産する商品やサービスのバリエーションを増やさなければなりません。確かにそれは「仕事はたいへん」になる要素の1つですが、あくまで副次的なものです。本質は、知恵袋の回答で指摘されているとおり「市場飽和」にあります。「需要不足」と言ってもいいでしょう。便利なものが安価で手に入るようになれば、わざわざお金を払ってでも手に入れたいと思える商品やサービスの質はどんどん上がります。すると、同じ利益を上げるために企業が製品開発にかける労力は増えていきます。それは労働者が同じ水準の給与を稼ぐのに必要な労力も上がるということを意味します。これが、経済の成熟が「仕事はたいへん」に繋がる構図です。「成熟」「多様化」という表現は非常に前向きな印象を与えますが、「市場飽和」「需要不足」といった方が実態をより正確に表しているといえるでしょう。

 「やむなしブラック企業」が生まれてしまう背景を市場飽和という観点から考えてみました。市場飽和がもたらす影響は企業のブラック化から派生してどのような結果をもたらすのか、さらに考えてみましょう。
・非婚化、少子化の進行
  一家を養っていくのに十分な給与を稼ぐのに必要な労力の水準が上がっています。自身の生活を支えるのがやっとな労働者が増えます。
・ニートが増える
  労働者が最低賃金以上の付加価値を提供するために必要な労力が上がっています。どこにも働く場がないという人が増えるのも当然です。
これらの問題に対して「最近の若いものは…」と嘆く人の声もよく耳にします。しかし、同じ金額を稼ぐために必要な労力が今と高度成長期とではまるで違うという前提を無視して特定の世代や個人の資質に原因を求めるのは無理があるというものです。

  この国は勤勉な国民性のもと、資本主義経済を一気に推し進め、経済大国へと発展しました。頑張って頑張って推し進めた結果、資本主義経済を成り立たせるために絶対的に必要な要素である需要を枯渇させてしまいました。なんという皮肉でしょうか。これまでの前提が崩れつつあるなかで、私たちはいったいこの国の経済の在り方をどのような方向に持っていくべきなのでしょう。それは次回以降の宿題にしたいと思います。

2013年7月12日 (金)

末期資本主義の向こう側 労働時間規制と日本人ラテン化計画

 20世紀に入り、日本経済は重工業中心から情報・サービス産業中心の構造に移行してきました。産業資本主義の段階を過ぎた経済を後期資本主義や末期資本主義と呼びます。脱近代と呼んだりもするそうです。いろいろ呼び方はありますが、私は末期資本主義という呼称が好きです。大きく変わらざるを得ない緊迫感がヒシヒシと伝わってくる表現だからです。それは恐ろしいことであると同時に、新しい時代を迎えるワクワク感を感じさせるものでもあります。末期資本主義が産業資本主義とどうのように異なるかは、渡邊太氏の『愛とユーモアの社会運動論』に詳しく書かれていますので、関心のある人は一読してみてください。

 さて、以前書きました「労働時間規制は必要だ 個人の努力にも規制は必要か?」という記事を書きましたが、そこで指摘している市場飽和とは、まさに末期資本主義の1つの側面なのです。高品質の工業製品が安価に手に入るようになり、モノではなく情報やサービスを売らざるを得なくなったのです。便利なものは世の中に普及しているのですから、私たちはある意味理想郷に生きているのかもしれません。私たちは江戸時代には究極的に「選ばれし者」であった各国の大名よりも便利で快適な生活を送っているのです。しかし、実際の日本社会はどうでしょう。なぜこんなに便利なものがあふれており、十分快適に生きていくことができるはずなのに、過労死するまで働かざるを得ない人がいるのでしょうか。そのヒントになりそうなツイートを見つけました。

https://twitter.com/otakibot/status/347269645537013760
ベーシックインカムの議論じゃないけど、昔よりも色んな技術が発展して、生産効率が上がったんだから、遊んで暮らせたって本当はいいはずなんだよね。でもそうならないところに資本主義の最大の欠点があると思う。

なぜ私たちは、十分な食べ物も便利なものも手にしながら、遊びにかける時間を増やさないのでしょう。それは、企業が生産性の向上により生まれた時間の余裕をさらなる生産活動に費やしてしまうのと同じように、労働者も生産性の向上によって生まれた時間の余裕を余暇時間として活用せず、少しでも多くの給料を稼ぐために使ってしまうからです。私がブラック労働が生まれてしまうことの責任を労働者も負っていると考えるのは、この点があるからです。結局労働力の安売りをし、ダンピングを引き起こしているのは労働者なのです。しかし、時間的な余裕をさらなる生産活動に費やし、少しでも多く稼ぎたいという気持ちはごく自然なものであるように思います。資本主義社会において多くの労働者がそういう選択をしてしまうのも自然な成り行きと言えるでしょう。問題はその過剰さにあるのです。
 加えて、私たちの幸福は何も十分な食料と便利な生活用品のみによってもたらされるわけではありません。承認や尊敬と呼ばれるものはあくまでその集団の中での他者との比較により、相対的に優位に立つことで得られるものなのでしょう。みんなが大名レベルの生活をしていても、大名レベルの幸福感が得られるわけではないのです。私たちはそういう競争のなかに生きているのですが、やはり頑張りすぎてしまっては「普通」のハードルがどんどん吊り上げられ、苦しくなってしまいます。さすがにみんなで手をつないで同時にゴールしようというのは不自然ですが、やはり問題は過剰さにあるのでしょう。

 頑張りすぎることがデフォルトになっている背景には、産業テクノロジーの高度化もあるのでしょう。高付加価値の製品を低コストで生産できる機械が普及すれば、人間の提供する労働力の価値は相対的に下がります。こうして情報・サービス産業に移行せざるを得ない労働者が多く生み出されたわけですが、この状況は19世紀のラッダイト運動が起こった背景と非常に近いものがあります。なんてことを考えていたら、IT技術の普及の陰にネオ・ラッダイト運動なるものが起こっていたというではないですか。なぜ労働者たちは生産性を向上させる機械を打ち壊さなければならなかったのでしょう。それは、生産性の向上によって得られる富や利便性を資本家が独占したからにほかなりません。当時、労働者たちが取るべき手段は機械を打ち壊すことではなく、「機械を導入したことで得られる富を独り占めするな!こっちにも分け前をよこせ!」と主張することだったのではないでしょうか。こう考えると、社会全体の富の総量だけでなく、その分配の仕方が私たちの幸福にいかに大きな影響を与えるかが見えてきます。

 ネオ・ラッダイト運動が示唆するのは、高品質なものが安価で手に入り、相対的に労働力の価値が下がる現象が情報・サービス産業の分野にも及んでいるということです。私は社会科の授業で、産業には農林水産業などの第一次産業、製造業や工業などの第二次産業、情報・サービス産業などの第三次産業があると習いました。この第三次産業まで飽和してしまったら、私たちはどのようにお金を稼ぎ、生きていけばいいのでしょうか。健康で文化的な最低限度の生活を送るのに十分なお金を、高度な産業機械やIT技術が生み出すものより高付加価値かつ安価な製品やサービスを継続的に提供し続けることなど可能なのでしょうか。この問題が顕在化したものがワーキングプアであるという見方も可能になります。もちろん、そこには富の分配の問題もあるのでしょうが、もはや人間の能力の限界として、すべての人間が高度な機械より高い生産性を発揮することなど不可能なのでしょう。安部総理大臣は「日本再興戦略」なるものを策定したようですが、こういった市場飽和の問題をどのように捉えているのか、疑問は多々残ります。
新たな成長戦略 ~「日本再興戦略-JAPAN is BACK-」を策定!~

 一時期話題になっていたベーシック・インカムは、社会保障という文脈ではなく、市場飽和による資本主義経済の維持の限界から必要になると考えることもできます。働いて稼ぐことなど、一部のエリートに許された贅沢な行為になるのではないでしょうか。つまり、産業機械やIT技術の発達により可能になった「遊んで暮らす」を制度として実践しようというのがベーシック・インカムの発想であると私は考えています。何やら「遊んで暮らす」という言葉に「怠け」や「甘え」といった負のイメージを持つ人もいるかもしれません。しかし、「遊んで暮らす」は必ずしも「怠け」を意味するものではありません。先ほど指摘したように、承認や尊敬は競争に勝ち、相対的に優位に立つことで得られるものです。きっと私たちは衣食住が保障されたとしても、金銭を介さない形で競争を続けるでしょう。しかしそれは、現在では金銭を介して一続きになってしまっている「生存」と「承認」が切り離された形での競争です。失敗しても生存は確保されるので、芸術や芸能、スポーツの分野に失敗を恐れず人生のすべてをかけることも可能になるのです。また、少なくとも、過労死するまで働かなくてはならなかったり、働いても働いても貧しさから抜け出せない社会よりは「怠け」や「甘え」に満ちた社会の方がよほどマシだと言えるでしょう。
 といっても、ベーシック・インカムには財源の確保など、実践に至るまでに乗り越えなければならない問題は多くあります。さすがにいきなり「遊んで暮らす」を実践するのは無理があるのでしょう。では、段階的な移行措置としてどのような方法が考えられるでしょうか。

 いきなり「遊んで暮らす」のは無理でも、労働時間の上限を大胆に短くすることでそれに近づけることは可能なのではないでしょうか。発想としては、生産性の向上によって生まれた時間の余裕を、さらなる生産活動に充てるのではなく、素直に余暇時間として活用するという感じです。先ほど指摘した通り、わずかでも余暇時間が増えるなら、少しでも稼げることに時間を使いたいというのも資本主義社会に生きる人間の自然な感情ですから、ここは公的に制限を設ける必要が生じます。ここは大胆に、1日5時間、週に25時間以上の労働は法律で禁止してみてはどうでしょう。少子化の問題もバリバリ解消するかもしれません。「そんなことをしたら国際競争に負けてしまう」という指摘もあるでしょう。その通りだと思います。グローバル化の怖さは、この過当競争のフィールドが全世界に拡大される点にあるのだと思います。日本だけが規制を設けるのは理にかなわないので、市場が成熟している国には同じように規制を設けるように求める必要があるでしょう。むしろ現状において、すでに労働時間規制を実践しているヨーロッパ諸国(イギリスを除く)は新自由主義路線で長時間労働が常態化している国々に対し、抗議を起こしてもいいのではないか、私としては切実にお願いしたいレベルで抗議が当然だと考えています。世界規模で労働の価値のダンピングを防ぐことが必要なのでしょう。

 以前から経済アナリストの森永卓郎氏が提唱する「日本人ラテン化計画」が、私の主張とも重なるところが大きい気がするのですが、その全貌はまだ明かされないままです。様々な場面で語られるようになってきたワークライフバランスですが、その実これまで残業代を払ってやらせていた仕事も勤務時間内に詰め込んで経費を削減するといった従業員に寄り添うものでないものや、高付加価値のモノを短時間で生み出すことのみを指向し市場の飽和を加速させるだけのものアイディアもあります。そういう点を考慮すれば、人間の幸福に直結する本当のワークライフバランスは森永氏の提唱するものにあるように私は思っています。

2013年5月 1日 (水)

もともとビジネスってソーシャルなものなんじゃないか? 職業に貴賤はあるか

 今回の記事ではビジネスについて考えていきたいと思います。さて、ソーシャルビジネスという言葉が普及して久しいですね。ソーシャルビジネスとは、ざっくり言うと「社会問題の解決を第一目的としたビジネス」のことです。一般に言うビジネスは利益を得ることを最優先課題としているので、そこが最も大きく異なる点だと言えるでしょう。慈善事業と何が違うのかと言えば、一般的に慈善事業は無償で行うことが多く、その活動資金の多くは寄付や補助金で賄っています。すると、政府の財政状況や景気動向によって安定的に活動資金を得ることが難しくなってしまうという問題が生じてきました。そこで、事業自体に収益性を持たせることによって継続的に活動できるようにしようと考え、そうして生み出されたのがソーシャルビジネスというわけです。こちらの記事にわかりやすい解説がありますので、ぜひ読んでみてください。一方的な援助ではなく、被援助者の潜在力を高めるという点に注目している素晴らしい記事です。

第1回 社会を良くするビジネスって? ~社会起業って何?

 上記の記事でも触れていますが、あらゆるビジネスは社会の必要を満たすものであり(必要とされているものだから売れる)、そもそもビジネスとは社会的利益をもたらすものであるのです。これが、労働が尊いものとされる所以でしょう。また企業活動は、地域資源を活用したり、雇用を生み出したり、様々な利益を地域社会にもたらします。はい!ここでタイトルの「もともとビジネスってソーシャルなものなんじゃないか?」という発想が生まれるわけです。ところがどっこい、市場が成熟した現代においては必ずしもそうではなくなってしまっているというのが、今回の記事のメインテーマです。どっこい。

 終戦直後の日本では、いたるところで物資が不足していたわけですから、農業による食料品の生産はもちろんのこと、物を作ることは人々の生活の糧を満たすことにつながっていました。GHQによる財閥解体、農地改革、労働組合の育成も加わり、それまで貧しかった人にもお金が回るようになっていきます。そして、朝鮮戦争を背景とする特需景気により、日本は高度経済成長期を迎えます。生産技術の発達も相まって、電化製品の普及やインフラの整備が進み、人々の生活はどんどん便利になっていきました。まさにビジネス=ソーシャルという図式が成り立っていたわけです。もちろん、その背景には公害等の問題もあり、ビジネスの負の側面が顕在化しました。しかし、「物を作り売る営み」自体に社会貢献的な意味合いがあったという側面とは、ここでは切り離して考えたいと思います。そういった外部不経済の問題に関しては、関係する企業がコストを支払って当然解決するべき問題であることに議論の余地は無いように思います。

 時代が進み市場が成熟すると、この「物を作り売る営み」の意味合いが変わってきます。生活必需品は安価で手に入るようになり、便利なものも以前より手軽に入手できるようになりました。いまや子どもだって携帯電話を持つ時代です。「物を作って売る営み」が社会の必要を満たすという役割を担っていた時代では、マーケティングなど考えなくても商品は売れましたが、市場の成熟化とともに物を作れば売れるわけではなくなってきたわけです。企業としては「必要ではないが、あれば良い気分になれるもの」を生産し、また売る必要が出てきました。物を売るためには需要が必要です。いわばこの需要を作り出す(欲しいと思わせる)とこも企業の役割に加わってしまったのです。そのような状況を、社会学者の渡邊太氏は『愛とユーモアの社会運動論 末期資本主義社会を生きるために』の中でこのように説明しています。

 自己増殖する資本の運動は、生産されるモノとサービスの消費を要請する。資本が常食すれば、それだけ生産規模は拡大し、大量の商品が市場に投入される。大量生産のプロセスは、大量消費のプロセスによって補完されなければならない。生命維持のために必要なものを購入する段階を越えて、べつになくてもよいものを購入する消費行動が消費の主たる部分を占めるようになった段階は、消費社会と呼ばれる。(中略)
 消費への欲望は資本の運動によって要請されている。消費者が必要でないにもかかわらずモノを欲望するのは、資本の理論によって欲望を抱くべく促されているからである。だが、そうして新たに購入したモノは、すぐに魅力を失い、また別の新しいモノが欲しくなるだろう。モノは、死滅してこそ新たな生産と消費を駆動するからである。(中略)
 おそらく今日のわたしたちは、以前の世代と比べると何倍もの過剰な消費によって生活を組み立てている。だが、わたしたちは日々、ぜいたくをして暮らしているという実感をもっているだろうか。過剰に消費しながら生活を営んでいるにもかかわらず、むしろ余裕などなく、どうにかこうにか生活をやりくりしているという感覚でいるのではないだろうか。
 アメリカ社会におけるゆき過ぎた消費社会を批判したジュリエット・ショアは、消費社会では気前よく消費している充足感は得られず、どうにかこうにかやっているという感覚が低所得層から高所得層にいたるまであらゆる階層に共通する一般的感覚であると指摘する。(中略)
 そもそも消費への欲望が生じるのは、ショアによれば、消費主義の文化が人々のアイデンティティをとらえているからである。あなたが何者であるかは、あなたが何を買っているかでわかる(You are what you buy)というわけだ。これが地位を誇示するステータス競争の心理と結合すると、厄介である。(中略)
 人々がそれぞれに準拠集団を設定し、追いつけ追い越せ式に消費競争に励むと、お互いに遅れをとるまいとますます競争を加速化させていくほかない状態にいたる。人並みでありたいと願う中産階級的な欲望がここでも不幸なかたちで機能する。結果として、わたしたちは消費すればするほど余裕がない状態に陥る。収入が増加しても暮らしのゆとりがいっこうに生まれないのは、そのためである。追加所得があれば、わたしたちはその分、さらなる消費へと突き進む。年収が増加すれば、増加した年収に見合うだけの、いや実際にはそれを上回る消費水準の上昇がともなう。過労と浪費のマッチポンプである。どれだけ働いても暮らしは楽にならず、石川啄木でなくてもじっと手を眺めるほかない。

私たちには元来「人と違っていたい」「人より抜きん出ていたい」という欲求があります。その実現の手段として、消費というのは資本主義社会を背景として非常に相性がいいわけですね。企業が「欲しがらせる」ことに力を注いでいることをもっとわかりやすく示す例として、有名なものに国内広告会社最大手の電通の「戦略十訓」があります。現在では使われていないもののようですが、その中身を紹介しましょう。

1. もっと使わせろ
2. 捨てさせろ
3. 無駄使いさせろ
4. 季節を忘れさせろ
5. 贈り物をさせろ
6. 組み合わせで買わせろ
7. きっかけを投じろ
8. 流行遅れにさせろ
9. 気安く買わせろ
10. 混乱をつくり出せ

「無駄遣い」という露骨な表現からわかるように、必要のないものまで欲しがらせることをいかに企業が重視していたか、この社訓によく表れています。この社訓は1970年代に提唱されたものですが、高度成長の真っただ中においても、市場の成熟化は着実に進んでいたのでしょう。必要なものを生み出す社会から、必要ないものを欲しがらせる社会へと、私たちの生きる社会は姿を変えてきました。さて、こうして「欲しがらせる」ことによって生まれた消費はまだ「無駄遣い」というレベルのものであり、それ自体は仕方のないものなのかもしれません。しかし、「欲しがらせる」ことが問題化され、消費者庁が動かざるを得なくなる事態が生じました。ソーシャルゲームへの課金に対して規制が敷かれるようになった経緯に関しては、みなさんの記憶にも新しいとこだと思います。企業による「欲しがらせる」活動は、その方法や程度によっては社会にとって有害なものになるという社会的合意ができつつあるのでしょう。

 では、高度に成熟化した経済市場に生きる私たちは、どのように働き、お金を稼ぐことが求められているのでしょうか。それは、「社会に必要とされるものを作って売る」というビジネスの原点に回帰することであると私は思います。確かに、生活必需品は安価で手に入るようになりましたが、それで私たちの必要がすべて満たされていると言えるでしょうか。現在の日本においても様々な社会問題が存在します。それは、年間3万件を超える自殺の問題であったり、経済力による教育機会の不均等の問題であったり、急速に進む少子高齢化の問題であったり、枚挙に暇がないほど存在します。それらを需要として捉え、その解消によって利益を得ることができれば、それは社会の必要を満たす本当の仕事と言えるでしょう。ただ、それらに収益性があるのであれば、既存の企業がすでに事業として参入している可能性が高いと言えます。本来であれば、そのような事業は公共事業として政府が責任を持って取り組むべきものなのでしょう。しかし、そこに収益を得るための仕組みを開発することで、ビジネスの手法によってその解決が可能になるでしょう。その成功例として、病児保育を行うNPO法人フローレンスがあります。その収益性の難しさから取り組む団体がほぼ存在しなかった状況から、安定的に収益を上げる仕組みを開発し、少しずつ事業を拡大しています。

 それが簡単にできるなら苦労はしないよ、と多くの人が思うでしょう。それに、みんながみんなそういう善意で動くわけじゃないという意見もあるでしょう。その通りだと思いますし、どんな綺麗事を言ったってお金を稼がなければ生きていくことができません。しかし、そういう社会の必要を満たすビジネスだからこそビジネスとして成功するのだと主張する人がいます。それは、7万社以上のスモールビジネスを成功に導いた起業コンサルタントであるマイケル・E・ガーバーです。彼の起業家育成プログラムのエッセンスをかなり凝縮してまとめた著書、堀越吉太郎著『起業したい人への16の質問』では、企業理念を明文化した事業計画書を作るための16の質問項目を紹介しています。その初めの質問が「現在の社会において、あなたが一番解決しなくてはいけないと思っている問題は何ですか?」というものです。ガーバーは、成功を収めた偉大な起業家は社会的な夢、インパーソナルドリームをもとに事業を行っていると言います。その例として紹介されているのが、ノーベル平和賞を受賞したグラミン銀行の事業です。この本ではその他にも、従業員の7割が知的障害者である日本理化学工業や、海外難民視力支援活動で知られる富士メガネを紹介しています。ここまで読んだら「その本ってソーシャルビジネスの本なの?」と思うでしょうが、この本にはソーシャルビジネスという言葉が唯の一度も出てきません。おそらくガーバーはソーシャルビジネスというものを特別視していないのでしょう。彼は「ビジネスで成功したいなら、社会の必要を満たす事業を起こしなさい」と言っているわけです。それは市場が成熟しているか否かは関係なく、ビジネスの成功における重要な条件ということなのでしょう。

 「職業に貴賤はない」と言いますが、これは稼ぎの大きさによって単純に仕事の価値を図ることはできないということを意味する言葉です。しかし、これが成り立つには「いかなる職業も社会に必要とされているのだから」という前提が必要になります。私はここで「職業に貴賤はある」と言いたいと思います。その基準は、その職業によって得られる収入の大きさではなく、社会の必要を満たすビジネスであるかどうかということです。売り手が無理矢理ニーズを作り出すマッチポンプのような仕事より、現存するニーズを埋める仕事の方が価値は高いと言えるでしょう。そして、そのような価値の高い仕事ほどビジネスとして成功しやすいという背景は、これからの職業観を考えるうえで重要な要素と言えるでしょう。

5/9 追記
 経済についてわかりやすくまとめているサイトを見ていたら、こんな記述を見つけました。政治経済塾「日本の企業」より。

 というわけで、独占の進んだ業界の商品は、同じような価格で売っているものがほとんどです。缶ジュースは120円、ペットボトルは150円、板チョコは100円、アイスクリームも100円、肉まんは88円といった具合です。その結果更なる問題が発生します。通常、商品というのは、お客さんに買ってもらおうと思ったら、値下げすることもありますが、管理価格というのは値段が固定されています。だから、企業は値下げ以外の方法で商品をアピールするようになります。その結果、企業がよく夢中になるのが、テレビなどのCM競争だし、最近よく目にするのがおまけによる競争です。このような値下げによらない競争のことを非価格競争といいます。とにかく、値段を下げることができないわけですから、そのほかのイメージやおまけでその商品をアピールするわけです。でも、みなさん冷静に考えてください。「明治アーモンドチョコレートは、ベッカムに何億円という出演料を払うなら、200円を150円ぐらいにしてくれよ!」「ペプシ・コーラはガンダムのボトルキャップを作る金があるんだったら150円を130円ぐらいにはできるだろ!」というわけで、けっこうこの非価格競争というのも、消費者にとってはよけいなものだといえるのかもしれません。

 さらに、管理価格というのは値段が上がる一方で下がらなくなる価格の下方硬直化と呼ばれる現象も引き起こします。その会社のブランドというのがますます強力になり、しかも、CMなどの非価格競争に会社がお金をかけ過ぎるとその経費を商品の値段に上乗せするために、その商品の更なる値上げが引き起こされます。というわけで飛垣内が中学生の時には缶ジュースは100円だったのが、その後110円、120円と値上げされていきました。これはそれぐらい値上げしても売れるという自信をジュース業界のプライス・リーダーであるコカ・コーラが持っているからと、オリンピックのスポンサー料や多額のCM制作費などで経費が多くかかるようになってきたような背景もありました。少数の独占企業がもうけを増やすために価格を引き上げていく・・・、管理価格はまさに消費者の敵であると思います。

 
 
必要とされていない物を売るためには、販促のための費用をたくさんかけます。そして、その経費は価格に上乗せされます。「欲しがらせる」ためにかかった費用を最終的に負担するのはその商品を買った消費者です。究極的なマッチポンプというか、資源を効率的に分配するという経済活動の本文から大きくズレたところに現代の経済はあると言えるのではないでしょうか。

2013年4月12日 (金)

「やむなしブラック企業を救え!」って具体的にどうするの?

 以前「なぜブラック企業は生まれるのか やむなしブラック企業を救え!」なんて記事を書きました。その中で、執筆活動も盛んな人事コンサルタント城繁幸氏の『3年で辞めた若者はどこに行ったのか アウトサイダーの時代』を取り上げ、ブラック企業が生まれる構造を分析しました。そこで引用した一節を再度引用したいと思います。

 かつて高度成長期には、少人数の社員(もちろん男性中心だ)をフル回転で働かせることが、もっとも効率的な経営とされていた。大量生産の時代だから、頭より体で覚えるほうが重要で、そうやって熟練した労働者をこき使ったほうが効率的だったのだ。日本の専売特許である「残業文化」「有休返上」といったカルチャーは、ここに根っこがある。
ただし、経済が成熟すると、主導権は消費者の側に移る。大量生産ではなく、消費者の多様なニーズを汲み取ることが重要となったのだ。つまり、今度は体ではなく、頭で勝負する時代だと言える。男社会を基本とする年功序列は、既にその存在意義を半ば失っているのだ。

経済が成熟し、大量生産ではなく消費者の細かなニーズに対応できる多品種少量生産に切り替えなくては、企業はこれまでと同じような利益を上げることができない時代に入りました。その市場の変化に対応できず、本来とっくに倒産しているところを社員を長時間働かせることで無理矢理生きながらえているのがブラック企業の実態であると、前述の記事でまとめました。そのような状況にあって、「経営力のない企業が倒産するのは当然だ。社会正義のためにブラック企業は潰すべきだ」という主張をよく耳にします。この主張は至極真っ当なものであり、ブラック企業はそのように淘汰されていくべきものです。このブログを書き始めた当初は私も単純にそう考えていましたが、今では手放しで賛成はできません。それは、現在の日本社会が「やり直しが利かない」と言われる通り、失業した際の社会保障が手薄で再出発が非常に難しい状況にあるからです。ひとたび会社の倒産となれば、経営者、従業員共々文字通り路頭に迷うことになりかねません。順番としては、社会保障制度の改善により「安心して倒産(失業)できる社会」を作る方が先なのです。しかし、それは利害関係者が政策決定の場に参加するコーポラティズムの土壌のない日本では、経営者や労働者の立場で即時に実現できるものではありません。であれば、企業の経営方針を変化の急速な市場に対応させ、社員を長時間働かせなくてもやっていけるようにすることが、目下ブラック労働をなくすために取り得る有効な手段と言えるでしょう

 とは言え、年功序列と終身雇用を基盤とした日本の伝統型人事管理は多くの企業で長年実践されてきたものであり、市場のニーズに細やかに対応するために経営体制を改善するのは容易なことではないでしょう。そう考え始めた矢先、1冊の本に出会いました。それが、今野浩一郎氏の『正社員消滅時代の人事改革』です。どんなことが書かれた本なのかというと、「消費者の多様なニーズに応えなければ商品が売れなくなった」という経済市場の変化と「勤務時間や勤務内容に何らかの制約がある社員が多数派になりつつある」という働き方のニーズの多様化に対応するため、多元型人事管理に変えていこうという提案です。濱口桂一郎氏のブログにとてもわかりやすいまとめがありますので、そちらも参照してください。

 なにはともあれ、今野氏の提案をまとめてみましょう。『正社員消滅時代の人事改革』の第1章から第2章では、先ほど引用した城氏の市場の変化の分析と同様の指摘を、さらに細かく述べています。

わが国企業をとりまく市場環境は、「作れば売れる」市場から、「作っても売れないかもしれない、変化が速く不確実性の大きい」市場へと変化してきている。そのなかで企業は、経営目標を売上高や生産高等の経営規模を重視する伝統型から収益性や資本効率を重視する現状型に変えてきており、株式の持ち合いが縮小する、企業の資金調達が間接金融から直接金融に転換する等の資本・金融市場の変化もその動きを促進している。

そのなかで企業が生き残るには、市場が必要とする、それも付加価値の高い製品・サービスを迅速に生産し販売することが求められる。つまり、市場が「何を生産し販売するのか」を決め、企業はそれに追随するという傾向が強まるので、そこで展開される経営戦略は、市場のニーズを組織のなかに取り込んで戦略を立てるという意味から、マーケットイン型(あるいは市場決定型)にならざるをえない。

そのような経営戦略の転換は、社内での評価や働き方の変化を必要とすると今野氏は述べています。

しかし現状型になると、経営目標がプロセス成果から最終成果に転換し、組織が仕事の進め方の決定を現場に任す形態に変化するので、部門(個人)の業績を管理する仕組みは、仕事のプロセスではなく仕事の結果(成果)で管理し評価する傾向が強まる。
(中略)
 このように業績管理が結果を重視する方向に変化すると、部門(個人)にとっては、目標が納得できる形で設定されることが重要になるので、部門(個人)と会社(上司)が相談して目標を決める契約型の形式をとる傾向が強まる。多くの企業が導入している目標管理は、この契約型の仕組みとして機能している。これによって部門(個人)は目標の設定にコミットすることになるので、仕事のプロセスにとどまらず結果に対しても責任をとるということになる。

今野氏は、このように仕事の進め方の裁量を得て結果に対して責任を持つ働き方を組織内自営業型の働き方と呼んでいます。第3章でこれまでの伝統型の人事管理の限界を論じ、第4章では制約社員の増加という労働市場の変化に応じた人事管理の必要性を述べています。

労働市場の供給構造[働きたいと思っている人(労働力と呼ばれる)の特徴]は、少子高齢化を背景にして労働力人口が縮小する、女性、高齢者が増え労働力の構成が多様化するという二つの方向で大きく変化している。

この問題を解決するために企業がとれる基本的な方法は、採用対象層を拡大することである。新規学卒者総数が半減したとしても、たとえば、男性中心にしていた採用対象範囲を女性にまで拡大すれば、採用対象層は二倍に増加し過去のピーク時と変わらない規模になる。企業はもともと、経営の高付加価値化を実践するために「より高度な人材」の確保が必要とされ、そのためには、採用対象範囲を拡大せざるをえない状況におかれている。しかも、それを労働市場の人材供給力が低下するなかで行わなければならないのであるから、採用対象範囲は大胆に拡大される必要があるはずである。

このようにみてくると、企業で働く社員は無制約社員と多様なタイプの制約社員から構成されることになるが、ここで注意したいことは、制約社員が多数派に、無制約社員が少数派になりつつあることと、労働市場の多様化のなかで、その傾向がますます強まりつつあることである。(中略)そうなると社員の求める働き方は様々な制約と両立できる働き方へと変化し、人事管理はそれに合わせて再編される必要が高まるのである。

正社員と同等あるいはそれに類似した基幹的な業務に従事するパート社員が増えていること等を考えると、企業にとって、パート社員を有効に活用し、パート社員に意欲をもって働いてもらうことが重要な経営課題になりつつある。そうなるとパート労働法のいかんにかかわらず、企業は制約社員であることを配慮したうえで、パート社員を有効に活用し、適性に処遇するために人事管理を整備することが求められているのである。

第5章は「制約社員活用は世界の潮流」というタイトルで、欧米諸国で採用されている多元的人事管理が企業利益にいかに貢献しているかという事例を紹介しています。

改めて定義すると「ダイバーシティー・マネジメントとは、多様な人材を組織に組み込み、パワーバランスを変え、戦略的に組織改革を行うことである。ダイバーシティー・マネジメントの第一の目的は組織のパフォーマンスを向上させることにある」ということになり、そこでは人材の多様化(ダイバーシティー)が進むと、組織内の統合やコミュニケーションが阻害される等のコストが発生するものの、異なる情報、価値観をもつ多様な人材からなる集団が形成されることにより組織の創造性、問題解決力等が高まり経営パフォーマンスが向上するという関連が想定されている。

第六章では、伝統型人事管理を「1国2制度型」と呼び、改めてその形式の人事管理を維持していくことが困難となる背景を説明しています。

以上の「1国2制度」を支える無制約社員は基幹社員、制約社員は周辺社員という関係が様々な場面で崩れつつあり、基幹社員についてはライフスタイルと働くニーズの多様化がその背景にある。まずは親等の介護に直面する基幹社員、それも男性の基幹社員が増えつつあることが問題になる。

総務省の『労働力調査』によると、全労働者に占める六〇歳以上の比率は一七・二%(二〇〇九年)であり、今後も増加すると見込まれている高齢社員は全社員のほぼ五人に一人という時代になっている。これほどまでに拡大してくると、現役時代と異なる仕事を作ることは難しくなるうえに、経営の視点からみても本気になって有効活用をはからざるをえなくなるので、企業はますます現職継続型の活用政策をとると考えられ、それは高齢社員の基幹社員化を進めることになる。

「優秀な人材には高度な仕事を配分して、それに合った報酬を提供する」。この人事管理の基本原則に従えば、制約社員、無制約社員にかかわらず人材を活用するという多元型人事管理が優れているということになるが、それとともに第1章でも説明したように、高付加価値型経営を志向するわが国企業は人材活用力を高める必要があり、有能な制約社員を制約社員であるとの理由で活用しないことの損失は大きい。しかも、無制約社員の制約社員化が進みつつあることを踏まえると、現状の人事管理では、無制約社員の活用力も低下する恐れがある。

第7章では、多元型人事管理を実践する具体的な方法について詳しく説明しています。

第一には、会社(職場では上司)は社員(部下)に何の仕事を配分し、何の成果を出してほしいのかを、部下は上司から何の仕事を受け、何の成果を出すかを明確にする必要がある。第1章で説明したように、「どのような仕事を担当するか」が期待役割、「仕事を通してどのような成果をあげることが期待されているのか」が期待成果にあたり、両者を合わせて「業務」と呼ぶと、成果主義化に伴い「業務の明確化」が必要になる。「業務の明確化」がないままに、つまり明確な基準がないままに、仕事と成果に基づいて評価され報酬が決定されるとしたら、社員は人事管理に納得できず、労働意欲を低下させることになるだろう。

しかし、前述のように成果主義化が進むと、業務内容と配置される職場によって報酬とキャリアが左右されることになる。社員にとって業務と職場の決定にあたって自分の意志を反映させる機会をもつことが、具体的には上司あるいは会社と話し合い、納得したうえで決定を受け入れるというプロセスを踏むことが大切となる。働き方の組織内自営業主化が進めば、社員が顧客(つまり上司・会社)から仕事を受注する(仕事を受ける)にあたって当然必要になることなのである。ここでは、これを仕事配分と人材配置の交渉化と呼んでいる。

第7章では、これらの背景を考慮し、社員の目標管理制度や自己申告制度、社内公募制度が多元型人事管理を実践するために有効であると述べています。第8章では報酬管理という観点から多元型人事管理の実践を説明しています。

賃金を決めるための要素は労働意欲、能力、仕事、成果の四要素であり、企業が競争する市場は成果の先にある。伝統的賃金はこのなかの市場から最も遠い位置にある労働意欲と能力を重視する点に特徴があり、それゆえに市場環境の変化に対応できないという困難に直面している。そうなると賃金決定法は市場に近い、つまり市場の変化に対応しやすい仕事と成果の要素を重視する方向で再編される必要があり、それは働き方の組織内事業主化に対応する再編と同じ成果主義化の方向である。

根幹的な部分しか引用しませんでしたが、本書では多元型人事管理の実践の手法が非常に細かく具体的に説明されており、多くの企業経営者に読んでもらいたい良書と言えるでしょう。ワークライフバランスにも触れており、ブラック労働の解消という観点からみても、本書には大きな実行力があると感じました。さて、本書が説明する人事管理の転換の必要性から企業のとるべき方策をまとめると、以下のようになります。

・市場の成熟
・経営戦略がプロダクトアウト型からマーケットイン型へ
・プロセス成果ではなく最終成果が評価される組織内事業主型の働き方へ
・成果主義型の人事管理と契約型の仕事配分
・仕事配分と人事配置の交渉化
・それを実践するための手段として、業務の明確化、目標管理制度、自己申告制度、社内公募制度の導入

ざっくり説明すると、これまで日本の雇用慣行として根強くあったメンバーシップ型の雇用からジョブ型に切り替わることを示しています。ジョブ型に移行すればすべてが解決するわけではないという批判もありましたが、本書はジョブ型に移行するための有効なステップを説得力のある根拠を挙げながら説明しています。そういった雇用問題に関心のある人も、ぜひ本書を手に取ってみてください。

2012年4月 1日 (日)

「ホワイトアクション事例集(仮)」作成委員会発足!

 昨日3月31日に新宿において「ホワイト企業連合(仮)」実行委員会結成オフ会を開催しました。この記事では、そこで議論された内容と今後の活動の方向性を報告したいと思います。オフ会に参加してくださったのは私以外に8名の方々でした。一般企業に勤めている方、労働組合で労働運動に携わってきた方、社会保障を専攻する学生の方など、様々な立場から活発に意見が交わされました。また、連合通信社の記者の方も取材に来ていただきました。今後も活動の動向を追っていただくことになるでしょう。

 オフ会では、初めに私が用意した資料をもとに簡単な勉強会を行いました。補足のために使わせていただいた資料をここでの紹介しておきます。
 経済トレンド 不況下で増加するサービス残業

 「なぜブラック企業は生まれるのか やむなしブラック企業を救え!」でも書きましたが、日本特有の経営スタイルを改めることで日本社会全体にこんな利益が生まれるよ~という点をご理解いただければと思います。
 
 さて、ここまでお読みいただいたみなさん、きっと「委員会の名前が変わっとるやないかい!」とお思いでしょう。そうなんです!あくまでまだ仮称ですが、委員会名を「ホワイトアクション事例集(仮)」作成委員会としました。名称が変われば当然活動の方向性も変わるわけですが、どのように方向性が転換していったのかまとめてみましょう。そのスタート地点として「企業に活動の主体を担ってもらう」ことの難しさに焦点が当たりました。それは・・・

 ・ホワイト企業の選定基準を明確に定めるのが難しい(制度としてのサービス残業は存在せず、残業を拒否できない「空気」の有無を判定しなければならない)
 ・ホワイト企業選定の際の実態把握が難しい
 ・ある企業が「我が社はホワイト企業である」とアピールすることのメリットが、企業にとって大きくない

 ざっくり挙げるとこんな感じになります。なかなかシビアではありますが、参加者の方々が企業側のリアリティをうまいこと指摘してくれました。また、こういったことを議論していく中で「そもそもホワイト企業ってどういうことを目指している企業?」という確認がなされたので、そこにも触れたいと思います。「なぜブラック企業は…」でも触れましたが、ブラック企業と呼ばれる企業の中にはブラック経営を行う以外に生き残る手段がなくなっているものが多くあります。私が規定する「ホワイト企業」は「(慈善事業ではなく)生き残り戦略として画一化した経営スタイルから脱却し、独自の経営スタイルを確立している。時代に即した合理的な経営スタイルの一環に、労働者や就活生の利益を考慮している」というものです。私が今回の企画を計画する前提として「企業は利益追求団体であり、慈善活動を行うものではない」という発想があります。ですので、この企画の要点は「企業と労働者の利益の共通するところを明らかにし、その部分への注目度を高め最大化していく」ということになります。俗にいう「win-winの関係」ということですね。

 さて、「ホワイト企業」を「生き残りのために労働者とのwin-winの関係を目指している企業」と改めて定義したわけですが、それを「企業」という単位で考えることに限界があるというのが、昨日のオフ会で導かれた結論です。事業の一つとしてそういうものを目指している企業はあっても、企業全体としてホワイトではない例もあるでしょう。そこで、私たちは「そういった取り組み一つ一つの情報を集め、主に就活生や転職希望者に紹介していく」という手段を取ることにしました。あくまで企業選択のヒントとなる情報を提供するにとどめるけれど、それが企業と労働者のwin-winの関係を高く評価する世論を形成していくことになると考えています。社会にそのような土壌ができれば、企業はおのずからそういった実践をアピールし、もしかしたら企業同士の連携や合同就職説明会も実現するかもしれません。もちろんその過程で、その事業の関係者とコンタクトを持ち、連携して何かを行うということもあるでしょう。当初の計画に比べると遠回りになった印象もあるかも知れませんが、今私たちができることとして最も有効性の高いものを考えることができたと感じています。もちろん様々なアイディアがまだまだあると思いますので、メールでもコメントでもどしどし送っていただければと思います。

 そして、もちろんwin-winの関係を目指す企業の取り組み関する情報も随時大募集です!実行委員会としては、収拾した情報を整理し、発信するためのホームページの作成を活動の第一弾として行いたいと思います。今後も活動の動向にご注目ください。

 
 

 ツイッターに「ホワイトアクション事例集」のアカウントを作りました!
 ぜひフォローして、告知にご協力ください。
 ID:@white_action_

2012年3月 6日 (火)

なぜブラック企業は生まれるのか やむなしブラック企業を救え!

 これまで散々ブラック企業撲滅を訴えてきたQ崎が、ここにきて「ブラック企業を救え」と言い出しました。これはいったい何事なんだ、と思った方もいるかもしれません。今回この記事を書くに至ったのは、ある一冊の本との出会いがあったからです。それがこちら。

城繁幸『3年で辞めた若者はどこへ行ったのか アウトサイダーの時代

何気なく手にした本ですが、本当に大きな衝撃を受けました。まず私が惹かれたのはそのタイトルです。私はこのタイトルを読んだとき「3割の新入社員が入社3年以内に職場を去ると言われて久しい。ブラックな待遇の職場に適応できず(もちろん退職理由の全てがそれではない)辞めざるをえなかった人達がどのような人生をその後送っているのか気になる」という動機で手に取りました。しかし、読んでみると内容は全く違うものでした。そこで取り上げられていたのは、もはや維持が困難になった社会のレールに見切りをつけ、アウトサイダーとしての道を突き進む新時代の「成功者」たちの姿でした。この一冊は変化の激しいこれからの時代を生き抜く個人の生き方や、企業や社会のあるべき姿を提案する示唆に富んだ本であり、一読を強くお勧めします。今回の記事では、「年功序列賃金制とサービス残業を前提とした日本的経営による企業の発展が限界を迎えている」「その副産物としてブラック企業の蔓延が生じる」という側面から、この本を解説していきたいと思います。

 ブラック企業のことを話題にすると「たしかに問題だよね。でも、労働基準法を守っていたら経営が成り立たなくなる企業もいっぱいあるんじゃないかな。」という意見をよく耳にすることになります。このことは、私がブラック企業撲滅を訴える上で常に心に引っかかっていた問題で、本当のところ「完全に全ての企業が労働法規を守るようにするためには、多くの企業(主に中小企業)が淘汰の憂き目に遭うだろうし、もしそうなれば社会全体が大きく変わる大事件だ。そこまで大それたことを自分は目指しているのか?」という想いに駆られることもありました。その想いは未だに引っかかっているのですが、その中である発見がありました。それは、ブラック企業にもタイプがあるということです。デモを行った際に私がイメージしていたのは、労働者からの搾取により不当に報酬を得て私腹を肥やす経営者の存在する企業です。まさに真性ブラック企業といえるでしょう。わかりやすい悪ですね。その一方、リーマンショックにデフレ、おまけに円高に震災と企業がピンチになる要素がこれでもかと押し寄せる昨今、本当に経営が苦しくてブラック的な経営をしなければ企業が維持できないというケースも少なからず存在するはずです。経営者の横暴ではなく経営不振のためにブラック経営を行わなければならない、そのような企業をここでは「やむなしブラック企業」と呼ぶことにしましょう。さて、『3年で辞めた若者はどこへ行ったのか』では、この「やむなしブラック企業」が現在の日本社会に少なからず存在するというレベルではなく、日本企業の多数派であると書かれています。

 かつて高度成長期には、少人数の社員(もちろん男性中心だ)をフル回転で働かせることが、もっとも効率的な経営とされていた。大量生産の時代だから、頭より体で覚えるほうが重要で、そうやって熟練した労働者をこき使ったほうが効率的だったのだ。日本の専売特許である「残業文化」「有休返上」といったカルチャーは、ここに根っこがある。
ただし、経済が成熟すると、主導権は消費者の側に移る。大量生産ではなく、消費者の多様なニーズを汲み取ることが重要となったのだ。つまり、今度は体ではなく、頭で勝負する時代だと言える。男社会を基本とする年功序列は、既にその存在意義を半ば失っているのだ。

著者は、旧体制の企業ならさらに採用数を絞り、残業時間を増やし、出産や育児で休職されたら会社が回らなくなるためスタッフは全員男性で固める、と続けます。そして、スタッフ全員がこんな方針に従うはずもなく辞めていくため、高額の求人広告をあちこちに打ちつつ、残った社員の更なる努力を求めることとなる。その結果、会社は汗臭い残業バカしか残らなくなり、手厚いサービスも細やかな気配りも望むべくもない。そして著者はこう締めくくります。「文字にすると実に馬鹿げた会社だが、これはまさに現代の日本社会の縮図なのだ。」
つまり、消費の動向が変わり、大量生産では生き残れなくなったにも関わらず経営方針を抜本的に変えることをせず、経営が苦しくなった結果ブラック化することでなんとか業績を維持する会社が生まれ、いまやそのような企業が多数を占めるというわけです。

日本の企業が古来の日本的経営にしがみつき続けることの弊害は、企業のブラック化に止まりません。その他にも「優秀な人材の流出」という問題が生じます。日本企業が他国の企業との比較においてどのような印象を持たれているか、引用してみましょう。

 李さん(フィールドワークのため来日していた中国人研究者)が何より驚いたのは、日本人労働者の忠誠心の高さだ。個人の権利を主張することもなく、黙々と会社のために深夜まで働く。「プロジェクトが成功したら来季の年俸は二倍」だの、「上場すればストックオプションで資産十億円」だのといった見返りは何も無いにもかかわらずだ。基本的に日本以外の国に、滅私奉公という感覚は存在しない。
「例えば異動や配置について、会社が一方的に決定したものを本人に通知する。一流大学を出た幹部候補までそれに従う姿は、ちょっと他の国ではみられないものです。」
(中略)
「長時間残業、低い年休取得率。特に男性は、みなさんまるで職場に縛り付けられるようにして生きている」
 

 日本人の愛社精神は、単に他の選択肢が無いことの裏返しでしかない。これこそ、彼女の感じた閉塞感の正体だろう。
「日本、中国、イギリス、アメリカ。また、世界中からやってくる留学生たちを見ても、日本が豊かな国だとはとても思えない。少なくとも個人が精神的に満ち足りた国ではないでしょう」

 都内の大学三年生主体の勉強会に参加した時の話だ。どういう分野に興味を持っているのか知るために、僕は最初にある質問をぶつけてみた。
「ところで、君たちの就職の第一希望はどこですか?」
ふんふん、どれどれ、ソニーかトヨタか、それとも商社か電通か。あるいはランキング常連のJALかJTBか。
しかし、彼らの口からは、それら大企業の名は一社たりとも出てはこなかった。なんと三〇人中二九人が、外資系企業の名を上げたのだ(ちなみに、残り一人はテレビ局)。一人ずつ志望先を聞いていくうち、だんだんと顔がこわばっていったのを覚えている。
大学名や就職活動に対する真摯さから見るに、彼らは九〇年代であれば、恐らく日系金融機関や官僚といった道に進んでいた層だろう。少なくともそんな彼らは「日本企業が割に合わない」という事実に、とっくに気づいているのだ。要するに「やる気があって前向きで、アンテナの高い学生たち」から、日本企業の側が見捨てられているわけだ。

現在、先進国間で、国境の壁を超えた人材の争奪戦が起きている。留学枠やビザを整備し、新興国から優秀な人材を呼び込むことが、グローバル化の中で生き残るために重要な戦略だからだ。ところが、少なくともホワイトカラー希望者で日本行きを第一希望とする人間は皆無に近い。東アジア出身学生も、第一志望はまず英米圏の大学だ。
語学の壁を指摘する向きもあるが、それはいいわけだろう。中国人学生に対する意見調査において、外資系企業がTop50の過半数を超える中、日本企業はかろうじてソニーが三八位に食い込むのみだ(二〇〇六『新浪財経』調査)。この傾向は中国だけでなく、東南アジア、ヨーロッパなどで同様の調査をとってみても、日本企業はTop10どころか、下手をすれば地場企業にすら負けている。理由の多くは「日本企業は待遇が低く、その後のキャリアも見えづらい」という点に集約される。日本の若者も、同じ事実に気付いたということだろう。「若者がバカになった」のではなく、「日本企業のメッキが剥がれた」という方が正しい。

だいぶ長くなりましたが、日本企業が海外の企業に比べいかに人気がないかがおわかりいただけたのではないかと思います。日本企業のダメなところをまとめると、以下のような点が挙げられます。
・勤務時間が長く、プライベートな時間を持ちにくい。
・異動や配置について企業が絶対的な権限を持っている。
・その割に給料が低い。
・どのようなキャリアが身につくのか見えづらい。

以前「新しい豊かさの指標」という記事にも書きましたが、豊かさは所得や資産のみによって決まるのではなく、自由に使える時間も重要な意味を持っています。個人の自由な時間を著しく拘束する日本企業での勤務は、世界的に見ればかなり非合理的なものだと言えるでしょう。他国の通貨に対し円の持つ価値は高く、これまでは日本への出稼ぎ労働者も多く存在してきました。しかし、現在はそのアドバンテージを持ってしても日本企業が「地場企業にすら負ける」という現状があります。「いくら稼げても日本企業で働くのは嫌だ」という人が増えているのです。そして、優秀な人ほど日本企業を避けるという現象は、多くの日本人労働者も「生きるために仕方なく」日本的経営に従っているのだという実情をあぶり出します。きっと「愛社精神」「企業戦士」という言葉は、そういった現実を肯定せざるを得ない人達の心を慰めるための後付けなのでしょう。あまり深く考えなくても、「休みが多い方が幸せだ」「仕事に自由な時間を奪われるのは不幸だ」という意見には多くの人が賛成してくれると思われます(もちろん仕事に特別な想いを抱いている場合や、職業の専門性によっては一概には言えません)。「ブラック企業」という言葉の普及もあり、そういった価値観がこの日本でも広まりつつあるようです。

 日本の労働者は一致団結して企業に尽くし、企業はその見返りとして安定した雇用と昇給を提供してきました。高度経済成長期には、そういった経営方針はたしかに理にかなっていたのでしょう。新しいモノを作れば飛ぶように売れ、生活はどんどん便利になっていった時代です。しかし、日本社会も大量生産の時代から、多品種少量生産の時代に移り変わりました。たくさん働けばその分だけ企業に利益を生み出す時代は終わりを告げようとしています。となると、終身雇用や年功序列賃金制といった日本独自の経営スタイルは、これ以上維持が難しくなってきます。それは、これらの制度が経済成長と人口増加を前提としたものだからです。これは年金制度の維持が困難になっている状況と似ています。『3年で辞めた若者はどこへ行ったのか』の著者は、それらの制度を改め、欧米のような職能給に切り替えるべきだと提案しています。日本企業に勤めている社員の待遇は、終身雇用や年功序列賃金制のおかげで「滅多なことでは解雇されない(これも最近では危うくなっているが)」「一度上がった給料は基本的に下がらない」というものになっています。社員が企業に対してもたらす実質的な利益と社員が受け取る見返りが一致しないのは言うまでもありません。その結果、社員の年齢構成によって人件費のコストが大きく影響を受けるという事態が生じます。また前述したとおり、リーマンショックにデフレ、円高に震災など、企業の経営を圧迫する出来事が立て続けに生じました。すると、企業は人件費の負担を増やさないために、まだ賃金が安く済んでいる若手社員の給料をできるだけ上げないという手段を取りました。それを非正規雇用者の割合の増加という形で実現させたのです。その結果、世代間格差、正規非正規間格差が拡大し、ワーキングプアや貧困の問題が生じたのです。図録正規雇用者と非正規雇用者の推移によると、2011年には非正規雇用労働者の割合は35.4%と過去最高を記録したそうです。年齢、性別による分類はこちらをご覧ください。格差は経営者と労働者の間のみに存在するのではなく、同じ立場の労働者の間にも生じているのです。

 また、『3年で辞めた若者はどこへ行ったのか』のコラムの一つに「格差のなくし方」というタイトルのものがありました。今の私にとっては思わず飛びついてしまうようなタイトルですね。このコラムには、日本的経営システムを見直し、職能給を取り入れることが日本社会にどのようなメリットがあるのかをまとめています。とても重要な内容なので丸ごと引用したいほどですが、書くのも読むのも大変になってしまうので要点だけお伝えすることにします。職能給を取り入れることによるメリットをまとめると以下のようになります。

・立場の違いによる待遇の差が縮まり、同一労働同一賃金に近づく
・年齢給で高コストになる中高年がリストラの対象でなくなる
・勤続年数に穴が空き、結果として高コストになる可能性のある女性の待遇が改善される
・雇用流動化により適正な労働市場が形成され、企業間格差が縮小される。

一言でまとめてしまうと「もらいすぎてるやつから、足りてないやつに利益を回そうぜ」という主張です。それは私のこれまでの主張と変わりありませんが、「もらいすぎてるやつ」が誰を指すのかが全く違います。この本の著者は、非正規労働者からの搾取により潤っている「正社員」がそれにあたるとしています。私は「反貧困世直し大集会2011 公務員も民間の社員も連帯せよ!」という記事で「立場の違う労働者が互いの賃下げを要求するのはいけない」と主張しましたが、経済成長の停滞により得られる富の総量が限られている以上、もらいすぎている層の取り分を引き下げるよう要求するのは必然のことと考えなければなりません。その前提として、誰がもらいすぎている層なのかを適切に見極めなくてはなりません。そして、その見極めに経営者や労働者という肩書は関係ありません。いわゆる「公務員叩き」は労働者の足の引っ張り合いという点だけでなく、その点を曇らせてしまうという点においても問題があると言えます。

 さて、この『3年で辞めた若者はどこへ行ったのか』で私がもっとも衝撃を受けたのは「労働組合が格差の拡大に関与している」という主張でした。私はブラック企業に対抗するため「労働組合頑張れ!」というスタンスで労働問題を考えてきましたから、この主張を最初に目にしたときは、さすがにギョッとしました。では、その主張の内容を実際に見てみましょう。
高度経済成長期の時代には「経営者VS労働者」というわかりやすい対抗軸がありました。それは、成長の時代だから賃下げや解雇は経営者のエゴであり、労働者を極力保護すべきだという考えが貫かれていました、しかしバブル崩壊後、日本は不況期に突入します。すると、企業にとって労働者の保護は大きな重荷になります。そういった状況で取るべき選択肢は二つありました。一つは労働者の保護を緩め、賃下げや解雇を行うこと。もう一つは、安く使い倒せる新たな労働者階層を作りだすことです。そして、日本は後者をとりました。そうして生まれた非正規労働者を酷使することで得た利益は、正社員の厚い待遇に回ります。すると、そこに搾取の構造が生じるというわけです。労働組合が格差の拡大に関与しているというのは、彼らが正社員の権利だけを保護するような主張を行うことがあるという事情も絡んでいるのでしょう。私が反貧困ネットワーク主催の集会に参加したとき(「反貧困世直し大集会2011 公務員も民間の社員も連帯せよ!」参照)、官製ワーキングプアに関する分散会にて、ある公務員労組は非正規職員の待遇に言及しないことを条件に交渉を有利に進めている情報を耳にしました。なるほど、そうすると労働組合が正規非正規間格差の拡大を促進している構造がくっきり浮かび上がります。今後非正規労働者の割合がさらに高まることが予想される背景を考えると、正規雇用というだけである意味特権階級のようになってしまうかもしれません。そう考えると、労働組合がこれまでと同じように正社員の保護を求めるのであれば、それは格差の拡大につながっていると言わざるを得ないでしょう。もちろん全ての労組が正社員の権利だけを保護するように求めているわけではありません。それでも、ある労組が本当に貧困や格差の解消に向けて活動を行っているか否かを見極める必要性は高まっていくでしょう。

 非常に長くなりましたが、そろそろまとめに入ります。では、そういった背景を考慮して、いかにして「やむなしブラック企業」を救うかを考えていきましょう。企業が日本的経営を今後も維持するなら、企業のブラック化はますます進行していくと予想されます。しかし、それがわかっていても具体的にどのように経営を見直し改善していけばいいのかがわからない経営者も少なからず存在するでしょう。では、どうすればいいのか。一つには、成功例に学ぶという手段があるでしょう。私が応援したい企業の一つに、化粧品メーカーの資生堂があります。この企業は経済情勢の変化をいち早く察知し、その経営方針を改善しました。化粧品メーカーであるため商品開発には女性の視点が不可欠であり、「女性は子どもを産んだら退社」などという古臭いことをやっていては、企業への損失があまりにも大きいのです。そこで、女性社員が育児をしながら仕事ができるようなシステムを作り、優秀な女性社員に変わらず働き続けてもらうことが可能になったのです。また、資生堂の素晴らしいところは、女性の待遇に限らず、労働慣行をCSRの一環として重視していることです。詳しくは資生堂のCSRのページを見てみてください。私は思わずその先進性にうなってしまいました。もう一つの方法は、社員の権利を大切にする経営スタイルを提案してくれる経営コンサルを活用することです。みなさんは「ワーク・ライフバランス」という名の企業をご存じでしょうか。企業の名称が「ワーク・ライフバランス」です。この企業は、他の企業が仕事での成果を上げるために働き方の柔軟性を追求する経営方針を提案するコンサルティングを事業として行っています。これは素晴らしいことですね。このような企業の存在は、「社員のライフワークバランスを実現しつつ業績を上げたい」という需要が少なからず存在することを意味します。そして、ここにはそのメソッドがあるのです。「このままではいけないのはわかっている。でもどうすればいいかわからない。」というやむなしブラック企業の経営者も多く存在することでしょう。その姿は「このままではダメになる。でも辞めてしまったらどうなるかわからない。」と感じて身動きが取れずにいる労働者と重なります。終身雇用や年功序列賃金制を維持するのが困難になってきていても、経営方針をどう転換したらいいかわからない。そんな企業のために、このような経営コンサルティングを行う企業は存在するのです。まさに現代日本における希望ともいえる存在ですね。私は一人の労働者として、この企業を応援し、行く末を見守りたいと思います。今後、人々の「日本企業離れ」はますます加速していくことが予想されます。そして、企業は「生き残り戦略」として社員のライフワークバランスの実現に力を注ぐようになるでしょう。この時代の流れをいち早く察知し、早々に方向転換を行った企業が、この日本社会をリードする存在となっていくと考えると、この国の将来も捨てたものではないと思えます。もちろん、私たちがそういう社会の実現を希求し、行動すればの話ですが。

 この記事を読んで、『3年で辞めた若者はどこへ行ったのか』を手に取ってくれる読者が一人でもいれば本当に幸いです。著者が日本企業の経営スタイルを大々的に改める前提として「セーフティネットを正常に機能させること」「当事者である若者が自ら意見を発すること」を上げていることにも、深く共感します。私は「世界的な流れなのだから、日本も新自由主義に従うのもやむなし」という主張以外、この書籍の主張には全面的に同意します。もはや労働に限らず、既存のレールに従って生きる時代は終わろうとしているのです。この本に登場するアウトサイダーたちの生き方は、この不透明な時代を生き抜くためのヒントを与えてくれるでしょう。そして、私の周りに存在する魅力的なアウトサイダーたち―両親が医者でありながらそのレールに乗らず、農学生命科学とマイクロファイナンスを学び、とある日本企業の経営の根幹に関わる部署で働く大学時代の友人。一度は厚生省の官僚の職に就くも、そこでは志は果たせないとドロップアウトし、大学で社会学を教える非常勤講師として働く大学時代の恩師。一度はダンスカンパニーに所属するも、ヨーロッパ放浪の旅を経て独自の劇団を主催するダンサー(研修で知り合った)。反原発デモに参加したことをきっかけに、自らも社会運動に携わるようになり、起業により社会運動にコミットする道を選んだ、ゆとり首脳会談司会の彼―のように、あなたの周りにも、新しい時代の生き方にヒントをくれる人はきっといるはずです。アンテナを高くして、より良い生のあり方を探っていきたいものです。

 来る3月14日はホワイトデー。お返しには資生堂の化粧品を送ろうと思います。Q崎さんは何人の女性にお返しをするのか、そんなことはもちろん内緒です。

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