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社会

2013年11月24日 (日)

理不尽に直面した時の正しい対処法はなんだろう

 世の中には様々な理不尽なことがあります。無理が通れば道理が引っ込むと言いますように、正論が通じない場面もたくさんあります。何が理不尽に当たるかということも突き詰めて考えればなかなか難しい問題ではありますが、先人たちは様々な気づきと主体的な行動で現在の民主的な社会を築いてきました。それでも、理不尽だと感じる社会問題はまだ数多く残されています。そんな問題に対して、社会を形成する個々人はどのように向き合えばいいのでしょうか。
 「社会には理不尽なことがたくさんあるのだから、若いうちに苦労を経験して免疫をつけておいたほうがいい」という意見をよく耳にします。現実に理不尽なことが存在し、一朝一夕でそれらを解消できない以上、この意見には非常にリアリティーがありますし、時には愛情を持って発せられる言葉でもあります。しかし、労働問題を発端に書き続けているこのブログで私が一貫して伝えたいのは、そもそも社会の理不尽がなくなれば理不尽に耐える練習など全く必要ないのだから、個人が理不尽に耐える能力を身につけるのではなく理不尽をなくす方向で努力をするべきだということです。

 先日、こんなツイートを目にしました。

yuka.m
「昔は強制飲み会や長時間怒号会議拘束なんて当たり前だったけど、ここ10年で本当に無くなった。若い奴が辞めちゃうからな」って先輩達が言ってたから、苦痛に耐えるのではなく逃げたり辞めたりしてきて下さった先人達の試みはちゃんと社会を変革してきた

私はこのツイートを目にしたとき、非常に強く賛同し、光の速さでお気に入り登録とリツイートをすませました。「逃げる」「辞める」といった一見するとネガティブな印象を持つ行いが「ちゃんと」したことであるというのは、一体どういう根拠があってのことなのでしょうか。

 では、ここで私たちが理不尽な事態に直面した際にとりうる選択を4つに分類してみましょう。

① 問題の解消のために主体的に行動する
最も理想的な選択肢です。問題そのものをなくすために行動するという非常に生産性のある選択です。しかし、この選択には犠牲が伴います。問題が大きく複雑なものであれば1人では対処しきれないでしょうし、また理不尽に直面した環境にい続けなければなりません。この選択肢を選べる人はかなり少数でしょう。それでも、現在の民主的な社会が形成される過程に、この選択を行った勇気ある名も無き先人たちが存在したということを忘れてはならないでしょう。

② 逃げる
件のツイートではこの選択を賞賛しています。逃げたとしても直接的にその問題を解決することにはなりませんが、少なくともそこに問題があるという認識を多くの人に気づかせることになります。その点においては下記の③④の選択肢よりはるかにマシだと言えるでしょう。

③ 耐える
問題の解決に直接的には寄与しないという点では②と同じですが、問題の存在を覆い隠してしまうという点において問題の解決にはマイナスに作用します。理不尽な問題を含んでいる前提で仕組みが固定化してしまう原因を作ります。

④ 非難する
①②の選択をした人を非難します。耐えるということに大きな価値を見出し、それ以外の選択を認めません。問題の解決に寄与する行動を抑制してしまう最悪の選択肢。自分を苦しめている理不尽を解決するために動いている人を攻撃するという倒錯した状況です。

さて、あなたはこれまで理不尽な場面に遭遇したとき、どの選択肢を選んできたでしょうか。そして、これからどんな選択肢を選んでいきますか。私の場合は②を選びました。「前略、退職を決めました」という記事にその時のことは詳しく書いてありますが、①の選択肢を選ぶ余裕は当時の私にはとてもありませんでした。しかし、様々な労働問題に対処していく中で、いずれ教育現場の労働問題にも直接的にアプローチすることを目標に、今後も邁進していきたいと思います。

追記
①や②の選択肢を選ぶには、それを許す状況があるかどうかという問題も大きく影響します。そのあたりのことにご意見などある方は、気軽にコメントを残していっていただけると嬉しいです。

2013年11月 1日 (金)

現時点で考えられるブラック企業問題の解決策の最適解は何なのか

 以前に比べると、ブラック企業という言葉に象徴される労働に関係する問題への関心はだいぶ高まっているように感じます。労働基準監督官を主人公として描いた「ダンダリン」というドラマも始まりました。視聴率はあまり芳しくないようですが、それでも労働問題をストレートに扱うドラマが全国ネットで放送されるというのは、今までになかったことではないでしょうか。また、私の他にも働き方に関する記事を書いている人は多く存在し、様々な意見が飛び交っています。やはりそれだけ世の中の関心の高まっている話題だということでしょう。それらの意見を参考に、現時点で考えられるブラック企業の問題を根本的に解決するための解決策の方向性を考えてみました。これまでに書いた記事の繰り返しも含むと思いますが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。

 ブラック企業問題を解決する有効な方法は、大きく分けて2つあります。1つは「余暇時間を有効に使って人生を楽しむことそのものに価値を見出すこと」です。この言葉だけを見ると、そんなの当たり前のことじゃないかと思うかもしれません。しかし、現在の日本社会でメジャーと思われる労働観、人生観はそうではないように感じます。以前「労働時間規制は必要だ 個人の努力にも規制は必要か?」という記事で電脳クラゲさんの「業務効率化だけでは残業はなくならない」という記事を紹介しました。その記事では、業務の効率化によって浮いた時間は勤務時間の短縮ではなく、さらなる業績の向上のために費やされてしまうために長時間勤務の解消にはつながらないという点が指摘されていました。これは資本主義経済の本質を点く指摘と言えるでしょう。
 経済学や会計学の用語に機会原価という言葉があります。機会原価とは、いくつかのビジネスプランがあり、そのうち1つしか実行できないという状況で、採用しなかった代替案のうち最も価値が高いものを指す言葉です。例えば日雇いで働いているとして、日給10000円の仕事と8000円の仕事と6000円の仕事があり、8000円の仕事を選んだとすれば機会原価は10000円ということになります。これはつまり「8000円の仕事を選ばなければ10000円を得ることができた」と解釈することになります。それが機会原価という考え方です。では、ここで「働かないで休む」という選択をしたらどうなるでしょう。この場合も機会原価は10000円です。つまり「休むという選択をしなければ10000円得ることができた」と考えることになります。例えば、その日は1日家で読書などをしてのんびり過ごし、現金支出がなかったとしたら、それは損も得もしていないことになります。しかし機会原価の考え方では、それは「10000円損した」となるのです。8000円の仕事を選んだ場合も同様で、「8000円得た」と考えるのではなく「2000円損した」と考えるのです。つまり、機会原価とは「人間は時間と体力と技術があれば可能な限り多くの給料を得るためにそれらを費やすものだ」という考え方を前提にしているのです。しかし、私たちはこの考えが必ずしも現実を正確に表したものではないと直感的に感じます。私たちはお金を増やすことを常に至上命題として行動しているわけではありません。その瞬間の満足を大きくするためにお金を消費しているのです。例えば、お金がたくさんあるなら、利回りの良い投資案件に投資すれば将来の収入をさらに増やすことになります。ただ銀行に預けておくだけでも僅かであっても利子が付きます。それでも、車が好きな人なら、車そのものを得るための費用だけでなくローンにかかる利子や駐車場代や税金などの支出も惜しまず車を買うでしょう。それは、お金そのものではなく、車を所有するという現時点での満足を優先しているからです。これが私たちの日常的な消費行動なのではないでしょうか。休むことも同様であり、その日働くことで得られる給料より休むということに価値を見出すことも人間としてごく当たり前の事なのです。
 にもかかわらず、現代の日本社会では機会原価の考え方を地でいくような労働観が主流であるように感じられます。例えば、36協定という労使間で結ばれる時間外労働についての協定がそれを象徴しています。36協定は、この協定さえ結べばどれだけ時間外労働させても構わないというものではありません。厚生労働省は36協定を結んだうえでの時間外労働時間に上限を設けています。こちらの資料にその一覧があります。

時間外労働の 限度に関する基準 - 厚生労働省

さて、これを読んで何か奇妙な点があるのに気がつきましたか?割増賃金の支払いの項目を見ると、「月60時間を超える時間外労働については5割以上」という記述があるのですが、これは一ヶ月の時間外労働の限度時間である45時間を超えた範囲の労働について割増賃金の規定が存在することになります。よく調べてみると、厚労省の定める基準に法的拘束力はあるものの、36協定に特別条項を設けることによって60時間を超える時間外労働も可能ということになっています。基本となる労働時間規制は労働基準法の定める1日8時間であり、その例外として36協定のプラス月45時間まで、さらにその例外として月60時間以上もOKというルールになっています。しかし、例外を1つ認めてしまうと歯止めがきかなくなるのはよくある話で、今では月60時間以上の時間外労働など珍しくもなんともないものになっています。こんな状況を前に「労働時間規制なら日本にも労働基準法もあるでしょ?」なんて言ったって何の意味も持たないわけです。実質的に日本には労働時間を規制する公的な制度がありません。
 また重要なのがこの例外である36協定はあくまで労使間の合意によって結ばれているものだということです。もちろん権力の非対称性はあるにしても、労働者の側にも「時間に余裕があるなら少しでも多く稼ぎたい」という希望を持つ人が少なからず存在するということになります。そのこと自体は問題ではないのですが、社会の仕組みは多数派に合わせてデザインされていき、結果として長時間労働が状態化した現在の日本社会の状況があるわけです。
 そのような状況ですから、冒頭でも指摘したとおり業務をどれほど効率化しただけでは、勤務時間の短縮にはつながりません。これまでも、産業機械の発達やITの普及などによって業務の効率化は格段に進みましたが、それらの成果は勤務時間の短縮ではなく業績の向上に振り向けられてきました。現在推し進められている業務の効率化も、そうして普及してきた「便利な技術や道具」に過ぎないわけです。つまるところ、はじめから勤務時間の短縮を目的とした業務の効率化でなければ勤務時間の短縮には繋がりません。少しでも多くの利益を上げるための組織である会社というものに属しながら、それでも勤務時間を短くし、余暇時間を多く確保することそのものに価値を見出す必要があるのです。
 見出す必要があるなどと表現すると、無理やり価値を持たせようとするかのように聞こえますが、元々余暇時間には社会を維持するうえで当然必要なものです。すべての人が持てる力をすべて賃労働に費やしてしまっては、社会は回りません。例えば、フランスでは性別を問わず育児休暇の取得を義務付けています。これは「愛のある強制」と呼ばれたりしていますが、子供の健全な育成には両親が十分に時間と労力をかけることが重要なのは言うまでもありません。愛などという概念を持ち出すまでもなく、健全な社会を維持していく合理的な政策だと言えるでしょう。また、お金は生活を維持したり精神的な満足を得るための手段であるということも今更強調するまでもないでしょう。前述したとおり、車が好きな人は手持ちのお金だけでなく将来の収入が減ってしまおうとも車を買います。グルメな人は美味しいものを食べ、旅行が好きな人は旅行に多くの費用をかけます。「余暇時間を有効に使って人生を楽しむことそのものに価値を見出すこと」とは、それを別の言葉で表現しただけなのです。
 社会問題を解消しようと実際に活動している方々に「社会問題の解決には制度の改善と人々の意識改革とどちらが重要か」という質問を私はよくします。最も多い回答は「どちらも重要なので同時並行して取り組む必要がある」ということです。労働の問題に当てはめるとどうなるでしょうか。日本には労働基準法という立派な労働時間規制が制度として存在しています。しかし、それは例外を設けたために正常に機能していません。制度とは、関係者がその仕組みと意義を理解し、適切に運用することで初めて意味を持つのです。その前段階として、「ただ働くだけの人生なんて意味がない」「余暇を楽しんでこそ意味のある人生だ」「健全に社会を回すには、職場での役割だけでなく家族としての役割や地域市民としての役割も大切だ」という当たり前の価値観を多くの人で共有する必要があります。
 エコノミックアニマルなどと揶揄されるほど経済活動だけを重視してしまう日本人の多くは、金銭的な価値として数字で表されないと幸福というものを認識することができないのかもしれません。その壁を越えるための方策などについて「新しい豊かさの指標」という記事を書きましたし、GNHについてはまた改めて記事を書きたいと思います。

 ブラック企業問題を解決する有効な方法のもう1つは、セーフティネットを健全に運営し、やり直しのできる社会にすることです。さて、余暇時間を重視する価値観が浸透し、労働者の多くが「1日8時間しか働きません。36協定は結びません」という姿勢を取るようになったら、社会はどのように変わるのでしょう。ブラック企業の問題を議論していてよく耳にするのが「労働基準法の通りに経営していたらとても回らない。多くの会社が潰れてしまう」という意見です。また「その時点で経営は失敗しているのだから、そんな会社は潰れたほうがいい」という反論もよく耳にします。理屈の上ではこの反論は全く正しく私も支持したいのですが、現在の日本社会においては、会社が倒産してしまっては経営者も労働者もとても困ったことになるのです。
 冒頭で紹介したドラマ「ダンダリン」の第1話に非常に印象的なシーンがありました。渡辺いっけい扮するブラック企業に勤める営業マンが、彼を救おうとその企業に行政処分を下そうと行動しようとするのを彼が必死に止めるシーンです。彼は以前勤めていた会社が倒産し、やっとの思いで今の会社に再就職しました。家族を養っていくためにも、どんなに不当な目に遭っても会社が潰れるのだけは困るという状況にいたのです。第1話からブラック企業の問題の本質に迫るようなストーリーで、現在多くの労働者の直面している現実をリアルに描き出したものだと感じました。その現実とは、一度失業してしまうと失うものがあまりにも多く、もとの生活水準を得ることが非常に困難だということです。
 前述の「ブラック企業は潰れたほうがいい」という主張や雇用の流動性を高めたほうがいいという主張の多くは、この現実を軽視しているように感じます。それらの主張が意味を持つのは、セーフティネットがいわゆる困窮者だけを対象としたものではなく、一度失業したとしても再出発を容易にする形で機能することが前提条件として必要になるのです。やはり、利益を最大化することを目的とする企業という組織が生活給などの形で社会保障を担っているのは合理的だとは言えません。生活や次世代育成は政府が責任を持って保障し、それ以上の富を労働によって得るという、企業と労働者のドライな契約関係がブラック企業の問題を解消するうえで必要だと言えるでしょう。これに関しては社会保障のシステムを変えるという手続きがどうしても必要になり、労働者の意識改革だけではどうにもならない問題です。こういった問題に取り組んでいる政治家などの情報を追っていきたいものです。

 いかがでしたでしょうか。自分で読み返してみての感想は、当たり前のことしか言っていないということです。ただ、その当たり前のことがあまりにもないがしろにされているという現実があり、その現実にまっすぐ目を向けなければ問題は解決しないということは確かです。問題を問題であると認識し、その解消に向けて前向きに考え行動できる仲間をどんどん増やしていきたいと思う今日このごろです。

2013年7月24日 (水)

問題を解決するのに最も有効な方法はインセンティブを作ること

 7月21日は参議院選挙投票日でした。投票率の低さを問題とする声は以前からいたるところから聞こえますが、その具体的な解決策は見えていません。そんななか、投票日の直前、こんなツイートを見かけました。

https://twitter.com/ynabe39/status/358715839320571904
選挙に来てほしいなら投票所で景品でも配ればいいと思う。「そういう問題じゃない」とすればどういう問題なのか。

https://twitter.com/ynabe39/status/358721018635890689
「投票に景品を与える」というと「バカバカしい」と思って「投票しないことに罰則を設ける」というと「バカバカしい」と思わないのはなぜか。どちらも同じことで,かつ心理学的には明らかに「景品を与える」ほうが優れた方法であるのに。

https://twitter.com/ynabe39/status/358723449830649856
ようするに「投票に行かないやつが気に入らないから罰を与えたい」という議論ばかりで「どうしたら投票率を上げられるか」を本気で考える人は少ないんだろうなあ。

https://twitter.com/ynabe39/status/358724050165563392
投票率の問題については「投票に行かない人の状況や気持ち」から議論を立ち上げないといけないのに,その問題に興味をもつのは主に「投票に行っている人」だから「自分と違うけしからん人間を処罰する」という発想にしかならないのだろう。

https://twitter.com/ynabe39/status/358726245388779520
「するのが当たり前のことには報酬を与える必要はない,報酬を与えてはいけない」というのはわりと広く共有されている常識だが,心理学者的には間違っていると思う。

https://twitter.com/ynabe39/status/358726683290906624
「当たり前のことをしてくれない人」が現にいるときには,その人に罰を与えるより「当たり前のことに報酬を与える」ことのほうが効果的である場合が多い。

私はこれまでツイッターで社会問題に対するアプローチの仕方についていろいろ述べてきました。いろいろ考えた結果、端的にまとめると以下のようになります。

・問題の原因や構造を明らかにする活動と、それを解決するための活動は質が異なる
・前者に取り組む人は多いが、後者に取り組む人は少ない
・後者には、アイディアを行動に移す際に生じる結果に責任を負わなければならない
・後者により問題を解決しなければ、前者による分析がどんなに優れていても意味がない

投票率の低さに限らずこの日本社会には様々な問題がありますが、問題の原因究明や構造分析は盛んに行われていても、その解決の具体的な方法を提案するところまではなかなか進まないようです。しかし、いつまでも手をこまねいているわけにもいきません。何か解決策を考え、行動に移さなければなりません。私もいろいろ考えたり意見を伺ったりしてきた結果、あらゆる問題の解決に共通するポイントがあるのではないかという考えに至りました。それは「問題に関係する人たちが問題を解決するように行動するインセンティブを作る」ということです。インセンティブとは、組織や人に対して行動を促す動機づけのことです。もっと砕いた感じで言うと「解決するように行動すると得をする仕組みを作る」ということになります。

 ここまで読んで、「そりゃそうだ。人間得するように行動するんだから、そういう仕組みを作ればいいに決まってる」と思った人もいれば「そんなのおかしい。特定の人だけが得をするのは不公平だし、得とか損とか関係なく問題を解決できる立場にいるなら解決するべきだ」と思った人もいるでしょう。おそらく、真面目な人であるほど後の感想を抱いたのではないでしょうか。それは、問題の原因や構造を明らかにするアプローチは「正しさ」を出発点とした活動であるということによるのでしょう。それに対し、解決のための具体策を考えるアプローチは、眼の前の「問題」そのものからスタートする活動です。無理が通れば道理が引っ込むとはよく言ったものですが、問題が起こっているということは、すでに道理は引っ込んでいるのです。論理的な正しさを説くことで解決するようなものなら、そもそも問題として認識されることもないのでしょう。非常に口惜しいことですが、私たちは、すべての人が道徳的に正しく生きられるわけではないことも、正しさだけを拠り所に生きることがとても困難であることも、経験的に知っています。であれば、正しさとは違った観点から具体的な解決策を導き出す必要があることも、抵抗を抱きつつも理解できるのではないでしょうか。

 冒頭で紹介した投票率を上げるために「投票に来た人に景品を与える」というアイディアは、「問題に関係する人たちが問題を解決するように行動するインセンティブを作る」という活動の例として非常にわかりやすいものだと思います。本来なら景品などなくとも投票には行くべきですが、それでも投票に行かない人が多くいるのが現実です。「自分の意見が政策に反映される」というインセンティブが選挙にはもともと備わっているのですが、それは自分が支持する候補が当選した場合に限られますし、その構造が見えにくいのが難点です。投票率を上げるには、「わざわざ休日の時間をわずかでも割いて投票所に足を運びたくなる」だけの魅力のあるインセンティブが必要なのでしょう(個人的にはただ投票率を上げればいいという問題ではなく、政策をじっくり吟味したうえで投票するところまでいかなければ不十分だと思っていますが、そのインセンティブを作るのはかなり困難だと言えるでしょう)。

 最近ではあまり騒がれなくなりましたが「イクメン」に対しても同じことが言えそうです。「イクメン」という言葉が流行りだした頃「これまで女性に育児や家事が押し付けられてきたことが問題なのであって、男性が育児や家事を負担するようになったことを特別視し、わざわざもてはやすのはおかしい」という批判の声も上がりました。この主張自体は筋の通ったものです。これまで低水準だった男性の育児参加が普通の水準に近づいただけのことで、普通のことをしている人を褒めるのは確かにおかしなことです。しかし、現実問題として家事や育児を行う男性を増やすために具体的に何ができるかと考えることは、それとはまた別の話です。それまで仕事ばかりに没頭していた夫が褒めることで家事や育児をやるのであれば、大いに褒めようじゃありませんか。掌の上で転がすような感じでいいではないですか。クラスでも優秀なあの子はこれまで1日2時間勉強していたのをさらに30分勉強時間を増やすというところ、一切勉強しなかったうちの子が15分でも勉強するようになったのなら、大げさなくらい褒めてあげましょう。それで望ましい結果が得られるのなら、もてはやし良い気分にさせてあげるのは無駄なことではないでしょう。

 もう1つ例を挙げましょう。よく「昔ワルかったやつが更正するとさも立派なことのように扱うけど、昔からずっと真面目だった人の方が偉いに決まってる」という不満もよく耳にします。これは非常によくわかります。本当にその通りです。その通りなのですが、もしかしたら、そうやって褒めそやすことでワルかった人が再び悪の道に走るのを防ぐことになるかもしれません。もしくは、昔からワルくて今もワルい人が「真面目に生きてみるのも良いかもな」と改心するきっかけになるかもしれません。それは、真面目な人が生きやすい社会を作ることに貢献しているということができるでしょう(ただ、更正したワルをもてはやすのは、真面目に生きるインセンティブを作ろうというより、単純に昔との比較で偉く見えてしまっているという動機による場合が多いのでしょう)。

 ここまで読んでも納得のいかない人もいるでしょう。「結局初めから真面目に正しく生きている人が損をするじゃないか」と思う人もいるでしょう。しかし、冒頭でツイートを紹介した渡邊芳之氏はこうも言っています。

https://twitter.com/ynabe39/status/358732858598244352
@meganelife もともと「道義的に自分の行動を制御して窃盗をしない人」も,そのことによって得るものがあったからそうしているのだと思います。行動の制御で得るものがなかったから窃盗をする人には外部的に「得るもの」を与えるということです。

つまり、初めから真面目に正しく生きていた人には、そうするだけのインセンティブがあったのではないか、ということです。もちろん、道徳心や自制心など、1人1人を見ていけば様々な違いはあります。それでも、社会的に望ましくない行動を取る人たちの人間性だけを問題にしても解決には至りません。問題の原因や構造を理解している人が、寛容さと謙虚さを持ち、地に足をつけて具体的に解決策を考えることが、問題の解決には一番の近道だと言えるでしょう。

 いろいろ理屈を捏ねて説明しましたが、インセンティブを作ることで問題を解決しようという動きは、ソーシャルビジネスという形で実現されています。社会貢献的な活動を継続するために収益性を持たせるという説明はよく耳にしますが、私は金銭的なインセンティブを持たせるという意味合いの方が大きいのではないかと考えています。たくさんお金が稼げるのであれば、優秀な人も活動に関わってくれるかもしれませんし、自分たちのやる気も上がります。活動を拡大するための資金を得ることにもつながります。ソーシャルビジネスでがっぽり稼ぐことは、社会貢献という観点からも高く評価されることなのです。というかビジネスはもともとそういうものだったのです。
 多くの社会問題は、問題の構造を指摘するフェイズは十分に行われていると私は感じています。それらを解決策を考えるフェイズにどう持っていくかに知恵を絞っていく必要があるのでしょう。

 もちろん「ホワイトアクション事例集」も企業が労働者を大切にするインセンティブを作ろうという発想によるものです。今後の展開を括目してお待ちいただければと思います。

2013年7月 7日 (日)

もはや通用しなくなるであろう基準に適合するための努力を続けるメリットなんてない

 以前『「雇用崩壊とジェンダー」に学ぶ賃金差別の実態』という記事で、日本社会における差別というものについて触れました。関係する箇所を引用してみましょう。

このような差別が存在しているにも関わらず、メディアが「格差」という表現を用いることの要因が、竹信先生は以下の2点にあると述べました。

・日本社会において、そもそも差別とは何であるかという議論が十分に行われていない
・「差別」というと明らかに善悪の価値判断が必要になってしまうが、「格差」という表現なら「差がある」という事実を中立的に表すことができる

竹信先生の言うとおりだと思います。自身のどういう言動が差別に当たるのかよくわからないために、多くの人は加害者になることを恐れ「触らぬ神に祟りなし」という態度を取り、いわゆる弱者とされている人たちから距離を置き、相互理解が生まれる機会が失われるのでしょう。

加えて、こちらのツイートをご覧ください。

https://twitter.com/qqmasa/status/352356876425506816
これもその通りで、何が差別で何がそうでないかの絶対的な判断基準など存在しない。現時点では「パワーゲーム」によって決まってしまっているけど、これを「合意」によって決めなければ公正ではない。合意形成にはあらゆる属性の人が関わって議論が必要になるが、この社会ではその労力をひたすら惜しむ

「これ」にあたる、上記のツイートの元となったツイートは、「差別には絶対的な基準があるわけではなく、それぞれのコミュニティのパワーゲームによって決まる。そのコミュニティ内で肯定されている差別には、むしろ積極的に加担しないと排除される」という趣旨のものでした。

 さて、「差別」というものはよく「区別」との比較によって意味を説明される概念です。区別とは、待遇や扱いに差異を設けることに正当性や合理性があるものを指し、差別はそれらがないものという説明がよくなされます。とてもわかりやすい説明ではあるのですが、その「正当性」や「合理性」というものはどのように決まるのでしょうか。この点を深く深く突き詰めて考えていくと、結局のところ何が区別にあたり何が差別であるかは、そのコミュニティの成員が納得する基準を「合意」という形で恣意的に決めるしかないという結論に至ります。仮に全人類に共通する普遍的な基準があったとしても、それをそれぞれ異なる文化的背景を持つ国家などの集団に当てはめることは不可能でしょう。人間という存在がそもそも多様なものであり、必要となるルールは誰が成員となりどんな集団を形成するかによって変化するのです。
 上記のツイートにもあるように、そのルール作りのための「合意」を形成するには手間がかかります。現在の日本社会では合意形成のための議論ができているとは到底言い難い状況です。仮に日本社会で共通となる基準ができたとしても、自分が属する小さい集団(職場、家族など)では、また独自の基準が必要になります。また、時間の経過とともに成員の構成が変われば、同じ集団であっても基準は柔軟に変える必要が生じます。基準は非常に流動的なものなのです。すると、結局はその場その場で、自分の言動がその集団において正当性や合理性のあるものかを自分で判断する必要があります。その手間を惜しんでしまうと、ありもしない「どこへ行っても通用する基準」を自分で勝手に作ってしまい、時に自分の想定していない他者を傷つけるような言動を取ってしまい、またそのことに気付けないという事態に陥ってしまうのです。

 というところまで考えたところで、「本当なら集団ごとに決めるべき基準が、あたかも絶対的な基準が存在するかのように扱われている例は他にもあるぞ」と気づきました。例えば、最近ではもはや陳腐化していますが、コミュニケーション能力はどうでしょう。貴戸理恵氏の論文「学校に行かない子ども・働かない若者には『社会性』がないのか」から引用してみましょう。

「社会性」をはじめ「コミュニケーション能力」「対人能力」など、本来二者以上の相互交渉の産物であるはずの「関係」を、個人の「性質」や「能力」に還元してしまう言葉があふれている。だがそうした個人への還元は相互交渉の失敗を相手に一方的に帰責する点で、「対等な交渉相手」として関係形成に臨むことからの逃避であり、「社会」に居直る側のおごりではないだろうか。

もともとコミュニケーションとは、そこに参加しているメンバーの間で情報や意思を正確に伝えあうことができればいいわけですから、全人類に共通する絶対的なコミュニケーションのルールなど必要ないのです。なぜコミュニケーションの絶対的なルールがあるかのように考え、「コミュニケーション能力」なるものが存在すると考えてしまうのかについては、前々回の記事「分断支配の乗り越え方 うまくいっている側の問題を明らかにしよう」という記事を参照してください。

 コミュニケーション能力に関連して、近年増加していると言われる発達障害についても考えてみましょう。発達障害の1つとされる自閉症ですが、その特徴は以下の3点であると定義されています。

(1)対人関係の障害
(2)コミュニケーションの障害
(3)限定した常同的な興味、行動および活動

先ほどの「コミュニケーションに絶対的なルールはない」という前提を踏まえると、これら(1)(2)の定義がおかしなものであると気づきます。「対人関係に絶対的な正解が存在する」という前提に立たなければ、「対人関係の障害」という定義は成り立たないからです。それを踏まえ、そもそも「発達」とは何であるかについて、最近よく引用している津田英二氏の『物語としての発達/文化を介した教育』からまたまた引用してみましょう。

 第二に、国民国家の形成と関わる規範性との関連で説明できる。近代は国民国家の形成期としても特徴づけられる。国民国家の課題は一つの国民の形成であった。多様な言語を話し、宗教や階級によって分断されていた国民を一つに統合しようというプロジェクトである。このプロジェクトにおいては、国民としての規範を定めて、その規範に人々を当てはめていくという作業を必要とした。学校教育は、こうした面からも近代初期に必要とされたのである。個人が社会的に肯定的な価値を付与された状態に達することを意味する発達概念は、こうした規範に合った国民の形成にとって不可欠な道具であったということができよう。

このように、そもそも人間のどのような能力の変化が「発達」の範疇にカウントされるかは、社会構築的に決まるものなのです。それがあたかも普遍的、絶対的なものであるかのように扱うことは、大きな弊害を生み出すことになります。

それと同時に、差別や発達などの絶対的な基準がまったく無意味なものではないことに気がつきます。上記の引用からも分かるように、発達概念は近代国民国家を形成するうえで非常に有用なものでした。絶対的な基準を設けると、国家という非常に大きな集団を効率よくまとめあげ、コントロールしやすくなるのです。以前別の記事でも紹介しましたが、本田由紀先生のモデルが示す通り、近代日本社会は非常に効率よく統治できるようにデザインされてきたのです。しかし、そこには大きな弊害もありました。基準を設けることは、その基準を満たさない人を必ず排除することになるからです。これまでの日本社会は、様々な社会的排除を生み出しながら、効率的な運営を優先してきたのです。

 さて、絶対的な基準が弊害を生むものであるとして、それでは絶対的な基準のない社会
とはどのようなものでしょうか。それは、その集団ごとに独自のルールを持ち、また定期的にルールを点検し、それぞれの集団の変化に合わせて柔軟にルールを変えていくことが習慣化された社会です。これは、所属する集団の数だけルールを身につけなければならず、またそのルールも日々アップデートされていきます。そのことを面倒に感じることもあるでしょうが、こちらの方が「人間とはもともと多様なものである」という実態に合うものだと思います。絶対的な基準がある社会とない社会のどちらが望ましいのか。それは個人によって意見の異なる問いでしょう。この問いは、多様な人間が共存する社会において、多様性から生じる摩擦を基準を満たさない一部の人に丸投げするのか、成員の全員で平等に負担するのか、という問いでもあります。

 私の個人的な意見としては、もちろん基準のない社会を目指すべきだと思っています。しかし、それは人権という観点からの平等性だけを考えているわけではありません。産業構造の変化などを考慮すると、むしろ基準などない方が効率的に社会を運営することができると考えられるのです。『「やむなしブラック企業を救え!」って具体的にどうするの?』という記事では「働き方」という観点から、これまでの画一的だった日本企業の人事管理を見直す必要性について書きました。経済成長と企業経営の双方の観点から見ても、大量生産が有効だった時代には、日本の伝統的な終身雇用と年功序列に基づく人事管理は非常に効果的なものでした。しかし、市場が成熟して多品種少量生産に切り替えなければならなくなった現在においては、その方法では以前ほどの利益は生み出せないのです。それと同じことが社会に存在する様々な基準においても生じているのでしょう。

 例えば、発達障害が増加していると言われますが、中枢神経系の機能不全という身体的特性を持つ人が短期間に急増することなどあり得るのでしょうか。これまでの「発達」の基準が社会構造の変化に合わず、その結果として「対人関係の障害」「コミュニケーションの障害」に該当するように見えるケースが増えているというのが実際のところではないでしょうか。個人の能力に変化はなくとも、これまで「なんかトロい人だな~」程度に思えていたことが「あんな容量悪い人を雇っている余裕はない!」と思ってしまうほど職場環境が厳しくなったというように社会的な環境の方が変わってしまっただけなのだと私は考えています。基準が合わなくなることは、個人が基準を満たすことが難しくなることも意味します。「分断支配の乗り越え方 うまくいっている側の問題を明らかにしよう」という記事で指摘した通り、現時点で基準を満たしている人たちも、その立場を維持するのに大変な苦労を味わっているのです。基準を満たせず排除されてしまっている人だけの問題ではないのです。

 では、今後私たちがとるべき手段は何なのでしょう。社会構造に合う新しい基準を設けることでしょうか。それとも、基準のない社会を目指すことでしょうか。私の意見は後者です。なぜなら、今後ますます社会構造の変化は急速になり、新たな基準を設けてもたちどころに古くなってしまうからです。もはや基準を設けるという発想が持てなくなる時代も遠からず訪れるのではないでしょうか。基準のない社会に備えて、柔軟に多様な他者を受け入れるスキルを身につけておくのが得策だと言えるでしょう。
 差別の基準、発達の基準、ジェンダーの基準、働き方の基準、これらすべては社会を効率よく運営するために人為的に作られた、いわば「裸の王様」にすぎません。その基準に適合するために、過労死するほど働いたり、適合するための努力をしていないように見える人を攻撃してまで、もはや通用しなくなるであろう基準に適合するための努力を続けるメリットはないと言えるでしょう。

2013年6月22日 (土)

分断支配の乗り越え方 うまくいっている側の問題を明らかにしよう

 以前「分断支配とどう向き合うか」というタイトルの記事を書きました。抑圧者は被抑圧者を分断することで団結できなくし、抑圧的な構造を解消する運動を封じ込めることができます。現在労働者が置かれている立場も同じような状況にあり、立場の異なる労働者が団結できずにいます。先日、そのような分断が起こってしまう背景を的確にあぶり出し、その解消へのアイディアを提案する素晴らしい著書と出会いました。それがこちら。

貴戸理恵
『「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに 生きづらさを考える』

ある問題が起こった時に、「当事者の能力が足りないからだ。自己責任だ」という意見もあれば「社会的な問題があるのだから個人の責任ではない」という意見も主張されます。そして、だいたいの場合はそれらの異なる意見が妥協点を見いだすことはなく、平行線のまま議論は終わってしまいます。それは、「当事者の能力が足りないからだ」という意見も「社会的な問題があるからだ」という意見も、ぞれぞれ単独では正しい意見だからです。どちらも現状を説明する意見として成立し得るからです(私の個人的な意見としては「個人の能力を養い、活用する環境を整える」ということも含めて社会環境の改善を最大限に行うべきだと思っています)。この著書では、個人と社会の双方を視野に入れ、その関係性によって考えようと提案しています。
 この著書では、本来個人に属すものではなく、関係性によって計るべきものまで個人化されていることを指摘しています(コミュニケーション能力、人間力等)。その指摘も非常に重要な意味を持つのですが、この記事では分断支配に関係のある部分だけを紹介したいと思います。60ページほどの短い著書なので、少しでも関心を感じたらぜひ読んでみてください。

 まず『なぜ「私たち」は「彼ら」を聞けないのか』という章から引用してみます。

 「関係的な生きづらさ」は一般的な理解が得られにくく、「働いて自活している人」の側からは、しばしば「甘えているだけではないか」というバッシングにさらされます。しかし、それとは裏腹に本人が深い悩みや苦しみを持っている場合は少なくありません。本人の主観的現実の厳しさは周囲に届かず、周囲からの否定的評価に本人は身をすくめます。
 このようなディスコミュニケーションはどこからくるのでしょうか。「コミュニケーション」とは二者間の相互作用ですから、その不成立は、双方のあり方に遡って検証される必要があります。
(中略)
 一方で、そうした語りを「聞く側」はどうでしょうか。
 「聞く」とは「相手の語りに耳を澄ます」という受動的な行為ですが、同時に、語り―聞く相互関係を通じて、語りの内容に影響を与える能動的な行為でもあります。たとえば、不登校やひきこもりの経験は、共感的な聞き手を得ることで、豊かに紡ぎだされることがあります。一方で、聞き手の側が「学校に行くのが当たり前」「まっとうな人間なら働くべき」という枠組みを強固に持っていれば、語られることは難しくなるでしょうし、仮に語られたとしても聞く耳を持ってもらえず、結果的にないものにされてしまうでしょう。
 多くの場合、聞き手にとって「病や障がいで働きたくても働くことができない」「働いているにもかかわらずワーキングプアで貧困から抜け出せない」という事態を理解し得ても、「働いてもすぐ辞めてしまう」「働くことに向けて一歩が踏み出せない」という事態を理解することは困難です。
 それを踏まえ、ここでは、「なぜ「私たち」には「彼ら」がわからないのか」と問うてみたいと思います。一定程度「語られている」にもかかわらず、「無理解」が絶えないとすれば、問題は「語る側」ではなく「耳を傾ける側」にある可能性があります。
 とはいえ、それは「彼らの立場に立って、共感的に受け止める」という精神論にとどまりません。それでは結局のところ、「分かる人には分かるが、分からない人には分からない」ものとして、思考の放棄に陥ってしまうでしょう。そうではなく、聞き手側が前提している理解の枠組みを見なおすことで、理解を不可能にしているしくみについて考えてみたいのです。

このように具体的な例を挙げてもらえると非常にわかりやすいのですが、受け止める側の姿勢が関係性にもたらす影響は無視できるものではありません。それは1対1でのコミュニケーションにおいてもそうですが、社会全体が受け止める側になるときにも当てはまります。「聞く」「受け止める」という行為は、情報伝達の結果に影響を与える能動的な行為なのです。

次に『「わたし」のポジションから考える』という章から、現時点において成功しているように見える人とうまくいっていないように見える人との間に生じるディスコミュニケーションについての解説を見てみましょう。

 もうひとつ、考えなければならないことがあります。それは、「学校に行き、働いて自活している人」は、じつは「聞けない」のではなく、「聞きたくない」状態にあるのではないか、ということです。これは一見うまくいっているように見える「働いて自活している人」のあり方に関わることであり、重要です。
 過酷な市場競争は、「仕事をしない/できない人」だけでなく、「働いて自活している人」をも巻き込んで広がっています。一方に、競争の中で重圧を感じ、力尽き、立ち止まってしまった人びとがおり、他方には、その同じ競争で勝ち残ることを求められ、できうるかぎりのパフォーマンスでそれに応える人びとがいます。そのとき、「問題あり」と見なされるのは前者です。「働いて自活している人」は、「正常」の「あるべき」状態と見なされ、そのあり方をあまり問い返されることはありません。けれども、「正常」だと見なされている人びとが、問題を抱えていないわけではないでしょう。
 たとえば、熊沢誠(二〇〇七)は、長時間労働やノルマの重圧といった正社員の仕事の過酷さに触れ、「フリーターは燃え尽きた正社員の明日」としながら、非正社員と正社員はともに同じ構造のなかでひずみを抱えているのであり、仕事は、自己の人格や他者との関係を投入することを要求し、市場はそれを「売れるか否か」というグローバルに通用する価値によって一元的に評価します。「売れる」とされることも「売れない」とされることも、自己の人格や他者との関係を値踏みされる点で同一の基盤に立っているのであり、追い立てられるように「勝つこと」を求められ続ける人は、やっぱり生きづらさを抱えていると言えるでしょう。
 その証拠に、「働いて自活している人」はしばしば、「仕事をしない/できない人」に対してバッシングを向けます。たとえば、次のような言い方を耳にしないでしょうか。
「五体満足でその気になれば働けるのに、意欲がなくて働かない。そんな人間は怠け者で、甘えている。おまえがひとり楽をしているあいだに、世の中の人は必死であくせく働いて稼いでいるのだ。その血税で、怠け者のための就労支援の予算に年間数億円も使われているのは我慢できない。働きたくても働けないか、働いても貧しいならまだしも、働けるくせにただ楽をしたいから働かないでいる人間に、なぜ私の大事な金を使わなければならないのか?」
そこにあるのは、「私には関係ない」という無関心や、「しょうがないではないか」という諦めではなく、「許せない」という憎悪です。
明確な理由がないように見えるにもかかわらず働いていない人間が、ひとり「楽」をしているかもしれない事態を、「働いている私たち」は見過ごすことができません。「私たち」は「彼ら」を、ただ無視するだけでは飽き足らず、怒りをぶつけ、激励し、憐み、貶めます。(中略)
なぜでしょうか。それは、「私たち」が生きる現実が過酷であることと、無関係ではないでしょう。疲れの取れない体を布団から引きはがす朝。学校も仕事もなく、自然に目覚めるまで起きる必要のない存在を、人は憎悪せずにいられません。そこには、もしかしたら自責の念に耐えながら布団のなかで丸まっているかもしれない存在の苦しみが、創造される余地はありません。「彼ら」の存在は「私たち」に疑念を起こさせるのです。「頑張って耐えて仕事に行くことは、避けようと思えば避けられることなのではないか?」と。「競争から降りる」というオプションは、競争に勝ち続けている者の忍耐を侮辱するのです。
それにしても、体調や精神のバランスを崩しながら働き続けることや、先の見えない不安をやり過ごしつつ目の前の仕事に没頭することが、「適応」と呼ばれるならば、「適応」が望ましいことだと本当に言えるでしょうか。「生きづらい」のは、いったいどちらの側なのでしょうか。
このように考えてみると、本書の冒頭で述べた「関係性の個人化」の問題点が再び見えてきます。「コミュニケーション能力」や「社会性」という言葉は、「学校に行かない子どもには社会性がない、社会性を身につけさせて学校に適応させよう」「ひきこもりの若者にはコミュニケーション能力がない、コミュニケーション能力を身につけさせて職場復帰させよう」というふうに、問題の設定の仕方を一方向的にします。このように言うことで、「学校に行き、働いて自活している側」を反省的に問い直すことなく、「学校に行かない/働かない側」にのみ、問題を押し付けてしまうのです。
「私たち」は、「コミュニケーション能力」という言い方を採用することによって、逆に、「彼ら」とのコミュニケーションを途絶させてきたのかもしれません。「関係性」の問題であれば、改善の責任は「私たち」と「彼ら」の双方にあることになり、少なくとも、①「私たち」が「彼ら」に合わせる、②「彼ら」が「私たち」に合わせる、③相互に調整する、という三つの選択肢が生まれます。「関係性の個人化」は、相互交渉の失敗を相手の責任にのみ帰す点で、「対等な交渉相手」として関係形成を望むことからの逃避であり、「社会」に居直る側のおごりではないでしょうか。

長い引用になりましたが、非常に無駄のない文章で省略できる部分がほとんどありませんでした。貴戸氏が指摘しているのは非常に重要な点です。以下にまとめてみましょう。

・現時点において問題なく自活できているような人も、うまくいっていないように見える人も、同じ抑圧を受けている
・受けている抑圧が同じであるからこそ、努力して適応している人は自分と同じ努力をしていないように見える人を憎悪する
・そもそも抑圧的な環境への適応など望ましくないものである
・その抑圧自体には目が向けられず、適応できていない人たちの個人的な問題だとされている

いずれの指摘も現在の日本社会における分断支配の構造を的確にあぶりだしています。怠けているように見える人に対して「みんな我慢しているのだから、あなたも我慢しなさい」という非難の言葉がよく向けられますが、問題があるのは「みんなが我慢しなければならない状況」そのものにあります。適応できない個人にのみ問題を押し付けてしまう状況を解消するには、適応できない個人を責めてしまう「私たち」に対し、そのことを根気よく語り続ける必要があるのでしょう。

2013年5月21日 (火)

自己啓発派 VS Born This Way派

 前回の記事では、弱者と呼ばれる人たちの問題は当事者とされる人たちだけの問題ではなく、すべての人に関係があるのだということを強調したくて「社会全体の利益」という言葉を多用しました。しかし、私が大切だと思っているのは、その社会全体の利益が何のために存在するのかということです。前回の記事では、宮沢賢治の「世界全体が幸福にならないかぎりは、個人の幸福はありえない。」という言葉を紹介しました。私は「個人の幸福の実現のために、世界全体の幸福は存在する。」と考えています。宮沢賢治の言葉を言い換えただけですが、そのことを念頭に以下を読み進めていただけると幸いです。

 自殺予防活動で知られるNPO法人ライフリンクが、若年者の自殺の増加の原因を探る一環として、就職活動中の学生を対象とした「就職活動に関わる意識調査」を行いました。その細かい結果については、リンクからPDFの資料を見ていただければと思います。この調査結果の中に、何か引っかかるものを感じました。調査項目の中に、日本社会に対するイメージについての質問があります。その結果は以下の通りです。

Q.25: 日本社会は、、、
・いざという時に、「援助してくれる(35.0%)」VS「何もしてくれない(65.0%)」
・やり直しが、「きく社会だ(42.5%)」VS「きかない社会だ(57.5%)」
・正直者が、「報われる社会だ(31.1%)」VS「バカを見る社会だ(68.9%)」
・「希望を持てる社会だ(36.7%)」VS「あまり希望を持てない社会だ(63.3%)

じつに半数以上の回答者が日本社会に対してマイナスのイメージを持っています。次に、困難や問題に直面した際の考え方についての調査結果を見てみましょう。

Q.30: 困難や問題に直面した時、どのように考えるか、、、
・困難が生じた原因を、「自分の中に探る(82.5%)」VS「外部の環境の中に探る(17.5%)」
・「自分だけで解決しようとする(55.0%)」VS「誰かに頼ろうとする(45.0%)」

この調査結果から、困難が生じた原因や対応は「自己責任」と考える人の方がよほど多いということがわかります。さて、この2つの調査結果を並べてみると、何とも不思議な印象を抱いてしまいます。現在の日本社会には何らかの問題があると感じている若年者が多くいる一方で、何か問題が生じた際には自分の中に原因を探る若年者の方が多いのです。どうして、ある種矛盾を抱えているとも言えるこのような結果が生じたのでしょう。

 巷には多種多様な自己啓発の書籍などがあふれています。自己啓発とはザックリ言うと「もっと幸せに生きるために、自分を成長させよう」「もっと成功するために、自分を変えよう」という考え方のことです。ビジネスだったり学業だったり人間関係だったり、自己啓発で取り扱う分野は多岐に渡りますが、「他者や環境を変えるより、自分を変える方が簡単だ」という考えが根底にある点は共通していると思われます。この「他者や環境を変えるより、自分を変える方が簡単だ」という考え方は、多くの人にとってうなずけるものだと思います。自分自身は自分の意識によってコントロールできるものであり、望ましい結果を得るためには、自分を変えるのが一番手っ取り早い手段となります。そこで、多くの人は弛まぬ努力と鍛錬によって自身の能力を高め、自分を変えることによって望んだ結果を得ようとするのです。

 しかし、自分を変えることには限界があります。そして、限界までのラインは人によって異なります。また、その限界によって克服できない能力の不足が「障がい」となるかどうかは、社会のデザインによって決まるというのは、前回の記事で紹介した通りです。前回の記事になぞらえて言えば、望む結果を得るために取り得る手段のうち、自分を変える方針を「個人モデル」、他者や環境を変える方針を「社会モデル」に当てはめることができるでしょう。繰り返しになりますが、多くの人は望む結果を得るためにまず自分を変えるというアプローチを試みます。それは、自分を変える方が他者や環境を変えるより容易だからです(ここで言う「容易」「簡単」というのは、単に「努力の総量が少なくてすむ」という意味ではありません。意識によるコントロールが可能で、努力と成果が結びつきやすいという意味合いの方が大きくなります)。そして、その考え方が障がい者支援にも応用され、まずは障がいを持つ人が可能な限り自力で適応できるように努力し、足りない分を社会的に支援するという「個人モデル」が障がい者支援の主流として活用されてきたのだと考えられます。

 しかし、これでは障がいを持つ人は、限界ギリギリまで努力して初めて支援を受けられるという状況におかれることになります。そのような状況をなんとかするため、障がいを持つ人は他者や環境に働きかけ、自分ではなく周囲を変化させる必要に迫られてきました。そして障がい者は、障がい者運動によって支援制度を作ったり、また直接介助に関わる人との対話によってより良い介助・被介助の関係を築いたりと、あらゆる規模で実現してきましたし、現在でも様々な試行錯誤が繰り返されています。

 さて、話をライフリンクの調査結果に戻しましょう。なぜ若年者は社会に不満を感じながらも、問題が生じた際にはその原因を自分の中に探ろうとするのでしょうか。それは、自己啓発のところで述べた「他者や環境を変えるより、自分を変える方が簡だ」という考えが根底にあることが関係していると考えられます。つまり、「困難が生じた際に自分の中に原因を探る」というのは、「社会にはたくさん問題があるけれど、その状況を変えることなんて自分だけではとてもできそうにないから」という隠れた枕詞が伴った回答であると解釈できるのです。今回の調査が就活生を対象としたものであることも、こうした傾向を顕著にした要素だと考えられます。就活生の立場からしたら、就活の慣行に疑問や不満を感じることがあっても、優先するべきことはまず就職先を確保することであり、就活のあり方を変えるために何か就活生の立場からできることはないかと考える余裕を持つことは難しいでしょう。

 社会保障などの社会的支援を利用する人に対して「甘え」であると非難の声を向ける風潮が現在の日本社会を覆っています。これは、個人モデルを根底に持ち、自助努力に最も重要性があるとの考え方がこの社会に生きる多くの人の支持を得ていることによるのでしょう。しかし、個々人の能力を伸ばす工夫については様々な場面がなされ、もはや飽和状態とも言えるような印象ですが、それぞれの能力を最大限に引き出すことによって社会全体の生産性を高めようという方向性の議論は十分に深められているとは言えません。それは、自助努力による成果は、行動と成果の因果関係が見えやすく、また短期で成果が表れることもあるのに対し、環境の変化による成果は、自助努力によるものと比べて因果関係が見えにくく、得られる成果も長期的なものが多いことによるのだと思われます。そういった要因もあって、環境を個人に柔軟に対応させるための工夫を怠ってきてしまいました。私たちが個人に対し「甘えだ」という非難の声を向けることは、社会の変化を促す機会を逃し、社会を甘やかしてしまうことになるのです

 これまで、私たちは「自分を変える」という安易な手段に依存し、社会を変えるという方向の大切な努力を怠ってきました。2011年にリリースされたLady Gagaのアルバム「Born This Way」は全世界で200万枚の売り上げを記録する大ヒットとなりました。もちろん楽曲としての素晴らしさによる評価もあるでしょうが、この曲に込められた「ありのままの自分を生きることは素晴らしい」というメッセージに多くの人が共感したことが、この大ヒットの要因となったのだと考えられます。また、その背景として、多くの人が個人の変化と成長に依存する社会のあり方に疲弊していると考えることもできます。障がい者やセクシャルマイノリティへの応援メッセージを込めた曲ではありますが、そのメッセージに励まされた人はその枠を大きく超え、多くの人に愛される曲となりました。また、この曲のヒットは、それまでの自助努力による個人の成長によって成り立つ社会のあり方と個人の生き方を見直すきっかけを多くの人に与えたことでしょう。

 では、「社会を変える」「環境を変える」といったことを実現するにはどうすればいいのでしょうか。それを考えるには、まず「社会とは何であるか」を定義しなければなりません。漠然と社会と言うと、非常に大きなものを想定しているように思えてしまいますが、そのじつ社会とは、私たち一人一人のありとあらゆる営みの集積でしかありません。結局のところ社会を変えることは個人を変えることなしには実現しないのですが、その努力の方向性を変えようという話なのです。個人を変える努力はその当人だけに影響を及ぼす「閉じた努力」です。それに対し、社会を変える努力は他者との関係性に作用する「開いた努力」です。具体的には、例えば職場を想定すれば、社員がもたらす利益を上げるために企業の上層部がとり得る手段は、研修等により社員一人一人の能力の向上を図る方向性のものもあれば、社員一人一人の勤務内容や勤務時間などの環境的な要因を変えることによって生産性を向上させるものもあります。「やむなしブラック企業を救え!」って具体的にどうするの?という記事では、多元的人事管理の重要性を紹介しましたが、まさに環境的な要因の改善によって生産性を高めようという方向性の努力の大切さがその根底にあるのです。

 また、個人を変える努力と環境を変える努力は対立的なものではなく、むしろ相互作用によって大きく成果を生み出すものであります。おかれている環境が変われば、そこでの能力の発揮の仕方も変わり、その変化がまたその個人にとって最適な環境のあり方を変化させ、有機的に環境と個人の相互作用が起こります。例えば、前回の記事でも紹介した熊谷晋一郎の著書『リハビリの夜』では、彼が一人暮らしを始めたことから、1人で用を足せるようにトイレを改築していく過程が描かれています。それは同時に彼とトイレとの関係性の変化の過程でもあり、何とも不思議なワクワク感というか、読んでいて冒険心を刺激されるような奇妙な感覚を得ることができます。また、介助の場面における介助者への関わり方によって介助の質を変えていく過程は、まさに介助を受ける側の主体的な呼びかけが持つ役割の大きさを示しています。このように、他者や環境に働きかけ、変化を呼び起こす作法については、障がいを持つ人こそ長けている分野だと言えます。そのスキルをあらゆる場面に応用することにより、私たちはもっと質の高い生を享受することができるようになるでしょう。

 今回の記事では、「他者や環境を変えるより自分を変える方が容易であるため、現在の日本社会ではそういう方向性の努力に重きを置き過ぎている」「とは言え、他者や環境に働きかける方向性の努力は得られる成果が大きいだけでなく、またその過程も楽しく豊かなものにできる可能性を含んでいる」という2点を強調しました。これまで私が、べてるの家に見学に行ったりセクシャルマイノリティのイベントに参加したりしてきたのは、彼らが環境に働きかける方向での努力においては先輩であり、彼らの築いてきたスキルから学ぶことが非常に有用なものであるという確信があるからです。そういうスキルの普及に私自身も何か貢献できればと考えています。

2013年5月14日 (火)

多元型人事管理から多元型社会へ すべての人に社会モデルを!

 以前、「「やむなしブラック企業を救え!」って具体的にどうするの?」という記事を書きました。市場の成熟化と労働市場の変化から、企業の人事管理を多元的なものに変えなければいけないよ、という内容の記事です。よかったら読んでください。この記事では今野浩一郎氏の『正社員消滅時代の人事改革』からの引用をたくさん紹介しましたが、特に強調したかったのはこの一節です。

改めて定義すると「ダイバーシティー・マネジメントとは、多様な人材を組織に組み込み、パワーバランスを変え、戦略的に組織改革を行うことである。ダイバーシティー・マネジメントの第一の目的は組織のパフォーマンスを向上させることにある」ということになり、そこでは人材の多様化(ダイバーシティー)が進むと、組織内の統合やコミュニケーションが阻害される等のコストが発生するものの、異なる情報、価値観をもつ多様な人材からなる集団が形成されることにより組織の創造性、問題解決力等が高まり経営パフォーマンスが向上するという関連が想定されている。

多様な人材を組織に組み込むと、人事管理の面で手間もコストもかかることになります。しかし、組織の創造性などの観点を考えると、人材の多様化は長期的には有益な施策だということです。特にアイディアを活かして高付加価値の商品を世に送り出し続けることが求められるこれからの経済市場においては、企業の経営戦略として非常に重要なポイントだと言えるでしょう。

 ここまでは企業経営についての話でした。今度は視点を社会全体に向けてみましょう。日本の伝統型人事管理は高度成長期の産業構造とも相まって、非常に有効であり、世界からの関心も高かったと言います。そして、社会構造の様々な面がその一面的な人事管理に合わせ、同様に一面的にデザインされてきました。それについては「労働政策フォーラムに行ってきました。―新しい生き方・働き方とは?―」という記事で紹介した戦後日本型循環モデル(資料p.2)にわかりやすく図式化されていますので、ぜひ参照してください。こういった社会構造は、画一的であるがゆえに効率的なものでしたが、多様なライフスタイルを許容する揺らぎをもたず、弊害も多くありました。企業の人事管理に変革が求められるのであれば、当然社会の在り方にも変革が必要ということになります。考えてみれば、日本人のライフコースというのは本当に画一化されており、多数派のコースから外れることがその後の人生に及ぼす影響はあまりに大きなものです。特に時間的な順序については、かなり多様性に乏しいと言えるでしょう。個人的には、必要に応じて短期的にでも教育や訓練の機会を持ち、仕事と学習の相互作用のある豊かな生活を得ることができればと考えています。

 ここで、多数派のコースから不本意な形で排除されている存在の例として、障害について考えるため、ある著書を紹介したいと思います。神戸大学で障害共生支援やインクルージョンを研究している津田英二氏の『物語としての発達/文化を介した教育』は、タイトルだけを見ると教育についての著書なのかと思ってしまいますが、実際は社会学的な示唆を広範に含む、障害の社会モデルについて論じたものです。まず、障害の「個人モデル」と「社会モデル」についての一節を引用します。

多くの人は、障がいは障がい者に属するものとして理解している。しかし、障がい者運動や障害学は、そのような見方に対して、障がいは社会に属しているのだと反論した。一般に障がいとは心身機能や身体構造の不具合のことだと考えられているが、そうではなくて特定の人たちを排除したり差別したり無能力化する社会のあり方や構造のことをいうのだ、と主張したのである。心身機能や身体構造の不具合のことをインペアメントと呼び、特定の人たちを排除したり差別したり無能力化する社会のあり方や構造の問題をディスアビリティと呼んだ。第1章で説明した障がいの「個人モデル」は、障がいとはインペアメントのことをいうと考え、障がい者問題は障がい者個人に属するとする本質主義に則ったモデルである。それに対して「社会モデル」は、障がいとはディスアビリティのことをいうと考え、障がい者問題は私たちの持っている認識枠組みやコミュニケーションがつくりだしているのだとする社会構築主義に則ったモデルであるといえる。

専門的な用語も登場しましたが、社会モデルについて端的にわかりやすく説明しています。社会モデルの説明によく用いられるのがメガネの例ですね。例えば、視力が0.5の人は1.0の人に比べて細かい文字が認識しづらいですね。これがインペアメントです。しかし、0.5の人もメガネをかければ1.0の人と同じように生活することができます。メガネが普及していることによって0.5の視力はディスアビリティではなくなっています。あるインペアメントがディスアビリティになってしまうか否かは、社会がどのようにデザインされているかによって決まります
 さて、私が特に注目したいのはディスアビリティの説明に登場する「無能力化」という表現です。社会のあり方や構造が特定の人を無能力化するとは、いったいどういうことなのでしょう。無能力化という表現に対して「視力が0.5の人は1.0の人より、視力という能力がもともと低いじゃないか」と思った人もいるかもしれません。しかし、ここでいう無能力化とは、視力というある1つのインペアメントがあるために、その影響が他の能力にまで波及してしまうことをいうのです。
 ある会社でメガネやコンタクトレンズの着用を禁じるメチャクチャな規則ができたとしましょう。すると、視力の低い人は事務作業の能率が落ち、会議資料の大事な記述を見落とすためにミスを連発するようになってしまうでしょう。視力と仕事を遂行する能力は独立して存在するものですが、実際に仕事を遂行するにはその両方が揃っていなければなりません。この会社の例では、メガネやコンタクトレンズを封じたことで低い視力というインペアメントがディスアビリティとなり、もともと持っていた仕事を遂行する能力を発揮することができなくなってしまいました。これが無能力化です。

 実際にはメガネの使用を禁じる企業なんてまず存在しないでしょうが、企業が用意している画一的な人事管理システムに当てはまらないという理由で、活躍の場を与えていないという例は数多く存在しているでしょう。例えば、女性の年齢別労働力率に表れるM字カーブなどはその代表的なものです。育児との両立が困難なために、持てる力を発揮できない女性が現在においても少なからず存在します。
 これは人事管理以前の問題ですが、私を例に挙げると、学校という職場において業務量のあまりの多さに様々な業務のパフォーマンスが落ちるという事態に陥っていました。これは過労状態にある人には多く当てはまることですが、長時間の勤務に耐えられないという一点を克服できないことによって、他の職務上必要となる能力を生かすことができないという状態です。つまり、本来インペアメントにならないような要因までもが、社会のあり方や構造によってディスアビリティとして表れてしまうのです。よく「障がいと健常に明確な区別はなく、連続的なものである」と言われますが、これはインペアメントについて障がいと健常の境界的な例の存在を明らかにしたものです。しかし、ディスアビリティについても同じことが言えるのではないでしょうか。つまり、与えられた環境などの条件によって発揮できる能力に違いが生まれるのは、障がい者も健常者も同じだということです。障がい者運動の文脈でその重要性が認識されてきた社会モデルですが、それは健常者が能力を発揮する場面においても同じことが言えるのです。

 障がい者のディスアビリティの問題と健常者のそれが共通する点は他にもあります。それは、インペアメントが当人の努力によって改善できるかのように思われがちだということです。長時間勤務について言えば、仕事を短時間で終わらせる自助努力だとか、仕事を振られずにやり過ごす技術だとか、例を挙げればキリがありません。しかし、べてるの家を訪ねた時の記事にも書きましたが、「できるできない」の二元論ではなく、できるとしてもどれほどの負担が伴うかという量的な問題として考えるべきです。その記事でも紹介させていただいた熊谷晋一郎氏は、脳性マヒの当事者であり小児科医として働いています。彼は「2時間かければ自分で靴下がはける」そうですが、彼に2時間かけて自力で靴下を履かせるべきでしょうか。答えはNOです。そんな時間があれば、診察や研究に医師としての能力を発揮してもらう方が、当人としても社会としても有益なはずです。ぜひ熊谷氏が出演したイベントの動画も見てください。

 ディスアビリティの問題の肝は、それによって不利益を被っているのが誰なのかということです。先ほどのメガネ禁止の会社の例で言えば、視力の低い人は仕事の能率が落ち、もちろん職務上の評価も落ちるでしょう。それと同時に、会社にとっても大きな損失となることは言うまでもないでしょう。これと同じことが日本社会のあらゆる場面で起きているのです。安易に当事者の自助努力を求めることで、本来発揮されるはずの能力を封じ込めてしまうことになってしまいます。そのことで不利益を被るのは、この社会に生きるすべての人です

 今の時点では、マイノリティの権利拡大は多数派の利益を減らすものだと考える人も少なくないように感じます。全体の幸福の総量は決まっていて、それを奪い合うようなイメージを持っているのでしょう。しかし、実際は違います。様々な人に活躍の場を与えることは、むしろ多数派とされている人たちの利益も増やすことなのです。そしてそれは、ただ受け取る利益を増やすだけでなく、それぞれの人に合った能力の発揮の仕方を実現しようという考えが広まることで、すべての人がさらに生き生きと能力を発揮できるようになるかもしれません。とにかく多数派の型にはまることに躍起になっている現在の日本社会のあり方と、どちらが豊かでしょうか。「過労死するほど仕事があり、自殺するほど仕事がない」と揶揄される日本社会の現状を、何とか変えていきたいものです。

 前の記事で紹介した堀越吉太郎著『起業したい人への16の質問』では、従業員の7割が知的障害者である日本理化学工業を紹介していますし、坂本光司氏の『日本でいちばん大切にしたい会社』でも、障がい者雇用を積極的に行う株式会社大谷や株式会社ラグーナ出版などを取り上げています。このような企業が実践している社員が能力を発揮できる環境を整備する技術は、これからの日本社会を豊かにするうえで非常に重要な意味を持つでしょう。

 これまで画一的な基準に合わせることを人々に求めてきた社会から、多様な人々のあり方に合わせて柔軟に姿を変える社会へと変革することで、きっと多くの豊かさが生まれるでしょう。「すべての人に社会モデルを!」を合言葉に前進していきたいものです。

最後に、宮沢賢治は「世界全体が幸福にならないかぎりは、個人の幸福はありえない。」という言葉を残しました。彼のこれは博愛的な精神を表していると評されることが多いのですが、社会の中で共に生きる他者との関係性を合理的に表現したものと私は捉えています。

2013年4月 8日 (月)

だまされることの責任 願望と事実の混同

 今回取り上げるのは、オウム真理教を取材した映画『A』で知られるドキュメンタリー映画監督、森達也氏の著書『いのちの食べ方』です。私がこの著書及び森氏の存在を知ったのは、大学で履修していた児童文学の講義で担当教員が紹介してくれたことによります。確かあの講義ではアメリカのヤングアダルト作家であるロバート・ニュートン・ペックの『豚の死なない日』をテーマにしていたと記憶しています。その背景に関連する著書として『いのちの食べ方』を講義の最後に紹介してくれました。それが、私がずっと愛読することとなる「よりみちパン!セ」シリーズとの出会いでした。

 この『いのちの食べ方』は、私たちが毎日口にする肉の加工について、多くの人が知らずにいる状況に疑問を発することから始まります。なぜ、ほぼすべての人の生活に深くかかわる話題であるはずなのに、その実態が知られていないのか。考えてみれば確かに不思議なことです。森氏は、東京都中央卸売市場食肉市場への取材を通じ、国内における食肉の歴史や部落差別についての解説と持論を披露します。その中で、私たちが持つ差別意識や、「当たり前」とされることを盲信することによる思考停止の危険性にも触れます。様々な情報が錯綜する現在において、自分の意志で主体的に思考し行動することの重要性を認識させてくれる森氏の著書は大変大きな価値を持つでしょう。

 今回は『いのちの食べ方』から「だまされることの責任」という章を紹介したいと思います。前回取り上げた「ああすれば、こうなる」型思考との関連を考えながら読んでいただければ幸いです。

 第二次世界大戦が終わったとき、つまり日本が全面降伏をしたその後に、「国民は軍部や政治家たち、そして新聞にだまされていた」との世論が盛り上がった時期がある。だから日本は勝ち目のない戦争に突き進んだという理屈だ。ところがこれに対して、「だまされることの責任」を説いた人がいる。映画監督の伊丹万作という人だ。とてもいい文章を書いている。「戦争責任者の問題」というタイトルのエッセイだ。 

 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知っている範囲ではおれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつ分からなくなってくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はっきりしていると思っているようであるが、それがじつは錯覚らしいのである。たとえば民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中へ入ればみな上の方をさして、上からだまされたというだろう。上の方へいけば、さらにもっと上の方からだまされたというだろう。すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくらなんでも、わずか一人や二人の知恵で一億の人間がだませるわけがない。つまり日本中が夢中になって互いにだましたりだまされたりしていたのだと思う。

肉を食べる話からずいぶん違うほうにきてしまったようだけど、でももう少しこの話を続けさせてほしい。なぜなら「いのちを食べる」ことに無自覚であることの意味を考えるうえで、とても重要な示唆をこの話は含んでいる。

 つまりだますものだけでは戦争は起きない。だますものとだなされるものとがそろわなければ戦争は起こらないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかないのである。
  そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己をゆだねるようになっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無責任などが悪の本体なのである。

 戦時下で、当時としては最大のマスメディアである新聞が、戦争を翼賛する報道に変わってしまったことを批判する人は今も多い。三国同盟や国連脱退など、日本が軍事国家へ向かう道筋をたどるときの大きな節目で、これを賞賛して世論を誘導したのは確かに新聞だ。
 もちろん日本が戦争に突き進もうとするときに、戦意を高揚するような記事しか載せなかった新聞は大いに批判されるべきだ。でも、新聞がなぜそのような報道をしてしまったのかを考える人はあまりいない。軍部や国家からの弾圧に屈して、新聞は戦争を起こすことに賛成するかのような記事を書いたと、ほとんどの人が今でも思いこんでいる。
でも事実はそうじゃない。戦意を掻き立てなければ、新聞は売れなかったからだ。戦争への反対の意見を表明したら、明らかに部数が落ちたからだ。要するに当時の日本国民は、ほとんどが一丸となってだまされることを望み、その結果として新聞をその方向に追い込んだ。
 この構造はそのまま現代にも当てはまる。戦争だけじゃない。日常のいたるところにこの現象はあふれている。すべてを知るのは終わった後だ。皆が呆然と顔を見交わしながら、誰が悪いんだ?誰の責任だ?と言い合っている。でもわかるわけがない。全員に責任があるのだから。

 ここで注目するべきなのは「戦意を掻き立てなければ、新聞は売れなかったからだ。戦争への反対の意見を表明したら、明らかに部数が落ちたからだ。」という一節です。私たちは新聞をはじめとするメディアに何を期待しているのでしょうか。それは、真実をありのまま伝えることではないでしょうか。しかし、実際に起こったことは、真実を伝える報道は注目されず、大衆が「こうあってほしい」という願望を記事にしたものが売れ、事実として扱われるという事態です。もちろん、意識して真実と異なる報道を支持していたわけではないでしょう。それでも、私たちが「批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己をゆだねるようになっ」たとき、「こうあってほしいという願望と事実との区別がつかなくなる」という事態が生じるのでしょう。前回の記事で「公正世界仮説」という心理現象を紹介しましたが、それによる困窮者への自己責任の追及は、まさに「自己責任であってほしい」という願望が事実と混同されている事態だと言えるでしょう。「ああすれば、こうなる」型思考は、願望と事実の混同の一例に当たるわけです。
 権力が国民を支配するために「こう思わせたい」と事実とは異なる情報を吹聴するとき、大衆の「こうだったらいいな」という願望を巧みに利用するものです。願望と事実の混同は、プロパガンダの影響を拡大してしまう危険性を持っています。現在散見される困窮者へのバッシングには、背景としてこのような状況があるのでしょう。しかし、往々にして後にならなければ何が事実であるのかはわからないものです。私たちにできることは、そのようなプロパガンダに対してせいぜい批判的な視点を持つことですが、それこそが権力者の良いようにコントロールされないための最も有効な手段なのだと私は思います。

 視点をメディアのほうに移せば、大戦中のメディアの問題は、戦争を翼賛する報道そのものより、第三の権力としての責任を忘れて市場経済の原理を重視しすぎた点にあると言えるでしょう。メディアも商売として報道を行っているのだから当たり前だという批判もあるかもしれません。しかし、落ち着いて考えたいものです。そもそも事実と異なる情報を真実であるかのように伝えることに経済的な価値があると言えるでしょうか。そういったものに多くの人が嬉々としてお金を落としていく状況こそ、改善されるべき異常な事態です。現在においても、報道機関はその責任を十分に果たしていると言えるでしょうか。批判的に情報を受け取る姿勢を持ち続けたいものです。

2013年4月 5日 (金)

「ああすれば、こうなる」型思考の危険性

 今回の記事を書こうと思ったきっかけはこちらのツイートを見かけたことによります。

https://twitter.com/pointscale/status/305885658478686208
就活生や大学をここまで追い込んだのは、「こうすれば、こうなる」と信じ、最短距離で実現する完成した人材を欲した、企業や社会の問題でもある。「こうすれば、こうなる」というノウハウを得るには、仮説と試行錯誤の検証、というプロセスを体験することが不可欠だが、それが置き去りにされている。

「こういう行動を起こせばこういう結果が得られる」という原因と結果の関連性を単純に捉えすぎているのではないか、というメッセージを私はこのツイートから読み取りました。「こうすれば、こうなる」という因果関係は私たちが思うよりも複雑なものであり、それを読み解けるようになるには訓練が必要であるということのようです。
 さて、このツイートをみて、私は以前こんな本を読んだことを思い出しました。養老孟司著『いちばん大事なこと―養老教授の環境論』です。環境問題を扱った本なのですがその序盤にこんな一節があります。少し長くなりますが、引用します。


 
 意識が作り出した世界、頭で考えて作った世界を、私は「脳化社会」と呼んでいる。具体的には都市のことである。自然が作った人間の体と、脳化社会はあちこちで矛盾する。そのことを二十年くらい言い続けているが、十分には理解してもらえていないと思う。たいていの人は、中年になって突然、体の心配をはじめ、健康にいいとされているものを次々に試すようになる。自分の体が自然に属することをずっと忘れていて、中年になって急に気がつき、あわてだす。ふだんは田畑の面倒をみていなかった人が、突然面倒をみはじめるようなもので、まあ、間に合うわけがない。これも広義の環境問題であろう。人体という自然をめぐる話だからである。
 身体を自然の一部だと認めることは、ふつうにはむずかしいことらしい。結核が治せるようになったのは、ストレプトマイシンなどの抗生物質が開発され、それがよく効いたからだとされる。薬を開発したのは意識だから、薬はつまり人工である。しかし、イギリスに疫学的なデータを丁寧にとった研究者がいて、それによると、抗生物質が開発されるより前から、結核患者数はどんどん減っていたという。このデータに従えば、結核患者の減少には抗生物質よりも、社会経済構造が変化し、生活状態が向上した効果が大きく効いたことになる。まだ有効な薬がない時代、日本でも結核の治療は大気、安静、栄養だと言われていた。
 ではなぜ「抗生物質で結核が治った」と説明されるのか。そこには都会人の価値観がよく現れている。積極的に薬を投与したら、結核が治った。その考え方のほうを、近代人は好む。体を取り巻く状況をよくしてやったら、病気が「ひとりでによくなった」という話は、あまり好かれない。自分のおかげでよくなったと、意識が威張れない。そう思うせいかもしれない。なにかをしたから、おかげでこういう結果になった。こう考えたがる人間の性向を「ああすれば、こうなる」型の思考と呼ぶ。じつはこれが、脳化社会の基本思想である。
 「ああすれば、こうなる」という図式は、とくに体を含めた自然の問題には当てはまらないことが多い。自然はそれほど単純にはできていないからである。一般の人は、病気というと決まった原因があり、その結果ある症状が起こり、極端な場合には死ぬと考えていると思う。しかし、ある症状が起こってくる原因は、じつは無数にある可能性がある。
(中略)
 人間が理性的だと信じているやり方、つまり「ああすれば、こうなる」という考え方は現代社会の基本常識だが、じつは基本的に問題を抱えている。そのことを、だれでも知っているべきだと思う。もちろん都市社会はそれが成り立つようにつくってあるのだから、ふつうはそのやり方でうまくいく場合が多い。しかし、そうならない可能性はつねにある。自然のなかでは、むしろそうならないのがふつうである。「柳の下にドジョウがいるとは限らない」のである。
 「ああすれば、こうなる」式の思考がはびこるようになったのは、人間が自然とつきあわなくなったからである。自然はたくさんの要素が絡み合う複雑なシステムである。だから、自然に本気でつきあっていれば、「ああすれば、こうなる」が通らないことが体験できる。でも人工環境では、そのことに気づかない。教わる機会を逸するからである。人工環境とは、むしろ「ああすれば、こうなる」が成り立つ世界のことなのである。そうなるように人間が、つまり意識が都市をつくったのだから、それで当然である。むろん都市の外、つまり自然に対しては、それが成り立つ保証はない。

まとめると「物事の結果にはたくさんの要因が複雑に影響しているが、都市生活に慣れている人たちは意識的にとった行動が結果を生み出したと思いたがる」ということになります。そして、その要因として自然と付き合わなくなったことを挙げていますが、別に私はこの記事を通して「自然ともっと触れ合うべきだ」と訴えたいのではありません。私が言いたいのは、養老氏とは意見が異なりますが、都市社会の中でも「ああすれば、こうなる」が通用しないことはいくらでもあるということです。自然と人間社会の接点とも言える農業を例に挙げれば、たとえどんなに努力して農作業に励んだとしても、冷害や干ばつなどの自然現象の影響は、人間が行う努力によるものよりずっと大きいものです。そういった、人間の努力の及ばない外的要因は、都市社会の中にも無数に存在します。

 例えば、学力とその家庭の経済力の相関関係は、今や疑いようのないものとして扱われています。学力向上に及ぶ影響としては、本人の努力以外に、教員との相性、学級の雰囲気、家庭内に落ち着いて学習できる環境があるかなど、様々な要因が挙げられます。冒頭で引用したツイートでは就活を話題にしていますが、就活の成果に関しても、同様のことが言えるでしょう。住んでいるところが地方か都心かによっても、就活にかかる費用や時間は大きく異なります。何か1つの結果が生じるまでに、当人のあずかり知らない無数の要因が複雑に影響しているのは、自然環境の中でも現代社会の中でも、程度の差はあれど同じだということです。もちろん都市社会の中で起こる現象は自然環境よりも予想がつきやすく、訓練によってそのノウハウを獲得することはある程度可能だと思われます。投資家や成功している企業経営者は、そのノウハウを熟知している人たちだと言えるでしょう。冒頭のツイートではその訓練の機会をいかに確保するかを問題にしているわけです。

 この「ああすれば、こうなる」型思考の裏にあるのは、「物事をなるべくシンプルに理解したい」という欲求と「(ある程度成功している)自身のポジションは自分の努力によって獲得したものだと思いたい」という欲求です。前者に関しては、私たちのあずかり知らない影響を考慮に入れて複雑な因果関係を繊細に捉えることを面倒に感じ、その労力を惜しんでしまう心理の表れでしょう。後者に関しては、もちろん自身の成功の要因を「運によるものだ」と考えるより「自分の手柄だ」と考える方が気分が良いですから、当然の欲求と言えるでしょう。公正世界仮説という心理用語があるようです。メルビン・ラーナーという心理学者が提唱したものらしいのですが、「世界がコントロール可能であり予測可能であってほしいと願い、それが高じて世界は公正だと思い込むようになる」心理現象とのこと。まさに「ああすれば、こうなる」型思考を説明するのにぴったりの言葉です。「ああすれば、こうなる」型思考の弊害は様々ありますが、最も顕著なのは生活保護叩きや就活に失敗した人たちへのバッシングなど「努力をしなかった結果困窮しているのだから、支援する必要はない」という世論を形成してしまうことでしょう。私たちは自身の今のポジションを「自分が努力した結果だ」と思いたいものです。困窮している人たちへのバッシングは、そういった欲求とワンセットのものです。困窮しているという結果の要因として、個人の努力と環境的な要因がどれほどの割合で生じているのかは、数値で表すことができない以上「これが唯一の絶対的な要因だ!」と断定することはできないのです。また同様に、「これさえ解決すればすべてうまくいくはずだ!」と問題の原因を1つのものに求めてしまうのも、やはり危険なことだと言えるでしょう。(よかったら「浦河ぱぴぷぺぽ紀行2「人は病気を治すためだけに生きるのではない」」を参照してください。)

 実際問題として、1つの原因と結果がストレートに結びつくことはあまりないと言って差し支えないでしょう。「カオス理論」や「バタフライエフェクト」なんて言葉もあるようですが、あまり専門的なことは私にはわからないので、関心のある人はご自分でググってください。実際に飛行機を飛ばしたり、月への有人飛行を成功させた人たちというのは、関連する要因を事細かに考慮に入れて緻密な計算を積み重ねることによってそれを成功させているわけです。
 よく、生活保護バッシングの文脈で「努力が報われる社会にしろ」という主張が見られますが、因果関係を単純に捉えすぎているという問題はあるものの、「努力が報われる社会であってほしい」という願いそのものは真っ当なものです。しかし、本気でそう願うのであれば、他者を攻撃するのではなく、それを実現するために具体的に何をするべきかを建設的に考えなければなりません。それは、飛行機や宇宙ロケットの開発のプロセスと同じように、社会構造をつぶさに分析し、「努力が報われる社会」の実現のために必要な政策を緻密に考えていくことが必要です。現時点においてそれを実現しているのは、北欧を中心にみられる高福祉国家の姿のように私には思えるのですが、みなさんはどう考えるでしょうか。

2013年1月 2日 (水)

「国内フェアトレード」のススメ

 明けましておめでとうございます。新年1つ目の記事となります。

 さて、いきなりですがフェアトレードという言葉をご存知でしょうか。日本でフェアトレードの普及を目指すNPO法人フェアレード・ラベル・ジャパンのウェブサイトには以下のような説明が載っています。

フェアトレードとは直訳すると「公平な貿易」。つまり、開発途上国の原料や製品を適正な価格で継続的に購入することにより、立場の弱い開発途上国の生産者や労働者の生活改善と自立を目指す「貿易のしくみ」をいいます。

わざわざ「フェア」であることを標榜する背景として、公正でない貿易が行われているという現実があります。例えば、発展途上国における児童労働であるとか、危険な農薬を使用することで生じる健康被害や環境破壊など、貧困に起因する様々な問題が現在においても多く残っています。それを解決する手段として、流通や生産の仕組みを末端の生産者にも適正な利益が回るように設計しようというのがフェアトレードという取り組みです。(フェアトレードが必要とされる背景については、フェアレード・ラベル・ジャパンのウェブサイトにさらに詳しい解説があります。)

 このフェアトレードの市場規模ですが、日本国内においては2008年までは年間30~50%世界においては10~30%の成長率で拡大を続けてきました。フェアトレードというものの認知度の高まりと、その意義の理解が進んできた結果といえるでしょう。多くの場合、フェアトレードの商品は他の商品に比べて価格が高くなっています。生産者に適正な賃金を保障するという目的のために、どうしても価格を高く設定せざるを得ません。それでもフェアトレードの商品を選ぶ人が増えているのは、自身の買い物が世界中の人々の生活の質に与える影響についての理解が広まっているということでしょう。貧困問題の解決の手段としては寄付などの資金援助もありますが、寄付ではそれに依存し続けなければならないのに対し、フェアトレードではビジネスの形態を採ることで生産者が自立的に働くことが可能になります。CSRの普及についても言えることですが、私たち一人一人が消費市民としての責任を負っているという事実について、私たちはもっともっと学ぶ必要があるでしょう。というのも、拡大を続けているとはいえ、国民一人あたりの売上高を比較すると、先進国の中でかなり低いのです(2011年フェアトレード認証商品の市場規模と国民一人あたりの売上高)。

 このフェアトレードですが、一般的には先進国から途上国への経済支援の一環とみなされています。今回の記事のタイトルである「国内フェアトレード」とは、フェアトレードの理念に基づいて、国内の企業のうち、労働者を適切に扱っている企業を消費者の立場から応援しようという運動です。なぜこのような運動が必要かといえば、現在の日本社会において、企業が労働基準法を遵守し労働者を適切に扱うインセンティブがほとんどないのです。まず残業代ですが、基本的には25%増し、月60時間を超えてやっと50%増しという低い水準になっています。国際水準では初めから50%増しという国が多いのです。休日出勤も35%の割増賃金を払えばすみますし、なんと休日出勤には8時間の労働時間の規制が適応されず、たとえ8時間を超えて働いても25%の割増はないというから驚きです。そして、ブラック企業の問題を語る上で避けて通れない話題ですが、そもそも残業代を払わない企業が多く存在するという事実があります。サービス残業とかなんとか呼ばれるものですが、その実賃金未払いという違法行為です。それが公然と見過ごされる(私たちが見過ごしているというべきですね)のが現在の日本社会です。残業代が法律でいくらに設定されていようとも、サービス残業という風習がある以上は関係ありません。そのうえ、日本は1日の労働時間を8時間以下と定めたILO1号条約にも批准していません。企業は審判のいない競技に参加しているようなもので、その背景には厚生労働省職員や労働基準監督官の圧倒的な不足という問題があります。いわば、この国のディーセントワークは良識ある経営者の善意によって成り立っているという時代錯誤も甚だしい状況にあるのです

 本来であればこれらの問題は、行政の手によって公的に解決するのが筋でしょう。しかし、その実現が見込めないのであれば、それを市民の手で自治的に作り上げるという手段があります。労働者を適切に扱う公的なインセンティブが無いのであれば、私たちで作りましょう。ブラック企業という言葉が広く知られるようになって久しいですが、この国にも雇用や賃金をめぐる様々な不正があり、過労死に代表される労働問題が深刻な社会問題となっています。途上国の抱える問題と比べて規模は小さいかも知れませんが、問題構造は類似点が多くあると言えるでしょう。というわけで、ここに「国内フェアトレード」を提唱したいと思います。というところまで考えて、大きな問題にぶち当たりました。そもそも、労働者を適切に扱っている企業はどこなのか、私を含め多くの消費者はわからないのです。ここで「ホワイトアクション事例集」の登場です。もともとは求職者が安心して働くことのできる職場を選び取るためのサービスとして考えたホワイトアクション事例集ですが、そのような情報提供としての役割も期待できるではありませんか。そんなわけで、ホワイトアクション事例集の実現に向けて今後も尽力していきますので、今後とも応援いただけるのと光栄です。そして、ブラック企業の問題の解決のために、誰もが消費者の立場で貢献できるという事実についてもご一考いただければ幸いです。

 途中で紹介した残業代やILO条約についての情報は、和光大学教授の竹信三恵子先生の著書『しあわせに働ける社会へ』から得ました。日本の労働問題の本質を明らかにする素晴らしい著書ですので、一読をお勧めします。また、竹信三恵子先生の登壇したシンポジウム「雇用崩壊とジェンダー」についての記事もどうぞ一読お願いします。

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